151 傘の行方
ゆかりさんと和樹さんが常連客以上になりつつあった頃のおはなし。いつもよりちょっとだけ長めです。
数日の休みを持て余した和樹が、どうしてもスケジュールが合わず一人で喫茶いしかわの切り盛りをすることになったゆかりの手伝いを申し出た、とある平日。
カランとドアベルが鳴り、複数人で来店していたお客さんが立ち去ると、ランチタイムから続いた慌ただしさがようやく落ち着いて気が抜けたのか、ゆかりがほっと息を吐くのが見えた。
夕方の学生たちが帰宅してくる時間までのつかの間の休息タイムだった。
「お疲れさまです」
「お疲れさまですー。今日はいつもよりお客さん多かったですね」
降り始めた雨の影響か、いつもならランチタイムでも数席の空きが見られる平日の午後だったが、今日は雨宿り利用が多かったらしく待ちのお客さんが出るほど賑わっていた。
次第に本降りへと変わってきた雨の様子から察するに、先ほどの騒然とした店内とはうらはらに、この後は客足が減る一方だろう。
予報ではこれから明日中までは雨が降り止まないとのことだった。
「ちょっと遅くなりましたが、賄い作りましょうか」
「わっ、嬉しいです! 今日はなんですか?」
「卵が結構余っているので、卵料理ですかね」
「じゃあオムライス! 和樹さんのふわとろオムライスが食べたいです!」
「了解しました。腕によりをかけましょう」
とん、と軽く胸を叩いてばちんとウインクしてみせると、ゆかりはひくりと一歩引いた。
「和樹さん! そういうサービスはいりませんから! ファンサならJKのいるときに、彼女たちにしてあげてください!」
「ファンサって……そんなんじゃないですけど」
ぶんぶん両手を振って拒絶の意思を表すゆかりに、特別おかしなことをした自覚がない和樹はちょっと傷ついた。
ゆかりは「まったくもう」とぷりぷり怒りながら、モップに手を伸ばす。傘立ては外に用意してあったが、店内に傘を持ち込むお客様もいたため、床がいくらか濡れている。いまのうちに掃除をするつもりだろう。
軽く頭を振って気持ちを切り替える。とにかくゆかりのために彼女ご希望の美味しいオムライスを作ろう。
フライパンを熱してチキンライスを作っていると、ゆかりの鼻歌が聞こえてきた。最近CMなどでよく聞く流行りの歌だった。歌詞がうろ覚えらしく、まともに歌っている部分と「ふんふふ~ん」と誤魔化されている部分が混じり合っていて、聞いていて思わず笑ってしまうのを必死でこらえる。
「ゆかりさん、オムライスできましたよ」
「やったぁ! いま行きます!」
ぽん、と卵を乗せて、真中に包丁で切れ目を入れるととろりとした卵がチキンライスの上に広がっていく。
その皿をゆかりの前に出すと、ごくりと生唾を飲む様子が見えた。
和樹はもう一つ同じものを作って、ゆかりの隣に腰掛ける。ちょうどゆかりがケチャップをかけ終えたところだった。
「可愛い猫の絵ですね」
「そうです! わかります?」
「わかりますよ。お上手ですね」
三角の耳とひげがついた動物の絵だ。以前もゆかりは同じ絵を描いていた。そのときよりも手際がよくなっている。
和樹の着席を待っていたゆかりは両手を合わせていただきますと呟いてから、スプーンいっぱいに盛り付けた湯気のたっぷり出ているオムライスにぱくついた。
「んん~~っ! おいひいれすぅ!」
はふはふと口内の熱を逃がしながら、ゆかりは美味しそうに微笑んで食べる。
こうも美味しく食べてもらえると和樹としても作りがいがあるというものだ。自身も自然と笑みを浮かべながら、オムライスをばくりと食べる。
「たまにはケチャップでなくて、デミグラスソースとかにしてもいいかもしれませんね」
「デミグラスソース! いいですね。でもホワイトソースとか、たらこソースとかも美味しそう」
「あぁ、たらこはいいですね。今度作ってみようかな」
和樹がそういうと、ゆかりはキラキラと目を輝かせてガッツポーズさながらに拳を握る。
「それは楽しみです!」
ふへへ、と擬音が付きそうなとろけた顔でオムライスを頬張り続けていたゆかりが、ぽつりと呟く。
「……デミグラスソースって強そうですよね」
「はい?」
「なんか字面が強そうじゃないです? ゲームの中ボスって感じで」
「強そうなのに中ボスなんですか」
「ラスボスクラスの貫録はないですからね」
「貫録」
「しょせんはデミグラスですよ!」
