148 魔法の言葉
マスターと梢さんのアオハル時代のおはなし。
喫茶いしかわ。街なかの喫茶店。
働き者の看板娘・梢は、店主の息子と仲良く並んでカウンターに立っていた。
「はい、これお願いしますね、梢さん」
「了解です、石川さん」
平日のランチタイムを終えて、石川が洗い上げた食器を、梢が拭いていく。自然と役割分担ができていた。
色違いのエプロンを着けて立ち並ぶ二人を見ると、若夫婦の営む喫茶店なのかと思うほど仲が良い。しかし店主は別にいるため、その見立ては見当違いでしかない。
梢は看板娘の名に恥じない、いつも晴れやかな笑顔で心のこもったおもてなしを提供する。喫茶いしかわが好きで、喫茶いしかわで働くことも好きな彼女は毎日のように出勤している。一方、石川は店主の息子とはいえ最近店で働き始めた新参者で、爽やかで穏やかな容姿は女性客の増加に効果があった。学業優先で両立中のため店に出られる日はまだ少なめだが、そのレア度が逆に石川狙いの客の心を掴んでいる。
「今のうちに休憩をしておきましょうか。梢さん、今日の賄いは何が良いですか?」
「賄いですか? 石川さんの作るものなら、何でも」
「そういうのが一番困るんですけどねぇ」
本日の賄い係、石川はリクエストを募ってみたが、不発に終わった。さて、どうするか。
石川の目の前では梢が、同じように小首を傾げている。
「困るって言われても、石川さんの賄いって何でも美味しいから、私も困っちゃう。石川さんにお任せです」
「わかりました。梢さんのお腹を満たせるように、頑張ります」
「やったぁ、石川さん大好き! じゃあ、私、今のうちに備品の追加をしておきますね」
備品の在庫を取りにバックヤードへ消えていく梢の華奢な背中に、石川はハァと小さく溜め息をついた。客席は空で、店には梢と石川の二人きり。
常日頃、客が一人でもいれば彼女は絶対にそういう物言いはしない。接客のプロとしての線引きは、完璧にできている。
つまり、梢は現時点での店の状況を把握しており、そのうえでさらっと「大好き」を挟んでくる。
実際、梢にとっては何でもないことなのだろう。優しくて、お節介で、日だまりのように温かい人だから、梢は誰に対しても惜しみなく温かいハートを差し出せる。だから、梢が石川に対して向けるのは、一緒に働く同僚に対するものであって、特別な感情は含まれていない、はず。思考が散らばってまとまらない。
石川は冷蔵庫の食材を確認して、手早くメニューを決める。単なる賄いの調理であっても、任されたからには役目を果たさなければ。後片付けまで完璧にこなして、彼女が寄せてくれた期待を裏切りたくはない。
賄いを作り始めると、梢がフロアに戻ってきた。そのままペーパーナプキンや砂糖の補充に取りかかる。鼻歌交じりで楽しそうに手を動かしている後ろ姿を、石川はそっと観察してみた。
梢はご機嫌に何かの曲を口ずさんでいる。離れた場所にいる石川には聞こえないと思っているようだが、相手が悪い。人一倍聴力の良い石川の耳には届いてしまう。
少し鼻にかかった梢の声は、特別に美しいというわけでもない。それなのに、石川の心にはなぜかとても優しく響く。そんな声で不意に飛び出す「大好き」発言だけが、やけに鋭く石川の心臓に刺さる。
少なからず、この看板娘のことを好ましく思ってはいる。しかし、こんなにハッキリと自覚症状として現れるとは。石川は華麗にフライパンを操りながら小さく首を振る。独り立ちするためには、こんな子供だましみたいな「大好き」の言葉に揺らいでいる場合ではないのに。
カウンターからは空腹を刺激する匂いが立ち上り、梢は鼻をすんすんと鳴らして匂いの元を振り返った。
「こっちはもうすぐ終わりそうですけど、石川さんは? もう少し時間かかります?」
「こちらももうすぐできますよ、っと。はい、完成です」
答えながら石川はフライパンをくるりと傾けて、中身を皿に盛りつけた。
「どうぞ、召し上がってください」
着席した梢はメインの皿にきらきらした視線を注いでいる。
「今日のお任せは、クラシックスタイルのオムライスなんですね。しかも合い掛け!」
