153 なによりのご褒美
何日も働いて、やっとご褒美。
そんなご褒美はあなたにとっては何でしょうか?
デパ地下で甘いスイーツを買う?
ショッピングで奮発して高級なカバンを買う?
どれも素敵なことだと思います。
けれど、この男の場合答えはひとつ。
「長田」
「はい」
「僕の顔はいまどうなっている?」
「……は?」
長田は上司のその質問になんと答えるのが正解なのか、考えを巡らせた。
「いつも通り、整ったお顔だと思います」
「男からそんなのいらん、違う! だから!」
和樹は、はっ、と短く息を吐き、言葉を続ける。
「ちゃんとゆかりさんに好かれる顔をしているかどうかということだ」
石川ゆかりはこの意味のわからない質問を部下に投げかけた三徹の男和樹の妻である。
詳細は割愛させていただくが、和樹はこのゆかりにぞっこんもいいところなのだ。
「さぁ?」
「はぁ。“さぁ?”じゃダメなんだ。極力彼女にクマができて眠そう、お仕事大変なんだとか思わせたくない。……と思う反面、『和樹さん、お疲れさまです』って頭を撫でられたいという願望も捨て難い」
長田はこの人大丈夫かと思った。こんな頭のネジが外れたような発言をする男だっただろうかと一瞬案じた。
「わ、わかりました。目処はもうついたんですから、もう今日は帰りますか?」
「そうしたいところ、だったがな、長田」
和樹は長田の目の前に一枚の報告書を見せつける。
「やり直し」
その目は殺人鬼のようだったと後に長田は供述している。
◇ ◇ ◇
ほぼ不眠生活四日目にならないギリギリの時間になってようやく和樹は帰宅した。いや帰宅できるようにしごいたと言っても過言ではない。
まだ早い時間であるが、トータルにするととてつもなく遅い帰宅である。
「ただい……」
「あっ! 和樹さーん」
家のドアを開けた瞬間に広がるクリームシチューのふんわりした香り。
玄関で既に和樹が帰宅することを知ってたように座って尻尾を振っているブラン。
そして何より。
ドアが開く音を聞いて、パタパタとキッチンから走ってくるゆかり。
「おかえりなさーい!」
そう言ってばふっと和樹に飛び込んだゆかりを、ぎゅーっと抱きしめ返す。
ゆかりの頭から香るシャンプーの匂いにもまた家に帰ったことを思い知らされた。
「ゆかりさん」
「はーい!」
なんでしょう? とでも言うように首を傾げながら自分を見上げる彼女は、どこかあどけなさを残している。そんなところが。
「可愛すぎる」
「へ?」
そう聞き返したゆかりの隙を狙い、和樹は唇を奪った。柔らかい。
ゆかりは口を開けて聞き返していたので、その口内に舌を侵入させることはとても容易であった。
最初はいきなりのキスに驚いたゆかりと和樹はバッチリ目を開けながらキスしていたのだが、すぐにゆかりはキッと目を閉じて視覚以外からそのキスを受けているようだった。
たまらないな、やっぱり。今まで出会ったどんな女性でもこんな人はいなかった。
どこか抜けているようで、人の気持ちには聡くて、笑顔で気持ちをほぐしてくれる本当に素敵な女性だ。
「っ……は、あっ……かず、き、さん」
呼吸が苦しくなってきたのか、和樹の胸をとんとんと叩いたので目を開けて少しだけ距離を取ると、頬が赤く染まり、目がとろんとしたゆかりがいて。
「逆効果でしかない」
もうこのまま抱き抱えて寝室に行こうと、ゆかりを抱えるようとした和樹の手をゆかりが慌てて掴む。
「もーっ! 和樹さん! 先にご飯! お風呂! できてるんだからっ!」
と、ぷりぷりしてスタスタ部屋の中に入っていったのを見て。
「あとからならいいんだ」
とくすりと笑ってしまった。
食卓にはクリームシチューとサラダ、フランスパンなどが並んでいた。
今日は洋食らしい。
昨日まで十秒チャージしかしていなかった和樹はそのホカホカとした湯気の立つ料理と目の前にいるゆかりでもうお腹いっぱい。というところだったのだが。
