149-3 おもいひとひら(後編)
「ところで」
和樹はじっと重箱の中のいなり寿司を見つめながら言った。
「ゆかりさん、これいただいてもよろしいですか?」
「え、あ、もちろん、だけど……」
ゆかりは、なんだかんだと用心深い和樹は、自分が見ていないところで作られた手作りの弁当など絶対に食べないだろうと思っていた。
だが和樹は、ひょいと指でつまんでそのまま口に入れた。一瞬、目が輝いたのを、美紗だけが気付いた。
そのまま、続けて二個、三個と食べていき、あっという間に一段目のお重は空になってしまった。
女性向けに小さめに作っていたとはいえ、その速さにゆかりは呆気にとられた。
「すごく美味しいです。五目だけじゃなくて、ごまと大葉もあるんですね。生姜が効いているのも揚げの甘さと合ってて美味しいです。揚げも市販の稲荷用じゃなくてゆかりさんが味付けされたんですね。甘さがくどくなくていくらでも食べられそうです」
褒められて、だんだんとゆかりの頬が赤くなる。
和樹はちゃっかり同じテーブルに着くと、箸を取って「これも食べていいですか」と若竹煮に手を伸ばした。
うまい、と一言つぶやく。
そしてだし巻き卵にも箸を伸ばす。
うまい。もう一度呟くと、若竹煮とだし巻き卵を交互に食べだした。
「……晩ごはんに貰おうと思ってたのに」
思わず美紗が呟くと、呆然と和樹の食べっぷりを見ていたゆかりは「いなり寿司ならもう一つお重が……」と言いかけた。
「それ」
正面から声が飛ぶ。
「それもいただいてもいいですか」
「え、まだ食べるの和樹さん……」
そう言ったのは美紗だが、カウンター席にいる美紗の兄やマスターも驚いているし、ゆかりはもっと驚いていた。
「僕、和食が好きなんです」
あ、はい。ゆかりはなんとなく気圧されて座りなおした。
「ゆかりさん、和食もこれほどお上手だったとは知りませんでした。筍もだし巻きもすごく美味しいです」
はあ、結婚したい。
その言葉に、ゆかりはギョッとして周囲を見回した。大丈夫、今、変な噂を拡散しそうなJKはいない。
だが、美紗が目をキラキラさせて和樹とゆかりを見比べている。周囲の客も、どこか耳をそばだてているようだ。
「違うから、美紗ちゃん! 和樹さん、きっと食べ過ぎて変になってるだけだから」
「いえ、このだし巻き卵となら結婚してもかまいません」
「……ん?」
美紗の兄は耳を疑った。
「えー……」
美紗も微妙なものを見る目つきで、残り一つになっただし巻き卵をじっと見つめる和樹を見やった。
「そうか、ゆかりさんと結婚したら毎日このいなり寿司とだし巻き卵が食べられるんですよね。結婚しましょうゆかりさん」
「なんでいなり寿司のオマケで結婚しなきゃいけないんですか。決めました絶対絶対もういなり寿司もだし巻き卵も作りません!」
「そんな……もう作ってくれないんですか!? では僕はもう結婚できないじゃないですか、少なくともこの稲荷とだし巻き卵を超える女性が出てこない限り結婚できません」
稲荷とだし巻き卵を超えるって何だよ、とマスターは心の中でつっこんだ。
ゆかりはじっと和樹の顔を見て、ん? と首をかしげた。
ぐいっとその顔を両手で引き寄せて凝視する。
「和樹さん、何日寝てないんですか?」
「……三日、いや四日……?」
「もうっ! ここを出る時間になったら起こしますから、それまであっちで寝てください! 何時? 三時ですね? じゃあ、三時まで睡眠! はい、行って!」
ゆかりは、立ち上がりながらも最後のだし巻き卵を口に入れる和樹を引っ張るようにバックヤードに連れて行った。
「あ、残った稲荷はお弁当にください。お願いします」
「わかりました! わかりましたからさっさと寝て!」
和樹をバックヤードに放り込んだゆかりは五分後、喫茶いしかわのエプロンをつけて出てきた。
「マスター、お騒がせしてすみませんでした。今から私も入ります」
「いやそれはいいんだけど、ゆかり、本当に大丈夫?」
「ええ、なんだか和樹さんのおかげで怖いのがどっか行っちゃいました」
ゆかりは肩を竦めて笑った。
「ほとんど和樹さんが食べちゃったね。こっちもご相伴にあずかれるかと思ったんだけど」
近くの席から成り行きを見守っていた常連さんが言うと、マスターもうんうんと頷く。
「残りもキープされちゃったしね。ゆかり、空いたお重にもなにか詰めてあげたら?」
「そう言われても」
「材料は適当に使っていいよ。今日は特別サービス」
「そういえば、私も何も食べてないんだった……」
「じゃあ、自分の分の賄いと一緒に作りなよ。それにしても和樹くん、さっきしっかり食べてたんだけどなあ。相当美味しかったんだろうね、ゆかりのお弁当」
「……これ、絶対内緒ですからね、皆さんもお願いしますね!」
カウンターとテーブルの常連たちに声をかけると、皆『了解』と声をそろえた。
「いってらっしゃい」
和樹が出るときに、詰め直したお重を渡す。
「ありがとうございます。わがまま言ってすみません」
ほんの一、二時間でも寝て少しは正気に戻ったのだろう。和樹は、少し気まずいような顔をしていた。それでも、恐縮しながらも嬉しそうにお重を受け取った。
空いたお重には、出先でも食べやすいように、チョップタイプのおかずを詰めた。ハンバーグのタネでつくった肉団子、アスパラのハム巻、マッシュポテトのお焼き、春キャベツの浅漬け、それからセロリの炒め物。