そこまで聞いて和樹は吹き出すのを止められなかった。意味がわからない。ゆかりの話はときどき斜め上を行くが、今日もまた自分の想像の彼方へ飛び出していったようだ。
(しょせんはデミグラスって、じゃあゆかりさんは何者のつもりなんだろう)
くつくつと笑うと腹筋が震えるのがわかる。ゆかりといるとそれだけで腹筋が鍛えられそうだ。自分の腹筋にこれだけのダメージを与えられる人物はそういない。中ボスがしょせん、という評価になるのも納得というものだ。
堪えきれぬ笑いを誤魔化しながら、なんとか完食したときには、ゆかりはすでに食べ終えていて、食器を洗いはじめていた。和樹が食べ終えたのを見て、「洗いますよ」と手を伸ばしてくる。
彼女に甘えてお願いすることにして、和樹はディナーメニューの仕込みの確認をはじめた。
一通り終えて手空きになった頃、時計を見るともう学校帰りの学生たちが立ち寄ってもおかしくない時刻だった。
そのまま視線を外に移す。雨脚が強くなっていた。ガラス窓を雨粒が流れ落ちる様子が見える。風もあるようで、時折窓がカタカタと音を立てた。
◇ ◇ ◇
その後も天候のせいか店は閑古鳥がないていて、夕方の混み合う時間になっても席は数えるほどしか埋まらなかった。
雨脚は次第に強まり、強風が吹いたときなどはざあっとガラスにぶち当たる音がけたたましく響く。
現在はまた客がいない状態となっていた。和樹は手持無沙汰で、マスターの残したレシピ本を眺めている。ゆかりは濡れ鼠状態で来店した客に貸したタオルを絞っていた。
「雨、強くなってきましたね。和樹さんも天気予報みました?」
「たしか、明日いっぱい降ってるんでしたっけ」
「予報では。明日のお休みに大物の洗濯物を片付けようと思ってたのに、干せなくてまいっちゃうなぁ」
せっかく定休日だから、お掃除も張り切るつもりだったんですよ、なんて言いながらゆかりはため息をついた。
「ゆかりさんは、雨がお嫌いですか?」
「嫌いじゃないですよ。予定通りにいかなくなるのは困りものですけど」
雨上がりの虹とか綺麗じゃないですか?
綺麗な虹を思い出してでもいるのか、ゆかりは虚空に向けて柔らかい笑みを見せる。それがとても大人びて見えてどきんと胸が高鳴った。
虹よりもゆかりさんの方が綺麗ですよ、という軽口を続けようとして、なぜか喉の奥に引っかかって出てこなかった。虹なんて、もうずいぶんと見ていない。綺麗だったかどうかもうろ覚えだ。そんなものと比較して話すなんて、なんだか嘘をつくようで。
「和樹さんは、雨がお嫌いなんですか?」
「好き嫌いで考えたことはないです。煩わしいと思うことはありますが、雨も必要なものですからね」
「うわー、優等生の発言ですね」
「面白味がないでしょう?」
「でも和樹さんが煩わしいなんていうの、ちょっと意外でした。なんでも楽しんでそうなイメージあったので」
「ははっ、さすがにそれは買いかぶりですよ」
多趣味な自覚はあるが、雨を楽しむ趣味まではなかった。というか、まず天気を楽しむという発想がない。
だがゆかりは天気を楽しんでいそうな女性だった。和樹に言わせてもらえば、なんでも楽しんでそうなイメージがあるのはゆかりの方だ。
ふと会話が止まる。そうなると雨音が余計に大きく感じられた。カチコチと時計の秒針さえうるさい。見上げれば閉店までもう三十分ほどだった。
「雨音は好きです」
ぽつりとゆかりがこぼした。
「濡れるのは嫌ですが、静かな部屋の中できく雨音は風情があって好きです」
「へぇ。風情ですか」
「落ち着くんです。世界中で私一人みたいで」
少しだけ寂しげなその頬笑みに、思わず手が伸びそうになるのをぐっとこらえる。いきなり抱きしめたりしたらセクハラだった。
それに、雨の中でそういう気分になることがあるのは和樹も理解できる。雨に閉じ込められていると、視線を気にすることもなくゆっくり安らげる気がするときがあった。
「少し早いですけど、そろそろ閉めちゃいましょうか。……お客さんも来そうにないですし」
ポケットに入れていたらしい鍵を取り出して、ゆかりはこちらを見上げてきた。内緒ですよ、と耳打ちされる。不意打ちに近いそれに心乱されそうになるのを、持ち前のポーカーフェイスで誤魔化した。
雨音がうるさい。自分の心臓の音も、また。
「……じゃあ僕、外の看板しまってきますね」
