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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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138-2 if~自覚のあるゆかりさんが告白を決意してみた~(中編)

 ゆかりは後に、やっぱりあの時、渡せばよかったなと後悔した。あの時用意したチョコレートにはたくさんの感謝の気持ちを込めていた。チョコはその媒体に過ぎない。せめて渡そうとしていたその気持ちだけでも、伝えればよかったのにと。

 

 和樹はそれからすぐ、喫茶いしかわに来なくなってしまったのだから。

 いきなりではあったが、ゆかりの中では何となく予測していたことでもあった。彼はどこか掴み所のない人だったから、ある日突然ふっといなくなってしまう様な気がしていた。分かってはいても、いざいなくなってしまうと、胸にぽっかり穴が開いたような感覚が抜けない。ふとした瞬間に彼の姿を探してしまい、もういないんだよね、と再認識する日々をしばらく繰り返していた。


 予想外だったのは、その後に彼が再び現れたこと。そして何より予測不能だったのは、そんな彼に、ゆかりが恋をしてしまったことだ。


 今思えば、たぶん姿を消す以前から無意識に惹かれていたのだと思う。けれど、はっきりとそれが恋心だと自覚したのは、再会してから。彼の姿を目にする度、言葉を交わし、その人となりに触れる度、ゆかりは恋心を募らせていく。


 恋は甘酸っぱいものだというが、とんでもないとゆかりは思う。少なくともこの恋は、ふわふわとした甘酸っぱさだけではない。毒のような甘さと、それ以上のどうしようもない苦さが、綯い交ぜになっている。この不毛な恋が実ることはあり得ない。何より相手が悪すぎる。なんて身の程知らずなんだろうと、自分で自分を呪いたくなるほどに。

 この想いは、自分で終わらせるか、彼に幕を引いてもらうかのどちらかしか道はない。ならば、自分の手で終わらせるべきだ。わざわざ彼の手を煩わせるわけにはいかない。

 

 だから、カレンダーを見てバレンタインが近いことに気が付いた時、チョコレートを作ろうと思いついた。彼を想い、自分の心をありったけ込めた、彼のためのチョコレートを。


 けれど、それを初めから渡すつもりはなかった。義理チョコさえ渡せなかったのに、本命なんてとてもじゃないが、本人に渡す勇気も度胸もない。でも、それでいい。そのチョコレートは、自分ですべて食べてしまおう。

 彼への想いを自分でゆっくりと租借し、味わって、飲み込んでいく。そうして、この恋心を全て取り込んで、消化してしまえばいい。誰に委ねるでもなく、自分の中で少しずつ、一つ残らず溶かして無くしていく。それはこの恋を終わらせるのに、とても良い案のように思えた。


 そのために、バレンタイン特設コーナーで材料を揃え、何事も形からだとラッピング用の包装も購入した。

 本当は少しだけ、期待しなかったと言えば嘘になる。もし、今日彼が店に訪れたなら、と。けれど、やっぱり待ち人は来たらず。それに、もし彼が来たところで、結果は同じだっただろう。


「会えてもきっと、渡せなかっただろうなぁ」


 ぽつりと独り言を呟きながら、お湯を沸かしてコーヒーをドリップし、自分用のマグカップに注ぐ。カップとチョコレートを持ってカウンターに座ると、よし、と気合を入れて、するりとラッピングのリボンを紐解いた。中から昨夜作ったトリュフが顔をのぞかせる。ココアパウダーがかかったものを一つ指で摘まみ、口の中に放り込んだ。口の中で、ココアとビターチョコのほろ苦さと控えめな甘さが広がり、滑らかに溶けていく。我ながら良い出来だと思う。バーボンとチョコレートは相性が良いと聞いたことがあったけれど、これが正解だった。バーボンの香ばしい風味が味に深みを増している。


