145-2 セロリは薬じゃありません(中編)
ゆっくりと瞼を開いた和樹はぼんやりとゆかりの方を見た。
「起きられますか? 解熱薬買ってきましたよ。その前に少し食べましょう?」
「ん……」
のそのそ体を起こした和樹を支えようと思っていたゆかりは掛布団が捲れ現れた裸体に悲鳴を上げた。
「なんで服着てないんですか!? さっきまでちゃんと着てたじゃないですか!」
「ゆかりさん大声はやめて……。僕寝るときは着ないんです……」
「い、い、いいから早く服着てください!」
「はいはい……」
目をぎゅっと閉じたまま両手で顔を覆ったゆかりはその場で岩のように固くなっていた。ベッドから立ち上がったのだろうか、すぐ横で動く気配にびくっと肩を震わせる。
さっき畳に落ちていた服はよく思い出せば買い物に出る前に着ていた服だ。どうしてすぐ気付かなかったのだろう。気付いていれば少しは心の準備ができたのに。和樹は男性だから上半身の裸を見たところでどうということもないけど、付き合ってもいない男性の裸なんて海かプールくらいでしか見ることはないのだから、それがこんな二人きりの密室でなんて動揺しない訳がない。和樹が座った気配がしてゆかりは声を掛けた。
「……和樹さん、服着た?」
「ん、着ましたよ~」
恐る恐る目を開けると先程の白いTシャツとスウェットが目に入りゆかりはほっと息を吐いた。座っている和樹はぼんやりとテーブルの上を見ているようだった。ゆかりが和樹の横に座り直すとぽつりと呟く。
「これ、ゆかりさんが……?」
「そうですよ。食べられそうですか?」
「ん……食べる……」
はっきり返事をしたわりに和樹は一向に手を伸ばさなかった。
「……和樹さん、大丈夫?」
心配になって声を掛けると和樹は倒れるようにゆかりの肩に凭れてきた。驚いて大声を上げなかったことは褒めて欲しい。
「あ、あ、あ、和樹さん……?」
「ゆかりさん……食べさせて」
「────!?」
は!? この人何言っちゃてるの!? なんでくっついてきたの!? こんなこと和樹さんのファンにバレたら炎上じゃ済まなくなる……!
パニックになりながら背筋に悪寒が走ったが、肩に触れている和樹の体があまりにも熱く、よく見ればぐったりしている様子に彼が四十度越えの高熱なのだと思い出した。そもそも食事や買い物などお節介を焼いたのは自分だしここまでして放り出すわけにもいかない。ゆかりは仕方ないと腹を括り、お茶碗を手に取った。
「……はい、どうぞ」
レンゲでお粥を掬い和樹の口元まで運ぶとぱくりとその口を開けた。
「お粥、熱くないですか?」
「ん」
和樹が飲み込んだのを見計らって二口目を口元に運ぶと再び口を開ける。食欲はあるようで少し安心した。何度か繰り返せばあっという間にお粥は無くなった。続けてりんごの器を取るとそれまで無言だった和樹が口を開いた。
「それ、なに……?」
「え? りんごですよ。すりおろしたんです。はちみつも入ってます」
「りんご……」
「喫茶いしかわから持ってきたんです。マスターってば発注間違えちゃって。使い切れない分を私と和樹さんにくれたんです。あ、もらった果物の残りは冷蔵庫に入れてありますからね」
「マスターが……」
そう言うと和樹は黙ってしまった。
もしかしてりんごは嫌いだったのだろうか。それとも料理好きな和樹が見てりんごだと気付かなかったということはすりおろしたものが嫌いだったのかも。ただ剥いて切っただけの方がよかったかなと不安が生まれた。
「……りんご、食べられますか?」
「うん。食べる」
その答えにゆかりはほっとしてりんごをスプーンに掬った。和樹は嫌がることもなく綺麗に平らげた。反応が鈍かったのは高熱で思考が鈍っていたせいかもしれない。
「解熱薬も買ってきたから飲んでください」
薬を開けて和樹の手の平に乗せ、水の入ったコップを渡すと素直に薬を飲んだ。薬嫌いでもなかったようだ。薬の代わりにセロリを食べたと聞いた時は呆れかえったが、ただのセロリ好きなだけみたいだ。
水を飲むために顔を上げた和樹は飲み終わると再びゆかりに凭れかかった。
「……和樹さん、寝るのはベッドにしてください。私食器片づけちゃいますから」
「うん……」
返事はしたものの動こうとしない和樹に、仕方なく体を支え手を引いて立ち上がらせた。自分よりもずっと背の高い和樹を立ち上がらせるのはかなり骨が折れる。そのまますぐ後ろのベッドの方を向かせると和樹は徐に着ている物を脱ぎ始めたのでゆかりは目をぎゅっと瞑り勢いよく後ろを向いた。家では何も着たくない、そういう人がいるのは知っているが、せめて人がいる時は自重して欲しい。お願いだから脱ぐ前に一言言って欲しい!
