147-2 毎年のプロポーズ(後編)
「ただいま」
玄関を開ければ愛犬が出迎えてくれた。
「さてと、何を作ろうかな」
手早く着替えを済ませて冷蔵庫を開ければ買い出しをしたばかりだろうか食材は揃っていた。
「あ、里芋がある……結婚当初作ってくれたなぁ」
緊張して手が震えて全然箸が里芋を掴めないとツルツル滑っていたのを思い出す。あれは可愛いかった。
「豚バラブロック……角煮も作ってもらったっけ」
一人暮らし時代は炊飯器で作っていたからご飯が炊きたてじゃなくて残念だったんだよねとこれまた白米を二杯もおかわりしていたっけ。釣られて僕もおかわりしてしまった。
「肉じゃがは言わずもがな、か……」
炊飯器を空にするレベルの美味さを自分では超えられないし超えたいとも思わない。
「……だめだ」
ピーピーと開けっ放しの警告音にパタン、と冷蔵庫を閉める。
まったくメニューが思いつかない。一人暮らしの時はそれこそ夜中に腹が空いて家にあるもので適当にサッと作ることだってできたというのに。舌が彼女の味に慣れてしまった。
「でも疲れて帰ってくるだろうしなぁ」
彼女の作るご飯は美味い。
別にプロ的なものがどうこうという話ではなく、ただ単純に美味いのだ。家に帰ってご飯が用意されているのを見るとそれだけでご馳走に見える。
彼女の作り上げる家庭の味が、今は無性に恋しくなった。
「……まぁ、言ってられないけどな」
疲れて帰ってくるだろう妻のために少しでも負担を減らそうじゃないかと再び冷蔵庫を開ける。それから風呂も洗っておこう。帰宅してすぐに入浴できるようにしておこう。
「ただいまー!」
「はい、おかえりなさい」
「ブランくんただいまー」
迎えに行ったときからニコニコと満面の笑顔を見せるゆかりさんは玄関を開けてすぐ、しっぽをブンブン振りながら出迎えたブランをわしゃわしゃと撫でる。
「ご飯できてるよ。あとお風呂も」
「わぁ! ありがとうございます! 汗いっぱいかいちゃったからお風呂先にいただいてもいいですか?」
「もちろん。ゆっくり入っておいで」
お風呂に向かう妻を見送り自分は帰り途中で買ったコンビニのアイスを冷凍庫にしまった。このアイスは今日の妻のわがままだった。毎日一日一個、彼女にわがままを言ってもらうように約束したのは僕の我儘だ。
ブランの水を交換して、僕が作ったお手製の夕飯を出せば喜んで食べてくれた。
「和樹さん! お風呂いただきました!」
「じゃあ僕も入ってこようかな」
「はーい、ごゆっくりどうぞ!」
ごゆっくりとは言われたが、少しでも長く夫婦の時間を持ちたくて早々に風呂から上がると、ゆかりさんはエプロンをつけて台所に立っていた。
「……味噌汁の匂いがする」
「あ。上がりました? 大根が余ってて使いたかったので味噌汁作っちゃいました」
「……あぁ、気付かなかったよ。ごめんね」
「野菜室に入れてなかったので」
嘘だ。
乾燥しないようにと水に濡らしたキッチンペーパーとラップに包まれていたのを知っていた。それでもそのままにしていたのは、もしかしたらゆかりさんが気づいて、何か作ってくれるかもしれないと期待したから。
「まさか的中するとはな……」
「何か言いました?」
「いや……ありがとう」
味見をしているゆかりさんを抱き締める。
「……嬉しい」
「やだ、そんなにお味噌汁飲みたかったんですか?」
「ううん……」
「えー……じゃあ大根を無駄にせず使えたから? もったいないおばけが出ちゃいますもんねぇ」
「おばけが出たら退治してあげますよ」
「おぉ頼もしい」
ケラケラと笑う頰にキスを一つ落とせば赤くなって、早くお箸を並べてくださいと怒られてしまった。
「……は、今なんと」
「君には一ヶ月出張に行ってもらう」
馬鹿野郎ふざけるな、と喉まで出かかった。あと二週間後に結婚記念日があるんだぞと言いたかった。だが、それは、この仕事に必要のないことだった。
「拝任します」
ごめん。ゆかりさん。
僕はまた、君と記念日を迎えられない。
部屋を出てプライベート用の携帯で電話を掛ける。数回のコール音の後「もしもし」と明るい声が聞こえて、今からこの声を暗くしてしまうのかと思った。
「……暫く、会えなくなる」
「……わかりました」
恨み言一つ、言いはしない。
結婚記念日は、彼女だって覚えているのに。こんな、仕事ばかりで、記念日だって碌に祝えない。あんな、毎日一つだけのわがままなんか叶えたって意味がないんだ。
いてほしい時にいてあげられない僕は、夫として最低最悪だ。
それでもこの仕事に後悔はいつだってない。選び進み抜くことも、これから先を進むことも、一つとして後悔したことはない。
「……じゃあ、また」
「はい、行ってらっしゃい」
謝罪はしない。
彼女も言い訳など求めない。
ただ送り出す言葉を告げるだけだ。
「……クソッ!」
悪態をついて舌打ちをする。
時刻は二十三時二十分。日付は僕らの結婚記念日当日。
一ヶ月はかかると言われていた仕事は、気難しい人間との交渉だった。たしかに経験を積まなければ難しい案件ではあった。
だが決して僕でなければならないという案件ではなかったはずだと愚痴を溢せば長田に「それは言わない約束です」と慰められ、お前は健気な娘かと言いたくなった。
「……ッ間に合う!」
大丈夫だ。間に合う。記念日にゆかりさんに会える!
