157 恋愛ポンコツなゆかりさんが初めてナンパされたときのおはなし
「じゃあ、ここで待ってますね」
百貨店の非常階段付近に設置された休憩用ソファの前で、和樹は目を細めて笑った。
ちょっと行ってきますね、と返してゆかりの向かった先は、少しだけ離れた場所にある女性用化粧室だった。
先ほど、ゆかりが「お手洗いに行きたい」と進言したところ、雛鳥の如く曇りなき眼で「近くで待ちますよ?」と小首を傾げた無自覚なイケメンを丁重に断り、待ち合わせの場所を決めたのだった。女子には用を足す以外にも、お化粧を直したり髪型を整えたりする時間が必要なのだ。
今日は喫茶いしかわの定休日に合わせて、ゆかりと和樹は美術展に訪れていた。
一週間ほど前に常連のお客さまから「良かったらどうぞ」とチケットをいただいたのだが、それは日本人が大好きな印象派の有名な絵画展で、漏れなくゆかりも大好きな作品も展示されるようだった。これは行かない訳にはいかないなと自分の中で強く頷きながら翌日来店した和樹に「預かってたので」と手渡した。
「あれ? これって今度始まるやつですよね」
「そうで~す! 豊川の奥さま、美術館の清掃されてるじゃないですか。それで割引券たくさんいただいたみたいで、お裾分けですって!」
「ああ、だから以前も彫刻展のチケットをいただいたんですね」
小柄のにこにこした姿が浮かんだのか、和樹もすぐに相好を崩して嬉しそうにチケットを受け取った。ゆかりと会話を続けながら裏に書かれた概要に目を走らせる。
「うわ、僕この作品好きなんですよ。絶対行こう」
そう呟く声が聞こえる。
それなら、と、もし時間があるなら一緒に行きましょうよとゆかりから誘った。和樹とは仲も良いし、お休みの日に会うのも嫌じゃないし楽しそうだと思ったからである。
「じゃあ、次の定休日に行きましょうか。僕もその日は一日空いてるので」
そうして初のおでかけはあっさりと決まった。
プライベートで会う和樹はやはり和樹だった。
腰を痛めたマスターのかわりに力仕事を請け負ってくれた時のような動きやすくシンプルなファッションよりも綺麗な素材のシャツと薄手のジャケットを身に付けていたが、にこやかな表情やスマートな立ち振舞いは相変わらずだ。いやむしろ、店に来た時より甲斐甲斐しく色んな世話を焼いてくれる。
押扉は必ず開ける、さらっと人波からゆかりをかばう、目通しを終えた展示会のパンフレットをくるくるにしていたら「僕が持ちますよ」と引き取ってくれる、などなど。
今まで男の子と遊びに行った時には受けたことのない、流れるようなエスコートに、ゆかりは何だかお姫さまにでもなったような気持ちになった。
顔が良い上に優しいだなんて、そら和樹さんモテますわ。個室から出た後、軽くルースパウダーをはたきながら改めて思う。もし和樹のことが好きな女の子が二人で出掛けたら一発でKOされちゃうだろうな。百発百中っていうの? 歴戦の猛者じゃないですか。
和樹が聞いたらにっこりしながら頬を摘んできそうなことを、本人がいないのを良いことにつらつら考える。お気に入りのリップを唇に走らせた後、保湿の意味も込めたマキシマイザーを乗せる。
うん、いい感じ。にっこり笑ってメイクポーチをしまう。
「あの」
化粧室から出て数歩のところで、男性に声を掛けられた。
「なんでしょうか」
「あの、もしお時間良かったら、お茶でもどうですか」
そう言って頭をかいた男性は、照れ臭そうにはにかんだ。
その時、ゆかりは衝撃を受けた。
これは、もしかするとナンパというものではなかろうか。
自慢じゃないが、この時ゆかりは生まれて初めてナンパされた。
ナンパと言うと軽薄なイメージを持ちがちであるが、ナンパがきっかけで結婚したと言う兄の友人の話を聞いてからは、人と人の出会いのひとつなのだから一概に悪いものではないのだなと印象を改めたのは日に新しい。
好奇心が旺盛であるきらいのあるゆかりはすぐにナンパに淡い興味を抱いた。しかしいくら興味があると言えども自分一人で成り立つものではない。しかも声を掛けられるのは男性のお眼鏡に適ったひと握りの女性なのだから、なかなかゆかりに機会が回ってくることはなかった。
けれどそれは昨日までの話だ。
ついに! 今日! ゆかりも声を掛けられてしまった!