 ゆっくりと、チョコレートを味わいながら、まるで彼のようだとゆかりは思う。生クリームのほんのりとした甘さも全体を包むビターチョコのほろ苦い甘さも。そして、以前の彼からからごく偶に感じた危険な近寄り難さを連想させる、洋酒の大人の香り。それらが混ざり合い、複雑で濃厚な味わいを――和樹という一人の人間を形作っている気がするのだ。一口食べてしまえば、きっと誰もが虜になってしまうだろう。自分がそうであるように。


 コーヒーを一口飲んで、ほうっと溜め息を零す。バレンタインが終わるまで、まだまだ時間はある。ゆっくりと味わって、少しずつ無くしていこう。ゆかりがそう思い、再びチョコレートに手を伸ばそうとした時。


 カラン。


 鳴るはずのないドアベルが、来訪者を告げた。

「え!?」

「こんばんは、ゆかりさん。もう営業時間は過ぎていたんですが、明かりが付いていたので、寄ってしまいました。……ご迷惑でしたか?」

 そう言いながら入ってきたのは、なんと和樹その人だった。ゆかりは驚きのあまり瞬間的に息を飲み込む。


「あ、い、いいえ、大丈夫です。やだ、私、鍵開けっ放しだったんですね。もう閉店ですけど、和樹さんなら大歓迎です。ちょ、ちょっと待ってくださいね」


 ゆかりは素早くチョコレートの包みに蓋をすると、エプロンのポケットに隠してカウンターの中に戻る。入り口とゆかりが座っていた場所まで離れてはいるものの……まずい、見られただろうか。冷汗が背中を伝っていく。

 カウンター越しにちらりと和樹を見れば、和樹は「お邪魔します」と言いながら涼しい顔をしてコートを脱ぎ、イスに座っている。何も突っ込んではこないので、どうやら見られなかったらしいと、こっそりと胸を撫で下ろした。


「今までお仕事だったんですか? お疲れさまです」

「いえいえ。ゆかりさんこそ、少し目の下にクマができていませんか? 寝不足なのでは」

「あ、はは、実は夕べ夜更かしをしてしまって……。おかげで今日は昼まで寝ちゃって、あやうくシフトに遅れるところでした」

「それは災難でしたね」


 何気ないふうを装いながら、チョコレート作りで寝不足であることを誤魔化す。よく見れば、和樹もスーツに皺が寄っているので、ちゃんと帰れてはいないのかもしれない。


「それで、何にします? といっても、もう片付けを終わらせてしまったので、飲み物くらいしか出せませんけど」

「なんでもいいですよ。ゆかりさんのお任せで」


 和樹はそう言って、にこりと笑みを浮かべた。笑顔なのに、その瞳が笑っていない気がするのはなぜだろう。ゆかりは言い知れぬ居心地の悪さを感じながら、いつもの通りコーヒーを淹れるべくケトルを火にかけようとして――ふと、ある考えが過った。

 こっそりとエプロンのポケットからチョコレートの包みを取り出し、和樹から見えない位置に避難させ、極力音がしないように注意しながら再び包みを開く。


 このチョコレートを、ホットチョコに混ぜて出してしまうのはどうだろう。そうすれば、本人にさえ気付かれずに、彼にチョコレートを渡すことができる。

 彼のために想いを込めて作ったチョコレート。他の誰にも、本人にさえ渡すことができないと思われたのに、まさかのここにきて、密かに渡せる千載一遇のチャンスだ。

 真正面から和樹にぶつかっていった、あの女子高生達の勇気と度胸はすごいと思う。大人はずるくて、臆病なのだ。それでもほんのひとかけら、想いを届けようとする卑怯な心を許してほしい。


 ゆかりはお湯を沸かす代わりに、ミルクを鍋に入れて火にかける。お店で出すのと同じように刻んだチョコレートを溶かした中に、自分が作ったトリュフをこっそりと一粒だけ落とした。そして動揺を隠しながらクルクルとチョコを溶かし、カップに注ぐ。マシュマロは少なめにして、ココアパウダーを振りかける。