そう思ってすぐ、足を止めた。
記念日なのに、花もプレゼントも、何一つとして用意していない。
「…………本当につくづく、僕って奴は……」
本当は、用意していたんだ。
記念日の当日に、彼女に似合う色味と愛を乗せた花言葉で包んだ大きな花束も。
彼女の白い肌を彩る上品なダイヤのネックレスも。
本当なら、すべて彼女に渡せたのに。この手には何一つとして用意していたものはなかった。
「ッゆかりさん……!」
それでも、何も渡せなくとも、せめて記念日に顔を見て、おめでとうと言い合いたい。
そしてこれからもよろしくと、当たり前の言葉を伝えたい。
結婚してくれてありがとうと、一番に伝えたい。
「ゆかりさん!」
「わぁびっくりした」
和樹さんかぁ、と間延びした声と、なぜかおたまと鍋の蓋を持っていたゆかりさんがいた。
「……え、あの、なんでそんなの持ってるの……」
言いたいことがたくさんあったはずなのに、なぜかわけのわからない格好をしている妻に聞いてしまう。
「えぇ……だって和樹さん帰ってこないって聞いてたのにガチャガチャ鍵を開ける音がするしこんな時間だし……だからこう、武装をと思いまして……一応菜箸から持ち替えたんですけど……」
駄目でした? となぜか自信なさげに聞いてくるから、てっきり怖がらせないでとか記念日終わっちゃうだとか、出張に行って寂しかっただとか、そんなことを言われるんじゃないかと思っていたから。
「……はっ、ハハッ! 駄目だ、笑わせないでよゆかりさん」
「えぇっ?」
やっぱりフライ返しの方が良かったかなと思案する妻にやっぱり笑いが止まらない。笑いながらお玉を持ったままのゆかりさんの手首を掴み自分の方へと引き寄せる。
「ただいま、ゆかりさん」
「おかえりなさい、和樹さん」
最愛のひとのぬくもりを堪能する。
「そうだ! ゆかりさん!」
「はい?」
「遅くなったけど間に合って良かった! けっこん……」
ぐぅ、と言葉の代わりに腹の音が答えた。
しかもトンチンカンな答えを。
「あらぁ和樹さん食べてきてなかったんですね! ちょうど良かった! さぁさぁ玄関にずっといるよりもリビングに行きましょう!」
「そうじゃなくて……!」
上機嫌なゆかりさんに手を引かれるままリビングに入ればテーブルにはところ狭しと料理が並んでいた。
「すごい量だね……」
「えへへ、たくさん作っちゃいました。和樹さんは帰れないって聞いてたけど……その、ほら……今日は……えっと……」
「結婚記念日だから?」
「はい!」
あぁ、ちくしょう、可愛いなぁ。
並べられた料理が、彼女も祝いたかったと物語っていた。
「ビーフシチューはクリスマスに圧力鍋で初めて作って衝撃を受けたなぁと思って」
「うん、肉がトロトロだった」
「里芋の煮っころがしは結婚して間もない頃作りましたよね」
「うん、緊張して上手く掴めなくてツルツルしてたね」
「あと豚の角煮! これ本当に美味しかったです!」
「炊きたてのご飯と合わさると最高だったね」
並べられた料理を見て、あぁこれもあれも、全部一緒に食べたなぁ美味しかったなぁと胸が暖かくなる。ゆかりさんといると、こういう気持ちになれるんだと、一年を通して知った。
「ゆかりさん」
「はい」
「結婚記念日、おめでとう」
ギリギリ五分前だけどね、と付け足せば時計の針は戻さなくていいんですね、なんて返されてしまった。
「本当はプレゼントも用意してたんだけど、店が閉まっちゃって取りに行かなくて、ごめんね」
「ううん、気にしないでください。こんなに早く帰ってきてくれるなんて思ってもみなかった」
「すごく頑張ったんですよ……そうだ、プレゼントは花束とネックレスです。明日休み貰えたからデートしながら取りに行こう?」
