139 娘からの初バレンタイン
娘ちゃん四歳くらいのお話。
「はぁ……やってしまった……」
もぞりとベッドから起き上がった和樹は、顔を覆って溜め息を吐いた。
今年はなんとしてもと必死でバレンタイン前夜に我が家に辿り着いた。そのまま妻の隣で泥のように眠り、気付けば今は……昼すぎである。せっかくバレンタインの一日をラブラブハッピーに過ごすために帰ってきたというのに、半日を無駄にしてしまった。
カチャリ。小さな音がする。
見るとドアノブにぶら下がるようにして寝室の扉を開ける可愛い愛娘、真弓の姿。
「あ、おとうしゃんおきた? おかあたーん、おとうしゃんおきたー!」
ぽてぽてと和樹に近寄ってきて(歩き方のアンバランスさが可愛すぎて悶えそうになるのを、和樹は必死で我慢している)ベッドに座る和樹の膝にぺたりと頭を乗せて「おとうしゃんだぁ」と満面の笑顔ですりすりする真弓に胸がいっぱいになる。
なんだこの可愛い生き物。天使か。うん、天使だな。
たまらず抱き上げてぎゅっと抱き締める。きゃあっとはしゃいだ声を出す真弓に思わず頬をすりよせる。
「いたっ! いたいっ! そえやだっ」
泣きそうに歪んだ顔で、ぺしぺしと和樹の腕を叩いて逃れようとする真弓。しまった、まだ髭を剃っていなかったか。
「ああ、ごめんごめん。髭がチクチクして痛かったな」
頬からは離したものの膝の上には乗せて、真弓を宥めるように背中をトントンと叩く。
洋服の袖で涙をごしごしと拭いた真弓は、和樹のパジャマの袖をくいっと引っ張りながら
「あのね、まゆみといっちょにちて」
「うん」
手を繋いでリビングに移動する。
「おはようございます、和樹さん。ぐっすり眠れましたか?」
「おはようございます、ゆかりさん。ゆかりセラピーのおかげでぐっすりです。まさかこんな時間まで寝坊するほど効果が高いとは」
「それだけ疲れていたんですよ。少しは頑張りすぎを自覚してください」
ぷうっとほっぺを膨らませてお怒りポーズの愛妻に苦笑しつつ、おはようのキスとハグを贈る。
昨日、自宅に帰り着いた時点でこれでもかというほどささくれだっていた和樹の気持ちは、ただいまのキスとハグでゆるみ、ゆかりの手作りごはんとともに消化され、湯船に浸かると汗とともに外に流れ出していった。
すっかり穏やかに凪いだ気持ちになって同衾する。いつもはゆかりに腕枕して抱き締めながら眠るのだが。
「今日は特別です。明日は定休日なので腕が痺れてもノープロブレムです」
おどけるようにそう言ったゆかりが和樹の頭を抱き締めて、ゆっくりと撫で始めた。驚いていると。
「このまま眠りましょう?」
「……はい」
そっと囁かれ、ゆかりの甘く爽やかな香りと、女性特有のぷにぷにとしたやわらかな身体の感触と、まろやかな声に包まれていると、瞼が重くなっていったのだ。
こんなに穏やかな気持ちでこれほどの熟睡ができたのはいつ以来だったか、遠すぎる記憶を探る。
和樹の腕の中にいたゆかりはひらりとフレアスカートを翻して和樹の背中をそっと押す。
「さ、和樹さん。座っててください」
「うん」
「とーしゃ」
進が手を伸ばしながらとてとてと和樹の元に寄ってきたので抱き上げる。
「おーはーよ」
「おはよう進。今日も元気か?」
「あいっ」
手を上げて元気に返事をすると、ほっぺにちゅっとしてくれた。そのままぺたりと座り込み、腹にひっつく。
「おとーしゃ、おかーしゃよりおっちいねぇ」
「ああ。お父さんだからな。進もいっぱいごはん食べて遊んで寝て、ぐんぐん大きくなろうな」
「うんっ」
頭を撫でながら言うと、嬉しそうだ。
「おとうしゃん……あのね」
どこかもじもじした真弓と、それを微笑ましげに見ているゆかり。真弓はチラリとゆかりを見る。
「うふふ。和樹さん、はい。ハッピーバレンタイン!」
「どぉじょ、はっぴーばえんたいん!」
和樹は軽く息を飲む。ゆかりからもらえるのは予想通りかつ期待通りだが、まさか真弓からももらえるなんて。子供の成長の速さが嬉しくて、ほんのちょっと寂しい。
震えそうな手を叱咤して、ふたりからのチョコレートを受け取る。
「進くんも、ハッピーバレンタイン!」
「ばえんたいん!」
和樹のお腹にひっつく進には小さな手にふさわしいサイズの、小さな小さな包みがふたつ渡された。よくわかっていない進は、嬉しそうに包みを振り回す。
「もう、進くんったら……」
ゆかりは苦笑まじりにそれを見ている。
チョコレートを受け取って固まったまままじまじとそれを見つめていた和樹は、ようやく解凍され、ふたつのチョコレートを顔の前に持ってきてやや涙ぐみながら喜びを噛み締めていた。
「はぁ……僕はなんて幸せなんだ。嬉しすぎてもったいなくて食べられない……」
「ええっ!」
ガーン! とショックを受けた顔の真弓。大きな瞳にみるみる涙が溜まっていく。
「おとうしゃん、まゆみのちょこれーと、たべたくないの? ぐすっ」
「ち、違うっ! すっごく食べたいよ! 食べたら真弓にもらったチョコレートがなくなっちゃうから……」
和樹は大慌てで言い訳を始めた。
べそをかく真弓と、それを慌てふためいて宥める和樹と、両手に包みを握ったまま和樹のお腹にひっつくのが楽しくなっちゃってるけどお昼寝タイム間近でこっくりし始めた進と。
ゆかりはくすくすと笑いながらそれを眺め、お寝坊さんのお昼ごはんの準備をすべく台所に戻っていった。
娘ちゃんに勘違いで泣かれたお父さん、ちゃんとご機嫌にすることはできるのか!?
このあと、ご近所住まいの祖父母と愛犬がバレンタイン突撃しに来ます。が、孫からのカウンターチョコレートをくらって大喜びです。




