136-3 あま~いあまい(後編)
和樹は、一ヶ月以上帰れなかった我が家へようやく辿り着く。
セキュリティと、住民の身元の確かさで選ばれたマンションだ。ふたりめが産まれる前に引っ越した。結婚を機に(と言うか、ゆかりと同棲するために)移り住んだそれまでのマンションにはほとんど帰れていなかったので、周囲に不審がられていたかもしれない。
さて、新居は自由に選べたわけではない。調査を重ね、選ばれた三つの候補の中から、ゆかりと一緒に内覧し、ゆかりが生活しやすい物件を選んだつもりだが、果たしてゆかりは満足してくれているのだろうか。
朝四時。
ゆかりさんはきっとまだ寝ているだろう。
そっと子供部屋を覗くと、同じポーズで眠っている子供たちがいて、表情が弛む。
足音を忍ばせて入った夫婦のベッドルームには、遮光カーテンの隙間からこぼれた街灯の光が薄く差し込んでいた。
羽毛布団に潜り込んで、こんもりと丸くなった愛妻に苦笑する。顔が見たいが、めくったらきっと起きてしまうだろう。そうしたらきっともう抱きしめて離せなくなる。
せめてシャワーくらいは浴びないと、と汗臭くなったスーツを見下ろした。
◇ ◇ ◇
んん、とゆかりは唸った。
寝返りをうちたいのに体が動かない。
何か、ものを置いて寝たっけ。
なかなか開かない瞼をあけると目の前に筋肉質な腕があった。
「……っ」
声を出しかけて慌てて押さえる。
静かに聞こえるゆったりとした深い寝息。
ゆかりは和樹を起こさないように全身に神経を張り巡らせて、そうっとベッドサイドの目覚まし時計を見た。
五時三十分。
昨夜はいくらベッドで目を閉じてもなかなか寝付けず、諦めて起きだした。リビングで録画していたドラマをみたり、喫茶いしかわのSNSにあげる写真を選んだりして、結局寝たのは丑三つ時だった。
ゆかりは知らないことだが、それは和樹の任務が完全決着した時間と、不思議と一致していた。
ゆかりはゆっくりと身体の向きを変えると、久しぶりの夫の顔を見つめた。
少し、疲れているように見える。
でも、良かった。無事に帰ってきてくれた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
ぱちりと瞼が開いて、彼の瞳がゆかりをやさしく映す。
「おはよう」
「おはようございます、ごめんなさい起こしちゃった」
和樹の手がゆかりの頬に添えられる。
ゆっくりと唇を触れあわせるだけの羽のような口づけをかわす。
「和樹さん…」
「ん」
「和樹さん」
「うん」
「ゆかりさん」
「はい」
名前を呼ぶたびに、抱きしめ合う力を込めていく。
「ほんとに和樹さんだ」
「うん、長いこと留守にしてごめんね」
言葉を交わしながら、何度もキスをする。ふわふわと綿菓子のようなキスから次第に熱く押し当てて熱を分け合っていく。
「怪我してませんか」
「今回は無傷だよ、大丈夫」
確かめてみる? とゆかりの耳元で囁くと、ゆかりはキスであがった息を熱く吐きながら、こくんと頷いた。
久しぶりの逢瀬は、お互いを確かめ合うゆっくりとしたものだった。
肌を指でたどり、唇で痕をつけていく。
和樹にとっても不思議な感覚だったが、ただ欲望のままにがっつくよりも、ただ彼女の温もりを感じているだけで充足感があった。ゆかりも、いつもより深い感覚に戸惑いながら、和樹の肌の熱さを全身で感じていた。
事後の気だるさより幸福感が二人を包み込む。
「おなか、空いたね」
「朝ごはんにしましょうか」
くすくすと笑いながら、ゆかりが起き上がる。カーテンの隙間から漏れる一条の光が、その白い背についた赤い跡を際立たせていた。
「僕が作るよ」
「ううん、私が作りたい。パスタでいい?」
「うん、あのさ」
ゆかりから顔をそらして右上を見上げながら、和樹は小声で言った。
「僕のチョコ、ある?」
「え」
「いや長田が、というか全員、ゆかりさんのチョコを僕より先に、いやそれはまあ、でも僕は今年の手作りチョコ食べてないし……いや、バレンタインに帰れない僕が悪いんだけど」
天井を見たままぶつぶつと呟く和樹を目を丸くして見ていたゆかりは、嬉しくなってその顔をのぞき込んだ。
「楽しみにしてくれてました?」
「え」
「バレンタイン」
和樹は今更ながら恥ずかしくなって、顔を片手で覆った。
「いい歳してって思ってます?」
「まさか! 嬉しいです。ふふ、和樹さんの口に合うといいんだけど」
「……市販品じゃないよね」
「ちゃんと手作りです。美味しいって言ってもらいたかったから色々試してたらつい作り過ぎちゃって、それで長田さんに」
「僕が全部食べたかった」