ぱさりと服を落とす音がし、次いでベッドのスプリングがギっと音を立てた。もぞもぞとした音が止んでからそーっと振り返ると和樹はベッドに横たわりきちんと布団を被っていた。目を閉じてもうすぅすぅと寝息を立てている。
和樹の寝顔はまるで十代の少年のようにあどけない。普段はなんでも軽々とこなして本当に頼りになる人で、些細なことでも困っているとさり気なくフォローしてくれるとても紳士的な大人だ。でも逆に私を頼ってくることはない。
その和樹が弱っている時にあんな風に甘えられて、正直こう、ぐっと母性本能が擽られた心地がする。あれだけモテる人があんな一面を持っているなんて、そのギャップに大抵の女の子は落ちてしまうだろう。私はまだそんなことはないけど。
自分の思考にゆかりははっと目を瞠ると両手で思いきり自分の頬を叩いた。
『まだ』じゃないでしょ……! しっかりするんだ石川ゆかり! 自分から炎上を呼び込むなんてもっての外だ。『まだ』じゃない。そんな日は来ない! ここにいては調子が狂ってしまう。さっさと片付けをしてさっさと帰ろう!
ゆかりは食器を持つと台所へと身を翻した。ほんの少ししかない洗い物はものの数分で片付いた。
買ってきてダイニングテーブルに放置していたイオン飲料は大分冷たさを失っていた。常温とまでいかないが飲みやすくなっただろう。和樹が飲みやすいようにコップと一緒に寝室のテーブルに置いておく。
もう一度台所で片付け忘れがないか確認するとゆかりははたとあることに気付いた。鍵はどうしようか。一階のポスト……では不用心かな。玄関ドアに新聞受けがあるからそこに入れておけばいいだろうか。書き置きでもしておけばすぐわかるだろう。それとも起こすのは忍びないけれど和樹に閉めてもらおうか。帰るのに一声掛けて、起きられそうならそうしてもらおうか。うん、そうしよう。
ゆかりはベッドの横に膝をつくと再び和樹の肩を叩いた。
「和樹さん、和樹さん」
「ん……?」
ゆかりの声に和樹は億劫そうに薄く目を開いた。やはり相当つらそうだ。鍵は新聞受けに入れよう。
「私もう帰りますね。ペットボトルここのテーブルに置いてあるので水分補給しっかりしてくださいね。あとお粥の残りとお味噌汁が鍋に……」
「いかないで」
「え?」
遮ってきた和樹の声は小さくてよく聞き取れなかった。なんだろうかと聞き返すよりも早く、和樹は手を伸ばしてゆかりの腕を掴むと自分に引き寄せた。
突然のことにゆかりはバランスを崩し、和樹の上に思いきり倒れこんでしまった。
「わっ! 和樹さんなにする」
「いかないでゆかりさん」
ゆかりが抗議の声を上げると今度は耳元で和樹の声がした。はっきり『いかないで』と聞こえた。というか気付けば和樹に抱き締められている。
なんで? どうして? 一体何が起きているの? 大量のクエスチョンマークが頭の中を駆け巡る。
「和樹さんっ放してください! ちょっと、和樹さん!?」
ゆかりが大声を出しても踠いても和樹は放しもしなければうんともすんとも言わない。
腕にありったけの力を籠めて離れようとするも和樹の腕は解けない。それどころか後頭部まで押さえられて文字通り身動きが取れない。細身に見える体にどれだけの筋力があるのか、抱き締める力は痛いぐらいに強くてゆかりの力ではびくともしない。
「和樹さん! 本気で怒りますよ? 聞いてるんですか!?」
だが和樹は返事をしなかった。代わりに聞こえてきたのはすぅすぅと規則正しい寝息だった。
「うそっ! 寝てるの!? ちょぉっとぉおおおぉ! はなしてよぉぉぉぉっ!」
どれだけ暴れようとしても和樹の腕は解けない。眠ってるくせにこんなに力が強いなんて信じられない。逆にゆかりの方が息が上がってきてしまい、もう泣き出したい気分だった。
私が一体なにをしたというのか。マスターに頼まれてお見舞いに来て、和樹さんが一人でつらそうだったからちょっとお世話しただけなのに。こんな目に遭うなんてあんまりだ。
どうしてただの常連客(とは言い難いくらいいろいろと世話になっているが)にこんな抱き締められなくちゃいけないの? それにさっきの『いかないで』ってなに。勘違いしそうなことは言わないでよ! こんなところ誰かに見られてJKに知られてしまったらとても炎上では済まない。現実に嫌がらせされたり、もしかしたら夜道で襲われたりするかもしれない。喫茶いしかわに迷惑がかかったり今まで通りには安心して暮らせなくなるかもしれない。そんなの嫌に決まってる。