「和樹さん、このシチューうまく作れたから早く食べて」
とキラキラした目で勧められたので、ゆかりの表情を存分に堪能しながらスプーンを手にするのだった。
◇ ◇ ◇
お風呂上がりには二人でソファに座って、久しぶりに夫婦らしく会話をしていた。
「今日はねー、鉄平くんや聡美ちゃんが来て……」
「あ、昨日は雨だったからあんまり人がいないと思ってたら近くのライブハウスでライブがあったみたいで……」
コロコロと表情を変えていろんな話をしてくれるゆかり。それは沈黙が怖いから、というのではない。単純に彼女が和樹と話すのが大好きだからだ。
「僕はあまりゆかりさんに話せることがないでしょう」
以前、和樹にそう言われたゆかりは、それをまったくというか悪いところなんてあるのか? というような感じで。
「じゃあ私が和樹さんの分までおしゃべりしてもいいですか? 和樹さんといろんなこと話すの、好きなんですよ」
と言ったほど。
「それでね! そのとき聡美ちゃんが……」
ストン。
「ん? 聡美さんが?」
「さ、聡美ちゃんが」
急に饒舌さを失くしたゆかり。
それもそのはず、和樹がゆかりの膝に寝転んだのだ。
いわゆる、膝枕。
「ゆかりさん、続きは?」
ごにょごにょしたゆかりが可愛くてついいじめたくなってニヤニヤが止められない。
「んんん和樹さんずるい」
新婚、というのはもう過ぎているのだが、いまだにこんな初々しい反応をする嫁なんてそうそういないだろう。しかも相手はなかなか家に帰れない旦那だ。
それは和樹も自負しているからこそ、ゆかりが愛おしくてしょうがない。
いい歳したおっさんが何を気持ち悪いと誰に思われても、僕がゆかりを愛してるからいいんだと一蹴できるほどに。
「ゆかりさんの膝は気持ちいいなー」
「和樹さん、クマ」
少し怒った顔で、ここですよと和樹の目の下をなぞるゆかり。
「すみません」
「寝てください」
「嫌です」
「そんな胡散臭い笑顔見せても私は騙されませんよ」
「まだ起きてる」
「もう零時だよ!」
「まだ零時、だろ」
そう言うと、くるりと起き上がった和樹はそのまま立ち上がる。
「僕はまだまだゆかりさん不足なんですからね」
と、結局は当初の目的通りお姫様だっこしてゆかりを寝室へと運んだのだった。
◇ ◇ ◇
「かずきさん?」
ゆかりが翌朝目を覚ました時には既に隣に夫の姿はなかった。
「和樹さんー!」
虚しくなってまたしばらく広い部屋でひとりなのかとおもって結構大きい声で叫んでしまった。
「はいー?」
そしたらまさかの返事が返ってきた。
「はみがきちゅーなだけだよ、まだでない」
ゴシゴシと歯みがきをしながらなので聞き取りにくい声でゆかりのもとにやってきた和樹を見て、ゆかりはホッとした。
何やかんや、和樹が帰宅したときはいつも行ってらっしゃい、と言えているから。
そうよ。私はこの人がいるだけでいいんだ。和樹の顔を見つけられて嬉しくなったゆかり。
「和樹さん大好きでーす!」
と、満面の笑みでさっきと同じくらいの声量で宣言した。
ポロっ。
寝起きでふにゃりとした表情と声のゆかりとその言葉。
あとは……うん、その、何も着てないままだから。
もうイロイロとやばい。
固まった和樹は歯ブラシを落とし、口を急いで漱いだ後、早足で妻の元へ抱きしめに行ったのだった。
……まぁ、抱きしめるだけで終わるはずなかったのだが。
◇ ◇ ◇
満タンのゆかりチャージをした和樹がいざ出勤すると。
「石川さん」
「なんだ」
「言いにくいんですが……」
「言ってみろ、長田」
「顔、ニヤニヤしすぎてて逆に怖いと部下が引いてます」
これで「そういうとこですよ、ゆかりさん!」って感想が出てこないあたりにかなりの慣れを感じるのは私だけでしょうかね。
それにしても、チャージ後の和樹さん、一体どんな顔で会社にいたんでしょうね。長田さんにあそこまで言われるって相当……げふんげふん。




