145-3 セロリは薬じゃありません(後編)
ゆかりはふと気になったことを躊躇いもなく尋ねた。
「そういえば長田さんはどうして合鍵持ってたんですか?」
「え? あ、あぁそれは」
だが長田が答えるよりも早くゆかりは先程自分が思ったことを反芻していた。
一人暮らしの家の合鍵なんて持ってるのは親か恋人くらいだ。和樹と長田が親兄弟でないことは苗字や見た目から一目瞭然だ。
つまりは。
そう考えれば和樹が今までどんな綺麗で可愛い女性に告白されても靡かなかったことや軽々しくゆかりにいいお嫁さんになりそうですねなんて言ったことにも説明がつく。既に相手がいるから応えない、その気がまったくのゼロだから一見思わせぶりな軽率な発言をするのだ。そして今、この場はまさしくゆかりが危惧した修羅場だ……!
「ご、ごめんなさい長田さん!」
「えっ?」
「私、本当にマスターに頼まれて来ただけなんです! 和樹さんが心配だったとはいえ、勝手に上がり込んでお節介を焼いてしまって本当にすみません! 本当に、本当に私と和樹さんはなんでもないんです! 信じてください!」
「ちょ、ちょっと、石川さん? 一体どうしたんですか?」
ものすごい勢いで謝罪を始めたゆかりに長田は唖然としていた。なぜ急に謝りだしたのか見当もつかない。
「この部屋に私がいることも、あんな状態でいたことも、長田さんは気分悪いですよね。本当に本当にすみません!」
「……なぜ自分が気分悪くなるんでしょうか。さっぱりわからないのですが」
長田が戸惑っているのを見てゆかりは首を傾げた。
「えっと、長田さんはその、和樹さんとお付き合いされてるんですよね?」
「はぁ!?」
「あ、すみません不躾に! 同性だから隠されてたんですよね? 大丈夫です私、秘密は守りますから!」
「待ってください石川さん! 勘違いにもほどがありますよ! 自分と和樹さんは恋人などではありません! 自分はもちろん、和樹さんだって異性愛者ですよ!」
「え……だって、合鍵……」
「あれは和樹さんが遠出をする際にワンちゃんの世話を頼まれることがあるので預かってるだけです! 今日だって仕事で頼まれたものを届けに来ただけで、応答がなくても部屋に置いておくよう言われていたので鍵を使ったまでです!」
長田のあまりの剣幕にゆかりは思わず竦みあがった。
「……じゃあ、本当に」
「ただの仕事仲間です!」
恋人じゃない。私の勘違い。恐怖の修羅場ではなかった。
ゆかりはほっとして深く息を吐いたが同時にとんでもないことをしでかしたことに思い至り青褪めて土下座した。
「ご、ごめんなさい! 変な勘違いをして本当に申し訳ございません! ほ、本当になんてお詫びしたらいいか……!」
「土下座なんてやめてください石川さん! 誤解が解ければそれでいいですから」
「そういうわけにはいきません! そうだ、今度絶対喫茶いしかわにいらしてください! 長田さんが来店されるまでに長田さん専用のコーヒーチケットを用意しておきますから!」
「こ、困りますよそこまでされては……。本当に気にしてませんから」
「チケット百枚作ります!」
「え、石川さん」
「軽食とスイーツもつけます!」
「だから困ると……」
渋る長田にゆかりはその手を掴んで両手でぎゅっと握り上目遣いで見つめた。
「絶対、来てください!」
「は、はぁ……」
ゆかりの勢いに呑まれ長田は曖昧ながらも首肯してしまった。
「絶対ですよ!」
念押ししてゆかりは立ち上がった。
「じゃあ私は帰ります。明日来店されてもお渡しできるようにしておきますから!」
「いや、それは」
「あ、鍵お願いしますね! 失礼します!」
慌ただしく出ていったゆかりを長田はポカンと見送った。嵐が去った部屋で冷や汗が流れ落ちる。
まずい。顔見知りとはいえ、コーヒー百杯を軽々しくおごられるなど、いいはずがない。自分は一体どうしたらいいものか。
頭を抱えているといつの間にかワンちゃんが目の前でおすわりをしていた。口にはリードを咥え、期待に満ちた眼差しを向けている。
「ワンちゃん……散歩行くか?」
『散歩』と聞いてワンちゃんはご機嫌な様子で吠えた。
先ほど掴んだ和樹の腕はすごく熱かった。かなり力を籠めた上に、あれだけ石川ゆかりと騒いでいたのに一向に起きる気配はない。相当熱が高いのだろう。だがしかし、いかに高熱とはいえ付き合ってもいない女性を無理矢理抱き締めるのはいかがなものだろうか。
沸き上がる様々な言葉は飲み込んで、犬の散歩のために部屋を後にした。