「ネックレス? やだ和樹さん三個目ですよ……そのうち和樹さんからもらったネックレス付けてたら首が長くなりそう」
「一度に三つ付けなきゃいいんじゃないかな……」
今度は違う宝飾品にしようと決めつつ、ふと思う。
「ねぇゆかりさん、聞きたいんだけど」
「はい?」
「誕生日やクリスマスはそんなに気にしてる様子はなかったのに、どうして今回はこんなに張り切ってくれたの?」
そうだ。
彼女はクリスマスや誕生日も、頓着はしなかった。楽しそうにはしていたが遅れても怒りはしなかった。聞いてみれば少しだけ照れて笑って答えてくれた。
「だって、結婚記念日はふたりだけのものでしょう?」
クリスマスはたくさんの人がお祝いをして、誕生日は両親や友達、これまたたくさんの人がお祝いをしてくれる。
「ふたりだけの、ふたりのためのお祝いだから、張り切っちゃいました」
照れた笑顔が可愛くて、とにかく触れていたくて、背後から彼女を抱き締めてからキッチンの換気扇が回っているのに気付く。
「……ねぇ、ゆかりさん」
「はい?」
「まだ何か作ってるの?」
「あ、はい。肉じゃがを……でもまだ味が染みてないと思うんです」
「そっか……」
ゆかりさんを抱き締める力を少し強く込める。
「和樹さん肉じゃが好きですよね! ほら、炊飯器を空にするくらい……」
「うん……好き……」
「あ、あの……」
抱き締めて、柔らかい髪を掻き分けて首筋にキスを一つ落とす。
言いたいことが伝わったのだろう。白かった首筋が赤く染まっていくのがわかる。
「ゆかりさん……」
「は、はい……」
抱き締めた身体に力が入っているのがわかる。こういうことにいつまで経っても慣れない初心なままの妻が更に愛おしくなる。
「肉じゃがに味が染み込むまででいいから……」
「えっ、えっと、あの……」
赤く染まった肌にちゅ、ちゅ、と短いリップ音を立てて吸い付けば赤く染まった肌よりも自分が付けた朱に染まるのに満たされて何度も何度も同じ朱を付ける。
「ねぇ、ゆかりさん……」
「和樹さん……」
「ん?」
「私の今日のわがまま……言ってもいいですか?」
ふたりだけの空間なのに、内緒話のように桜色の唇を僕の耳に寄せて話す。
「明日の朝ごはん……今日の残り物でもいい?」
「ハハッ……喜んで」
なんなら昼にも残りそうだと、たくさんの料理を見て思う。
「夜は僕が作るよ」
だからごはんのことは気にしないで、なんてキスをして抱き上げる。
「そうだ、ゆかりさん」
「はい?」
「一年ありがとう。また来年も、僕と結婚してくれる?」
そう言えば一瞬キョトンとした顔をしたゆかりさんはすぐに笑顔になってくれた。
「やだ、私一年ごとにプロポーズされるんですか?」
そう言われれば今度は自分がキョトンとする番だった。
「それ、いいなぁ」
「へ?」
「うん、決めた。僕は毎年結婚記念日に君にプロポーズするよ」
「じゃあ、私は毎年返事をしないとですねぇ」
毎年返事をもらえるまでドキドキしそうだと笑い合ってゆかりさんにキスをしながら寝室へと向かった。
一年、二年、十年、何十年経とうがふたりだけの記念日に、僕は君にプロポーズをするよ。
ゆかりさん絡みではポンコツ待ったなしな和樹さんなら、このくらいは……ねぇ?(笑)
結婚記念日だけでなく機会を見つけてはすかさずゆかりさんへの愛を語りまくる和樹さん。ある意味安定してます。
こういうのをリア充爆発しろって言うんですかね。
……和樹さんに出張を押し付けた上司、その後無事でいられる気がしないのはなんでだろう。
意趣返しのひとつやふたつ、くらってるんじゃないかな。