ふっとゆかりから視線をそらし、逃げるようにして離れた。この時ばかりは多少は顔色がわかりにくい自分の浅黒い肌に感謝した。
宣言通り外の看板を中に入れて、水滴の滴るそれが店内を水浸しにしないように軽く拭いていく。
それから傘立てを入れようとして、違和感を覚えた。
「あれ?」
傘立てを店内にしまいこみながら、その違和感の正体に気付いた。
「あー、しまったなぁ」
「和樹さん? どうかしたんですか?」
「持ってきた傘、ここに入れといたんですけど、なくなっちゃってて。……困ったな」
「ええっ? 大丈夫ですか?」
出がけに持ってきた傘がコンビニのビニール傘だったのが災いしたらしい。お客さんの誰かが間違って――あるいは意図的に――持っていってしまったようだ。もしかしたら、お客さんですらなく、通りすがりの誰かが。
今日に限って車で来てなかったことも不運といえば不運だった。
「仕方ないです。そう遠いわけでもないですし、濡れて帰りますよ」
「そんな……和樹さん風邪ひいちゃいますよ! 私も一本しか持ってきてないですけど、良かったら一緒に帰りましょう?」
「えっ」
ゆかりからの意外な提案に、和樹は言葉を失った。彼女は真剣な顔をしていた。本当に和樹が風邪をひくことを心配しているらしい。
「たまに送っていただいてますし、今日は私が和樹さんをお送りします! 任せてください!」
「いやいや、そういうわけにはいかないですよ。男が女性に送ってもらうなんて、格好がつかないじゃないですか」
「そんなこといってる場合じゃないですし、雨だから不可抗力です!」
「その理屈はさすがに無茶だと思います!」
必死で彼女の提案を拒絶すると、むぅと不満げに頬を膨らませてみせた。さきほどまでの大人びた顔と違って、急に幼く見える。わかりやすいほどにわかりやすい彼女の百面相は、こんな時でも魅力的だった。
「じゃあこうしましょう。いつもみたいに私の家まで送ってもらって、そのまま傘は差し上げます」
「いや、でもその……それって」
(相合傘、ってことだよな。ゆかりさん的には炎上案件じゃないのか?)
「あのですね、万が一ここで和樹さんが濡れて帰るのを見過ごして、風邪でもひかれたほうが寝覚めが悪いです」
「はぁ……そこまで病弱ではないですけど」
「病弱とかは関係ありません。とにかく今日は一緒に帰りますよ!」
「えーと、では、お言葉に甘えて」
和樹が了承するとゆかりは満足げに頷いて、閉め作業に戻った。レジ締め作業はゆかりの仕事だった。彼女が今日の売り上げの計上を終え、伝票記入を終え、金庫にお金をしまうまでの間に、和樹はテーブルを磨き、椅子を揃え、明日の仕込みの確認をする。
二人で在庫のチェックを終え、バックヤードで共にエプロンをはずし、ロッカーにしまうと、帰る準備が整った。
裏や窓の戸締りをチェックして、表のドアの鍵を閉める間、ゆかりから傘を預かる。
「じゃあ、帰りましょうか」
「はい」
和樹の手にある傘を受け取ろうとするゆかりを、すっとかわして止める。自分の方が背が高いので、といって譲らずにいると、ゆかりも諦めておとなしく傘に入ってくれた。
ゆかりの傘は大きくはないので、二人で入れば肩が濡れる幅しかなかったが、和樹は気付かれようにゆかりの方に傘を傾けて歩く。
自分の肩が濡れても気にはならなかった。
特に会話がなくとも、気詰まりを感じない。それどころかなんとなく居心地良く感じるのが不思議だった。
この後予定通りゆかりを家まで送り、傘を借りて帰った和樹は風邪をひかずにすんだ。
だが常連のご婦人がたまたまひとつの傘で帰宅する二人を見ていて、後日「仲が良いのねぇ」と茶化したことにより、それがJKの耳にも入り、懸念されていた炎上騒ぎになったことは言うまでもない。
今年は、観測史上最速の梅雨入りをしたそうですね。
個人的には五月半ばなのに真夏日迎えてるほうがうわぁとなってますけど(苦笑)
この時期のふたりの関係は、「和樹(→→→)(←?)ゆかり」くらいでしょうか。
無自覚なくせに矢印みっつも出てるあたりがとっても和樹さん。
ちなみにこの時は「副業になるのでお金をいただくわけには……」とバイト代を固辞した和樹さんですが、
「どうせウチに通うんだから、チケット代の支払いをお手伝いでしてもらったってことでいいよね」
というマスターの一言により、次の来店時に金額相当のコーヒーチケット&ランチ割引券がプレゼントされました。