長田が部屋に戻るとまだ和樹は眠っていた。頼まれたものは置いておけばいいが、報告したいこともある。幸いまだ遅すぎる時間ではない。もう少し起きるのを待ってもいいだろう。
ワンちゃんにも餌を出して、長田は散歩帰りに買った弁当をダイニングテーブルで食べ始めた。食べ終わってからスマホでニュースチェックをしていると和樹の呻き声が聞こえ、様子を見に行くと和樹はゆっくりとその瞼を開けた。
「お邪魔してます。お加減はいかがですか?」
「長田……? そういえば来るよう頼んでたな。気付かなくてすまない。起こしてくれて構わなかったのに」
起きなかったのはあなたですよ、と言おうとしたがベッドから出てきた和樹のパンイチ姿に声が詰まった。付き合ってもいない女性の前で以下略。
「長田?」
和樹は落ちていたスウェットに袖を通しながら訝し気な声を上げた。
そもそも和樹はなぜ石川ゆかりを抱き締めたりしていたのだろうか。いや、異性を抱き締める理由なんて普通に考えて一つしかないが、この人が本当に? だがこの感情ばかりは理性でどうにかなるものではないし、和樹だって健康な成人男性だ。無いとは言い切れない。
「おい、どうした?」
本当にそうなのか気になる。でも完全にプライベートな事柄だ。踏み込んではいけない、と思う。でも気になる。そういえば以前女性を家に連れ込んでると勘違いしたときは、呆れはされたが不機嫌に怒ることはされなかった。ならば聞けば答えてくれるだろうか。聞いてもいいだろうか。
好奇心が勝り、長田は意を決するとごくりと喉を鳴らした。
「あの、一つお聞きしたいことが」
「なんだ?」
「その……喫茶いしかわの石川ゆかりさんのことがお好きなんですか?」
「はぁ?」
疑問形とはいえほぼ確信を持って尋ねたのに返ってきた本気で困惑した声音に思わず「えっ」と声を上げてしまった。
「……君はまたなんでそんな勘違いをしてるんだ? 彼女は行きつけの喫茶店員だぞ、そんなことあるわけ……」
「じゃあなぜ和樹さんはあんなにもきつく石川さんを抱き締めたりしてたんですか!? それも『いかないで』なんて言って……!」
「抱き……? 一体何のことだ」
「……まさか覚えてないんですか」
お互いに信じられないといった目で優に十秒以上は見つめ合っていた。ややあって和樹は顔を顰めながら口を開いた。
「……君は何を見たんだ」
「……私が合鍵でこの部屋に入ったとき、和樹さんはベッドの上で石川ゆかりさんを抱き締めていました。それもすごく強い力で。彼女は抜け出せなくて藻掻きながら助けを求めてきました」
「……」
「石川さんが言うには「いかないで」と言って抱き締められたと思ったら和樹さんはそのまま眠ってしまったと」
長田の言葉に和樹は顔面蒼白になりながらふらりとその場に座り込むと頭を抱えた。
「嘘だろ……まったく記憶にない。どうして彼女がここにいたんだ」
「喫茶いしかわのマスターからお見舞いを頼まれたと言っていましたよ。和樹さんの様子を見かねて食事を作って食べさせたと」
「……食べた記憶もない。それに食材はなかったはずだ」
「買い物もしたと言っていました。食材と他にも……薬と、このペットボトルもそうじゃありませんか」
和樹は家になかったはずのものたちを眺めるとそれはもう深い溜息を吐いて項垂れた。
苦虫を十匹は噛み潰したように顔を顰めガリガリと頭を掻く和樹の姿に思わず口元が緩んでしまった。何事にも優れ、卒なく仕事をこなす和樹を本当に同じ人間かと逃避にも似た感情を幾度も抱いたが、今目の前で頭を抱える和樹は紛れもなく同じただの人間だと思うことができる。
「……和樹さん。もう一度お聞きしますが、石川ゆかりさんをどう思っているんですか」
「…………」
顔を上げた和樹は傍で不安そうに眺めるワンちゃんを抱き上げると深く息を吐いて自虐的な笑みを見せた。
「そうだな、好きなのかもしれない。好ましいと思う瞬間は何度もあったよ。だが恋愛にかまけている場合ではないし、好きになってはいけないとブレーキを掛けたつもりだった。でも裏を返せばブレーキを掛けなければいけないほど惹かれていたということだな」
「和樹さん……」
「とんだ失態だ。駄目な上司だな僕は。……今日のこと、仕事仲間には言わないでくれよ。頼む」
「……言いませんよ。それより、彼女のこと、これからどうなさるんですか」
「は? どうもしないさ。近い将来、長期海外勤務で街を離れるだけだ」
和樹の言葉に長田はほんの微かだが眉を顰め唇を噛んだ。
