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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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160 保温24時の得意料理

 同居してわりとすぐのお話。

 本当は、着替えなんてどうにでもなった。




 『保温時間:24時間』

 その表示に、ゆかりの口から深い深い溜め息がこぼれる。

 炊き上がったら小分けにして冷凍しておこうと思っていた三合のご飯は、無残にも炊飯ジャーに放置されたままだった。

 うーん、どうしたものか。チャーハンにしようかしら? いやでも、三合ものチャーハンなんて食べきれないや。


「何かないかなぁ」


 最近増えてきて困ってる独り言をまた呟きながら冷蔵庫を捜索していると、出てきたのはこの間安いという理由だけで買った油揚げ。

 しかも、なぜか六袋も。半ダースって、なんで私はこんなに買っちゃったんだろう。謎だ。でも助かった。


「よし! おいなりさんを作ろう」


 実はおいなりさんは得意料理のひとつ。おばあちゃん直伝だ。

 ご飯も少し固くなっちゃってるし、酢飯にするにはちょうどいい。

 作るの久しぶりだな、おいなりさん。

 たくさん作って、実家にも差し入れよう。


 油揚げは三角に。石川家では、お稲荷さんと言えば三角稲荷が定番だ。

 しっかりと油抜きをしたら、鍋に均一に並べていく。味付けは、醤油と砂糖、あとは和樹さんが作ったお出汁のストックを少々拝借。

 この家の冷蔵庫の中には、いろんな種類のスープストックや手作りのカレールーなどが入っている。どれも和樹さんが作ったものだ。勝手に使っていいとは言われてるけど……。

 一体、彼のどこにそんな時間があるのか。


 帰って来たとき、彼は時々朝食を作ってくれる。多分そのときに一緒に仕込んでるんだろうけど。たまにしか帰ってこれなくて、夜も遅くて朝も早いのにこんなものまで作っちゃうなんて本当に彼はマメで器用だ。