目の前の男性をちらりと見ると、爽やかな出で立ちの素朴なひとだった。目が合ってへらり、と自信なさげに笑っているところもなかなかポイントが高い。優しそう。
ナンパをする人がどんな人なのかどんな気持ちでナンパをしたのか話してみたい、と言うある意味接客業が災いした興味を抑えきれなくなったゆかりは、けれど雛鳥の目が脳裏を過ぎって口を閉じた。雛鳥は今頃、ゆかりに言われた通り健気にソファで待っているだろう。
「あー……ちょっと連れがいるので、聞いてみても良いですか?」
そう断りを入れて男性からすこし離れて携帯を取り出す。通話履歴の一番上にいる名前の呼び出し音を数回鳴らすと、程なくして『はい、どうかしましたか?』と穏やかな声がゆかりの耳朶を打つ。
「あ、もしもし和樹さん? あのね、ちょっとご相談があるんです」
『はい、なんでしょう?』
「あのね、今ね、私生まれて初めてナンパされたんですよ!」
『えっ』
「でね、なんでナンパしてきたんだろうって興味があるので、ちょっとお茶だけしてこようと思うんですけど、どう思いますか?」
『えっ、初めてって、ゆかりさんこの間コンビニでサラリーマンの方に声掛けられてたじゃないですか』
「え? あれは時間を聞かれただけですよ」
『いやいやだってあれは……まあ別にいいですけど……ねえ、ゆかりさん』
「はい、なんでしょう?」
『僕も興味があるので、一緒について行ってもいいですか?』
「えっ!? 和樹さんナンパ慣れしてるじゃないですか!」
『僕自身はナンパしたことないですし、男性から声を掛けられたこともないので、どんな感じなのか知りたいなあって……今後何かの役に立つかもしれませんし』
「なるほど! 知的好奇心というやつですね! あ、ちょっと相手の方に聞いてみますね!」
『お願いします。ゆかりさん、先ほどの女子トイレの近くにいますか? そちらの方に向かいますね』
はい! と元気よく通話を切ったゆかりは、律儀に待っていた男性に向き直り、知的好奇心の辺りを濁して伝えた。すると男性は苦笑いで視線を横に流した後、「あなたと二人でお話したいと思ったので、今回は諦めますね」と申し訳なさそうに去っていった。
「……フラれてしまった」
「ねえ、そこのお姉さん。良かったら僕とお茶でもどうですか?」
頭の上から声が聞こえて、仰ぎ見るとおかしそうに微笑んだ瞳がゆかりを見下ろしていた。和樹の胸板につむじをぐりぐり押し付けると、和樹も胸板でぐりぐり押し返してきた。
「えー、お兄さんと行ったら炎上しそうだしなあ」
「一緒に燃え上がりましょうよ」
ゆかりの頭をさらりと撫でた和樹は、行きましょうと言って軽く肩を叩いた。ゆかりは新しいキーケースが欲しかったのを思い出して、革製品コーナー見たいですと伝えると、長い足はすぐに進路を変える。
「残念でしたね」
まったく残念じゃなさそうに和樹は言った。
「残念でした」
ゆかりはちょっとだけ不満そうに下唇を出したが、長い指にみょんっと摘まれて笑ってしまった。
「また機会がありますかねえ」
「あるんじゃないですか? その時はねえ、必ず僕にも声を掛けてくださいね」
にっこりと笑った和樹は、約束だと言ってゆかりの右手の小指に唇を落とした。
もうちょっとマシなタイトルなかったかな、自分。
でもなんかこういうタイトルのほうが「なろう」っぽい気もする。
……あ、違った。こういうのつけなきゃいけないのは作品タイトルだった(笑)