そんなことになったら全部和樹さんのせいだ。私はただ大好きな喫茶いしかわで働きながら平穏無事に暮らしたいだけなのに。そういえば私もお腹が空いた。今日は喫茶いしかわで賄いを食べたきりおやつも食べていない。一体いつまでこの状態が続くのだろうか。
和樹さんの腕が緩む気配はない。和樹さんが起きるまで、下手したら一晩中このまま……? やだやだやだ。早く帰ってごはん食べて、まったり過ごしたい。
「和樹さん……! お願いだから起きて……!」
ゆかりの悲痛な願いも空しく和樹は目覚めない。
「──っ、どうして起きてくれないのぉぉぉ!? さっきまで声掛けたらすぐ起きてくれたじゃないのよー!」
どうにもならない現状にいよいよ本当に涙が滲んできた。
その時、不意にインターホンが鳴った。さっきまでベッドの端にいたはずのワンちゃんが玄関の方で吠えている。
もう誰でもいいから助けてほしい。ああ、でも鍵が掛かっているから入ってこられない。
そう思った矢先にカチッと鍵を開ける音がした。今のは鍵で開けた音だった。ということは合鍵だ。
ゆかりは打って変わって青褪めた。一人暮らしの家の合鍵なんて持ってるのは親か恋人くらいだ。彼の親にこんなところを見られて誤解されるのは嫌だ。彼の恋人にこんなところを見られて修羅場になるのも嫌だ。どちらも冗談じゃない。
だが扉が開き、聞こえてきたのは低い男性の声だった。
「お邪魔します……ぁ」
どこか聞き覚えのあるその声は何かを言いかけて止まった。再びワンちゃんが数度吠えると先程より少し小さな声が聞こえてくる。
「……やぁ、ワンちゃん。久しぶりだね。君のご主人様は……」
青褪めて固まっていたゆかりは、ようやくその声の主を思い出した。以前草野球の時に和樹が連れて来た人だ。
「その声、もしかして長田さんですか? お願い、助けて!」
「えっ!?」
驚く声がし、すぐに寄ってくる気配がした。
「……もしかして、石川さんですか? 喫茶いしかわの」
「そうですそうです! 早く和樹さんの腕解いてください! 私の力じゃ全然解けないんです!」
「は、はい……!」
ゆかりの言葉に長田はすぐに和樹の腕を掴んだ。
「ん……? なんだこの強い力っ」
「長田さん頑張って!」
長田がふんっと息を詰めるとようやく和樹の腕が少し緩んだ。その一瞬の隙にゆかりは和樹の腕から這い出ることができ、ほっとして畳みにへたり込んだ。
「ああ~やっと出られた! ありがとうございます長田さん。本当に助かりました」
ゆかりが深々と頭を下げると長田はその場に膝をついた。長田に思いきり腕を掴まれただろう和樹は相変わらず眠っている。
「いえ……。えーっと、石川さんはどうしてここに? どうして先程のような状態に……」
「和樹さん、今日熱があるって喫茶いしかわに来る予定をキャンセルしたんですけど、マスターにお見舞いを頼まれまして。いざ来てみたら碌な食事もしてないし薬も飲んでないし放っておけなくて。色々買い物してお粥作って食べさせたんですけど、帰ろうと思って声を掛けたら『いかないで』って抱き締められてしまって。和樹さんそのまま寝ちゃって起きないし、腕は解けないし本当に困ってたんです」
「そ、そうだったんですか。つかぬ事をお聞きしますが、その……和樹さんと付き合ってらっしゃるんですか?」
「えっ? まさか! 付き合ってなんかないですよ!」
「え、じゃあなんで和樹さんはあんなこと……」
「なんだったんですかね……。具合が悪いから寂しかったんでしょうか……」
「……」
なんでもなにも私が和樹さんに問い質したいくらいだがそれを長田さんにぶつけても仕方ない。なにより長田さんは私が餓死しそうな窮地から救ってくれた恩人だ。
「でも本当にありがとうございました。長田さんが来てくれたお陰で私は餓死せずにすみました。今度ぜひ喫茶いしかわにいらしてください! お礼にコーヒーご馳走しますから!」
「いえお礼だなんて。お気持ちだけで」
「じゃあお気持ちがわりのコーヒーということで、ぜひ」
「は、はぁ……そうですか」