 私と和樹さんを比べたら、確実に彼の方が料理上手。私なんて最低限身につけたも同然のものでしかないのに。

 それでも美味しいって食べてくれるから、あまりない料理の腕をふるいたくなる。


 ご飯にすし酢とごまを混ぜると、少し黄色くなっていたご飯も美味しそうな酢飯に変身した。

 あとは、丸めて詰めるだけ。だけど、その作業が割と大変だ。しかも三合分もあるわけだし。

 ああ、彼だったら器用にひょいひょい作っちゃうんだろうな。


 ヴーッ、ヴーッ。

 そう、この家の家主のことを思い出していると、カウンターに置いていたスマホが着信を告げた。


「あら、誰かしら?」

 酢飯でべたべたの手を一旦水で洗って、エプロンで拭く。

 視線の先にあったスマホの画面に映る名前は。最近アドレス帳に新しく登録された名前。

『和樹さん』


「もしもし?」

『あ、ゆかりさん?』

「はいゆかりですけど、和樹さんどうかしました?」

 彼から電話なんて珍しい。緊急事態だったらどうしようと、若干不安になっていると、電話口から申し訳なさそうな声が。


『本当に申し訳ないんだけど、僕の着替え準備しておいてくれますか? 今から取りに行くから』

「了解しました」

『ごめんね』

「いえ、お疲れさまです!」


 ということは、また彼は仕事で当分帰ってこれないのか。

 たまにある着替え準備要請は、彼がものすごく忙しい証拠。

 アイロンを掛けておいたワイシャツを数枚選ぶ。下着類は、きっと帰ってきたら彼自身が準備するだろうから私は靴下まで。

 きっと、和樹さんお疲れだろうな。なにもできない自分が悔しい。

 彼の仕事を代わることは当然できないし、そうなると安易に休めと言うこともできない。

 なにか、私にもできることがないかな……。


「あ!」

 突然の私の大声に、ブランくんがびくりとしたのが目の端に映った。




「はい、これ着替えです」

「急にごめんね。ありがとう」

「いえ! あと、これ。いっぱい作りすぎちゃって。良かったら職場の皆さんと食べてください」


 三十分かそこらで帰ってきたお疲れ気味の和樹さんに差し出したのは、重箱いっぱいに詰めたおいなさん。

 これが私に出来る精一杯のことだったんだけど……お重を差し出された和樹さんは、少し黙り込んでしまった。


「迷惑でした?」

「いや、あいつら喜ぶよ。こういうのに飢えてるから」

 よかった。優しく微笑む彼に、心底ホッとする。


「いつもお仕事中はどんなもの食べてるんですか?」

「カップ麺とか、牛丼とか」

「え、野菜は? ビタミンは?」

「ビタミンは栄養剤で」

「身体が持ちませんよ、そんなんじゃあ」

「それが意外と皆元気なんだよ。タフな連中のあつまりだから」

「そういうのは後からガタがくるんですよ? 今からちゃんと労わらないと」

「じゃあ、僕は大丈夫ですね」

「え?」

「ゆかりさんに労ってもらうから」

「まあ、できる限りはしますけど……」

 そう言った私に、彼は不敵な笑みを返すだけでなにも言わなかった。



 ◇ ◇ ◇



 ミーティング用の円卓に、見慣れぬ重箱がひとつ。

「これ、誰からの差し入れだ?」

 不審に思った長田は、眉根を寄せながらそこにいた会議参加者に問いかけた。


「和樹だよ。皆で食べてくれって置いてったんだ。今は課長に呼ばれて外してるけど」

「和樹さんがこのいなり寿司を?」

 大きく頷かれた。

 彼とこの明らかに手作りのいなり寿司。どうも結びつかない。これは、ここにいる全員一致の意見だろう。


「……和樹さんが作ってきたわけじゃないよな?」

 今度は後輩から返事がきた。

「着替え取りに帰るって一時間くらいで戻って来ましたよ? 作る暇なんてなかったと思いますけど」

 ということは、これは誰かが作ったいなり寿司。でも一体だれが?


「田舎からおふくろさんが来てて、持たせてくれた、とか?」

「いや」

「じゃあ、おばあちゃんとか?」

「うーん……」

「じゃあ……彼女、とかですかね?」

「え? あの超絶忙しい人に?」

「そうですね。こんなに忙しい中、仕事も完璧で彼女とも円満なんてあの人何者なんだって話になりますよ」

 そこまで聞いて、長田の脳裏に彼の想い人の姿がチラリと浮かぶ。それにしたって一時間で帰れるってことは、彼の家で準備してたってことになりはしないか? それにかなり若い彼女がいなり寿司?

 誰も結論を出せず、結局このいなり寿司を作ったのは誰なんだ、と全員で首をひねりかけたとき目に入ったのは。


「……犬と猫?」

 重箱の隅にある稲荷寿司ふたつ、それぞれに海苔で犬と猫が書かれている。

「そういえば、どことなく機嫌よかったような……」

 沈黙を守ったままいなり寿司を手に取った全員がアニマルお稲荷さんを避けている。

 口には出さなかったが、皆思ったことは同じ。



 あの人、一体何者なんだ……。


 この頃の職場の皆さん(長田さん除く)は和樹さんに溺愛彼女がいることを知りません。

 若い彼女がいなり寿司をきっちり仕上げてくるとも思ってません。


 戻ってきた和樹が

「本当は僕ひとりで食べたいところだが、職場の皆と食べてほしいと言われてしまったからな」

 なんて言ったことでいろんな事実が発覚していくはず(笑)


 バレンタインチョコのときもアレでしたが……ゆかりさんの手料理は独り身部下さんたちのオアシスになっていきます。

 もっとも対応を間違えると、「ゆかりさんは僕の妻だが?」な魔王様のブリザードですけどね。


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