美紗たちが食べてくれた時も嬉しかったが、和樹がひょいパクひょいパクとあっという間に食べてくれたことで、お花見の時の嫌な記憶がぜんぶ綺麗な色に塗り替えられた気がした。
いなり寿司を食べたときの緩んだ口元。
バックヤードに行ってからも、また作ってくれませんか、と眠る直前まで言ってくれた。
お世辞かもしれないけど、嬉しかった。
お重なんて邪魔になるかもしれないし、もしかしたら時間がなくて食べてもらえないかもしれないけれど、もし食べてもらえるなら、またあの緩んだ口元で食べてくれるといいな、とゆかりは和樹を見送った。
◇ ◇ ◇
『ゆかり、本当に今日はごめんね』
『アイツ締め上げたんだけど、あいつゆかり狙いだったらしいの』
『ごめんね、私が前回の飲み会の写真、彼氏に送ってたんだけどそれ見てゆかりを気に入ったらしくて』
『最初に強いところを見せて、言うこと聞かせようとしたらしいよ』
『何勘違いしてんのか分からないけど、とにかくキモイ』
『料理けなされて、「私が間違ってました、好き」ってなると思ってんのって言ったら歯ぎしりしだしてね』
『アイツ、本当にヤバいかも』
『喫茶いしかわの場所は知らないと思うけど、調べたら分かるだろうし、とにかく気をつけて!』
喫茶いしかわのバックヤードで、ゆかりはSNSのメッセージ画面を開いたまましゃがみ込んでいた。
怖い。
友人たちからの連絡は想像以上の内容で、読んだ途端に昼間の怖さが戻ってきてしまった。
でも、さすがに今日はもう来ないだろう。
来たとしても、まだそんなに遅い時間じゃない。
きっと、大丈夫。
ゆかりは、気合いを入れて立ち上がると、裏口を開けた。
扉のすぐ横に黒い人影を見て、ゆかりは悲鳴をあげかけた。
「ゆかりさん」
「和樹さん!?」
数時間前に見送ったはずの和樹が立っていた。照れくさそうに鼻をかくと、「送ります」とゆかりの手を取った。
「え? お仕事だったんじゃ……?」
「それが幸い短時間ですみまして」
コインパーキングまで歩きながらのんびりと話す。
「まあ、報告書の作成は今からなんですけどね」
「じゃあ、すぐに戻った方がいいんじゃ」
「いえ、大丈夫です。あのお弁当が待っていると思えばいくらでも頑張れますから」
「そんな、大したものいれてないです」
あまり期待されても困ります、とゆかりは恐縮する。
「僕、手作りのお弁当なんて本当に久しぶりなので……しかも他にもおかずを作ってくれたんでしょう?」
「それはマスターにお礼を言ってください。材料を使っていいって許してくれたのマスターです」
はい、と和樹は嬉しそうに笑った。
「ゆかりさん、また作ってくれませんか」
「……いなり寿司とだし巻き卵ですか?」
「ええと、それ以外でもいいです。もちろんそれも食べたいですけど、ゆかりさんが作ってくれるならなんでも、……なんでも食べたいです」
ゆかりは、面はゆくなり、つながれた手をぶんぶんと振った。
「和樹さん、なんでもは禁止です! リクエスト可にしますから、食べたいときは何が食べたいか言ってください!」
「いいんですか?」
「……今日は、おだやかで素敵な日になる予定だったんです。無理かと思ってたけど、和樹さんのおかげで予定通り素敵な一日で終わりそうだから、いいんです」
「ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとうございます」
和樹さんの好きなもの、教えてくださいね。
穏やかな笑顔とともに伝えられたその言葉に、和樹はつないだ手に力を込めた。
◇ ◇ ◇
夕闇の暗がりに、喫茶いしかわのガラス窓をジッと見る黒い人影。
人影はゆかりの姿をじっとりと見つめ続けていた。
やがてその人影は路地裏に消えていき――。
「グガッ!」
顔面を捕まれてその男は呻いた。
片手で捕まれているにもかかわらず、その指で穴が穿たれそうな激痛が男を襲った。
「な、何を……イテぇっ!」
離せと暴れる両腕ももう片方の手で簡単に後ろ手にまとめられてしまう。
「ここで何をしている」
「お前には関係ねえっ、いってえ、離せ!」
「ではお前は関係あるのか」
「あるね、あの女は俺の女にするんだよ!」
ゴキッと鈍い音が響いた。上がる悲鳴を男自身のジャケットで遮る。
「妄想も甚だしいな」
その言葉には何の感情も乗せられていないように冷ややかだ。
男は痛みよりもその冷ややかさに身の危険を感じた。
「た、助けて……」
「生憎お前の命など俺にはなんの関係もない」
「ヒッ」
「二度と彼女にもその周囲にも近づくな」
ヒィィィ。
「姿を現したときには……」
「分かった! もう二度と近づかない!」
つかんだ手を離すと、男はよろけながら逃げ出した。
楽しいお花見の話を書こうと思ってたのに、なぜこうなった……?
ナチュラルに見下してくる男性って実はそこそこいるんですよね。偏見や差別であることに気付いてないというかなんというか。初めて遭遇したときは本当に驚きました。
最後の和樹さん暗躍は、本編から切り離そうかなとか、そもそも不要かしらとも思いましたが、入れてみました。
和樹さんって、しれっと「アハハ弁当の恩返しですよ」とか言いながらそういう行動とりそうなので。
バレたら私刑扱いになるのでは? とか、こんなうっすらざまぁにニーズあるの? とか思いながら書いちゃいました。
ちなみにこのモブはストーカーや暴行の前科者で、近いうちに別の誰かにやらかして逮捕されるという設定がありました。書かないけど。