「トマトソースとベシャメルソース、梢さん、両方とも好きでしょう?」
「よくご存じで。さすが石川さんですね」
「ところで、クラシックスタイルって何ですか?」
「いつもの喫茶いしかわのオムライスって、ふわとろ系じゃないですか。でもこれは卵でしっかり巻いてあるから、昔ながらの王道スタイルだなぁと思って。それよりも石川さん、こんなにきれいにオムライスを巻けちゃうなんてすごい! 大繁盛レストランのシェフでも食べていけそう」
「誉めていただいて光栄ですけど、喫茶いしかわが好きなので、レストランのシェフにはなれませんね。さぁ、冷めないうちに食べてください」
「はーい。では、お先にいただきます」
梢は両手を合わせて食事の挨拶をしてから、スプーンを手に取った。
食事ではなくて、たとえばコーヒーでも、仕事の合間につまむビスケットでも、指先をちょこんと合わせるだけの略式になることもあるが、梢は何かを口にする前には必ず、いただきますをする。
彼女が丁寧な暮らしをしてきたことを伺わせるその習慣は、石川にはとても微笑ましく、尊いもののように思える。梢は一人暮らしの部屋でもこんなふうに手を合わせているのだろう。簡単に想像できてしまう。口元が綻びそうになり、石川は気を引き締めた。緩みすぎて本来の道を外すようなことがあってはならない。
梢は迷い箸ならぬ迷いスプーンをした末に、そのシルバーを真ん中に差し込む。オムライスのぷっくり膨れた部分、ちょうど両方のソースがかかっているところをすくって、小さな口へと運ぶ。
「んー、美味しい! 石川さん天才!」
「梢さんはいつも美味しそうに食べてくれるから、僕も作り甲斐があります」
「石川さんの賄いが美味しいから、自然とこうなっちゃうんですよぅ。石川さんも、この賄いも大好き!」
にこにことスプーンを往復させている梢を、石川は自分用に賄いを作りながら、看板息子にしてはやや渋い顔で見やった。梢に悪意がないことはわかる。わかるが、ちょっと軽率に「大好き」を使いすぎじゃないのか?
「梢さん、あまりうるさいことは言いたくないんですけど、ひとつだけ言わせて。誰にでも気軽に『大好き』なんて言わないほうが良いですよ。きっと誤解する輩が続出します」
「やだ石川さん、そんなの気軽に言うわけないじゃないですか。まったくもう、失礼しちゃう……」
梢はもそもそと唇を動かして小さく呟いた。短い沈黙のような空白のあと、梢は再びスプーンを動かして残りのオムライスを頬張った。リスみたいに頬を膨らませている。
「梢さん。今の、もう一度言ってくれませんか?」
「え……わぁ大変! 石川さん、早く休憩に入らないと時間がなくなっちゃう。もう少ししたら学校帰りのお客様が押し寄せてくるんだから、しっかり休憩して英気を養って、石川スマイルを振りまいてもらわないと!」
ごちそうさまでした、と再び合掌して梢は食べ終わった食器を石川に託す。そのまま「買い出しに行ってきます」と慌ただしく出て行った。後片付けは石川の担当だから、そこは問題ないのだが。
「……なんだあれ、言い逃げしたつもりなのか?」
ひとり残された石川は、遠慮なく頬を緩めた。口調も素の自分が出ているが、他に聞いている者はいないのだからかまわない。唇の動きが読めてしまった彼には、梢の沈黙が声になって聞こえていた。
『石川さんだけだもん』
駆け引きには無縁だと思っていた子が、まさか、こんな手を打っていたとは。彼女に似合いの、可愛らしい手段ではあるけれど、その純粋さが石川の心に染み渡る。
次のシフトから、今度は梢が石川からの「大好き」攻撃を受けることになる。それが単なる冗談ではないと彼女が知るのは、もう少し先のお話。
このふたりも、綱引きみたいなじれじれ両片思いがわりと似合うなぁと思います。
というか、それを楽しんじゃうふたりかな。
ブクマ、感想、誤字報告等ありがとうございます。嬉しいです。助かります。
感想のお返事は、もうちょっとだけ待っててください。申し訳ありません。はい、すでに謝罪レベルで熟成させすぎてる自覚はございます。