「なんて顔してるんだ長田。喫茶いしかわを愛する彼女をあの場所から引き離すようなことは、なにも伝えられるはずがない。当然のことだ」
「解ってます。それでも、いつか和樹さんが幸せを掴める日が来れば、そう思います」
「長田……」
「解っているんです。それでもいつか和樹さん自身が幸せになれる日が来ればいいと願ってやみません。それが偽らざる本心です」
「……君という男は、優しすぎるな」
和樹はゆっくりと瞼を閉じると柔らかく微笑んだ。
人当りの良い和樹はいつも笑顔でいることの方が多い。仕事で厳しい表情も見せるが普段は自信に満ちた余裕のある笑みを見せる。それは部下が臆することなく任務を遂行できるようあくまで上司としての振る舞いであって、穏やかに微笑むなんて素顔は初めて目にする。
穏やかに笑うことのできる人なのだ。でも仕事中に素顔を見せることはないのだから、こうして笑う人なのだと知っているのはワンちゃんくらいだろう。だがワンちゃん以外にも、大切な人の傍で心を休ませることができたなら。手を取り合うことができたなら。
そう思うのは人として過ぎた願いではないはずだ。
「現実はどうあれ、君の気持ちは心に留めておくよ」
「……はい。是非そうしてください」
「この話はここまでだ。他に用件があるからわざわざ僕が起きるのを待っていたんだろう?」
「はい。報告したいことが……」
仕事の話を終え、帰ろうとドアノブを握ったところで長田は「あっ」と振り向いた。
「どうした?」
「あの、ここへ来た時、お預りした鍵を使って入ったのですが」
「それが?」
「……合鍵を持っていたことで石川さんが勘違いをされて」
「勘違い? なにをだ」
「その……和樹さんと私が、ゲイカップルだと」
「……」
和樹は顔を顰めると呆れかえった様子で頭を抱えた。
「彼女は天然混じりで発想が斜め上なところがあるからな……」
「誤解についてはそれはもうしっかり否定したのですが、……お詫びをしたいから喫茶いしかわに来てほしいと言われてしまって」
「了承したのか」
「うっ。私は断ったのですが引き下がってもらえず……コーヒーチケット百枚用意するからと半ば無理矢理……」
「丸め込まれたのか。……研修からやり直すか、長田」
「も、申し訳ありません!」
深々と頭を下げる長田に和樹は溜息を吐くと腕を組んだ。
長田は、和樹の右腕としてふさわしい男でありたいと思っているのに度々失態を犯す自分に嫌気がさしていた。落ち着いて対処すれば石川ゆかりの勢いに呑まれず約束などせずに済んだはずなのにと後悔が渦巻く。
大きく息を吐く和樹にビクリと長田の身体が跳ねる。
「彼女の性格から言って、君が喫茶いしかわを訪れなかったら僕に催促をしてくるだろうな」
「はい」
「ランチタイムは混雑するから、行くなら昼は外したほうがいい」
「承知しました。……すみません和樹さん」
「ああ、コーヒーチケットはきちんと断れよ。百枚なんて高額だからな」
「もちろんです!」
長田を見送り玄関を施錠すると、ガスコンロにある鍋が目に入った。
「卵粥……それに味噌汁か。具だくさんだな」
冷蔵庫の中を確認すると一人暮らしには多すぎる果物とゼリー、それに冷却シートが入っていた。テーブルには解熱薬と新しい体温計、五百ミリのペットボトルのスポーツドリンクが四本、置いてある。
「果物にはバーコードシールがないな。もしかして喫茶いしかわから持ってきたのか?」
ゆかりが用意したであろうものを確認し終えると和樹はペットボトルを開封し喉を潤した。ゆかりの用意したものは食材と薬と水分。栄養ドリンクや栄養補助食品の類はない。きちんと食事と水分を摂ってしっかり休めということだ。
「本当に……いい嫁さんになるな、ゆかりさんは」
以前同じ台詞を言った時には気付いていなかった想いがこの胸に確かに息づいている。
自分が望んではいけないことだと思っている。それでも、願わくば彼女が『いいお嫁さん』になるときに隣にいるのは自分であってほしい。夢見るくらいは許されるだろう。
ああ、それよりも。
「まずはお礼をしないとな」
何がいいだろうかと考える和樹は愛情に満ちた優しい笑みを浮かべていた。
恋心をちゃんと自覚するかなと思いきや……実は高熱すぎて都合よく記憶がすっ飛ぶ和樹さん。しっかり自覚して行動するにはもうしばらくのお時間と長田さんの協力が必要です。
そしてやっぱり全面的に巻き込まれる長田さん。この人にはいったい何難の相が出ているのでしょうか。