 そうしてできたホットチョコレートを、緊張で手が震えないように気を付けながら、和樹の前に差し出した。


「はい、どうぞ。今日はバレンタインなので、バレンタイン限定メニューのホットチョコレートです。甘いのは大丈夫でしたよね?」

「ええ。……ありがとうございます。いただきます」


 和樹がカップを手に取り、口に運ぶのをゆかりは胸をどきどきと高鳴らせながら見つめた。一口、二口と和樹がホットチョコを口にする。ゆかりのチョコレートが混ざったそれを。それだけで、何とも言えない高揚感と背徳感がゆかりを襲った。

 和樹は余韻を楽しむようにゆっくりとカップを置くと、ゆかりに不思議な色を宿した強い視線を向けた。その瞳に射抜かれて、ゆかりの心臓はまた違った意味で跳ね上がる。まるで、ターゲットをロックオンしたと言わんばかりのあの瞳を、ゆかりは知っている。でも、どこで?


「――ゆかりさん。このホットチョコレート、お店に出したものとは少し違いますよね?」

「えっ。そ、そんなことないですよ。同じものです」


 いきなり真実をズバリ言い当てられて、ゆかりは動揺した。咄嗟に取り繕うが、和樹にはまったく通用していない。


「だってこれ、ウイスキーが少しだけ入っているでしょう。喫茶いしかわにウイスキーは置いてませんよね?」

「その、最近新メニュー開発用に買ったんです。料理で使うこともあるから……」

 苦しい言い訳だ。そう分かっていても、後ろめたさから素直に認めることを避けてしまう。


「なら、見せてくれませんか? とても良い香りなので、銘柄を知りたいんですが」

「そ、それは……」

 言葉に詰まる。見せられるはずがない。彼の言う通り、今、喫茶いしかわにウイスキーは置いてないのだから。ゆかりがぐっと押し黙り、負けが見えていた押し問答に敢え無く決着がつくと、和樹は不敵な笑みを浮かべた。

 ああ、そうだ、この瞳は。近所の猫が狙いを定めた獲物に飛びつく前に見せるものと同じだ。


「おそらくですが、このホットチョコレートには、あなたの手作りのチョコが使われている。違いますか?」

「ど、どうして……」

「徹平くんが、デパートの地下でゆかりさんを見かけたそうですよ。バレンタインの特設売場の前で。しかも、既製品のチョコレートだけではなく、手作り用の材料とラッピング材も買っていったと」

「うっ」


 まさか知り合いに見られていたとは。ゆかりを気恥ずかしさと後悔の念が襲う。もっと郊外で買うべきだった、などと思っても、いまさら遅い。


「既製品のチョコレートはご家族やご近所さん用。手作りの方が本命といったところでしょうか」

「……さぁ、どうでしょう」

「では、正解だと仮定して。今日、ゆかりさんのシフトは昼からラストまでだった。シフトの直前まで寝坊したということなら、渡すなら今の時間しかない。なのに、ゆかりさんはここでのんびりとコーヒーを飲んでいた。閉店作業が終わったにも関わらず」


 いつのまにか、和樹の纏う空気が、犯人の罪を暴く刑事そのものになっている。まるで咎めるような強い視線で見詰められて、ゆかりは唇を噛み締めて俯く。けれど容赦なく、和樹は真実を暴いてくる。


「つまり、その相手にチョコレートを渡せなかった。不要になったそれを、一人で消費しようとしていたところに僕が来た。違いますか」

「……」


 ゆかりは俯いて口を結んだ。これは仮定の話ではない。和樹は確信を持って、推理を明かしている。その推理はまるきり正解でもあるし、不正解でもある。

 渡せなかったのではない。もともと、一人で食べるつもりだったのだ。それにある意味で、渡すことはできたのだから。

 けれど、そんな真実を言えるはずがなく、唇をぎゅっと閉じて沈黙を返すしかない。


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