「そう言うかもしれないと思ったから持って行ったんですよ。和樹さんにもちゃんとありますから、それだけで我慢してくださいね」
それに、とゆかりは続けた。
「結構、量もあるんですよ」
起きたら久々に帰ってきていた父親に大喜びで抱きついてきた子供たち。愛娘と愛息子にねだられるまま全力で遊んでいる間にゆかりが作った朝ごはんを、家族で会話しながら食べる。
子供たちを部屋に戻し、パスタの皿が下げられた後に、テーブルに並んだ三つの箱。
和樹は、順番に並べていくゆかりに不思議そうな顔をした。
「ゆかりさん?」
もう一度キッチンに入って、コーヒーをお盆にのせて戻ってくると、ゆかりは和樹の向かい側に座った。
「三種類作ったんです」
「三種類?」
「そ。そちらからボンボンショコラ、チョコレートスコーン、トリュフ、です」
ウェイトレスがメニューの説明をするように、淡々と告げる。
「バレンタインのは日にちが……だから昨日、改めて作ったんです」
慌てて付け加えたその頬は赤い。
「嬉しいな。食べていい?」
「もちろん! ……どうぞ」
緊張して見つめるゆかりの前で、和樹はボンボンショコラを一つ指につまむとポンと口に入れた。
甘さの次に爽やかな苦さが広がる。
「おいしい」
目が無くなるほど垂れ下がったまなじりと緩んだ唇。
「ほんと? 甘すぎない?」
「うん、すごく美味しい。表面甘くて、中はビターですごく美味しい」
言いながら、和樹は自分でも顔がとろけていくのが分かった。
美味しいだけじゃない、すごく幸せだ。
チョコレート一粒だけで、こんなに満ち足りるなんて、自分が経験しなければ絶対に信じられない。
それを見ているゆかりも、安心したようにふにゃっと肩の力を抜いた。
「良かったあ」
和樹は一粒つまんでゆかりの唇に軽く触れさせた。えー、と恥ずかしがりながらも、和樹がチョコでトントンとつつくと「あーん」と口を開ける。そっと入れると、ゆかりの顔も甘くとろけていく。
可愛い。
嬉しすぎる。
これを食べることができたのは、世界中で和樹だけだと思うと叫びだしたいくらい嬉しい。
「僕だけの特権だね」
「え、子供たちとお母さんにはあげちゃった。だって自分だけで食べたらにきびできちゃうもの」
「……お義母さんと僕らの愛の結晶なら許すしかないですねぇ」
次は、チョコチップたっぷりのスコーン。
スコーンを手にしてゆかりに目を向けると、さっきよりも頬を赤く染めた。
和樹の好みを考えながら色々作っているうちに作りたくなった。
「和樹さんに食べて欲しかったの」
チョコチップにはスイートチョコ、スコーンは甘さ控えめにしつつ、ポロポロしないほどよいしっとり感。ザクザクぽろぽろなスコーンにクリームやジャムをたっぷりつけて食べるのも美味しいけれど、そのままでも美味しいスコーンがこのコーヒーには合っている。
実は、マスターにメニューにも加えてもらったゆかりの自信作だ。
お客様の評判も上々で、スコーンを食べに来てくれるリピーターもできたほどの人気メニューになった。
確かに、美味しい。
パスタをしっかり食べた後でも、あっという間に食べられてしまうし、甘すぎないのが和樹好みだ。甘いチョコがアクセントになって、また食べたくなる。
和樹は悔しいなと呟いた。
「新作メニュー、一緒に考えたかった」
そのとき、一緒にいられなかったことが悔しい。
ゆかりの想いのつまったこのスコーンを、他の人間が先に食べていたのが悔しい。
そう素直に言うと、「チョコ入りは、喫茶いしかわでは出してません。バレンタインフェアでも」と困ったように笑った。
「僕もね、気がついたら新作メニュー考えてたり、ね。その度に、どんなに考えても君とは会えないし喫茶いしかわにも行けないのにって落ち込んで、でもまた気がついたら考えてて」
「和樹さんの新作メニュー! ね、私それ食べたい! 今度作って和樹さん」
「もちろん。あ、じゃあ今日の夕食は僕が作るよ。あとで一緒に買い物に行こう」
「嬉しい! ありがとう。でも無理はしないでね」
「わかってますよ、奥さん」
奥さんと呼ばれてまた真っ赤になったゆかりが、こほん、と咳払いして、そちらもどうぞと三つめのトリュフを差した。
「これね、こっちは中が洋酒のガナッシュなの。今から車で出るならこっちの珈琲風味の方だけにした方がいいかも」
少々のアルコールでは酔わないが、それでもゆかりの心遣いを受け入れるべきだろう。洋酒のほうは、夜にいただくことにして、珈琲味のほうを口に入れる。
「ん?」
まず感じたのは苦み。甘くないことに甘さになれた脳が驚いている。
やがて、カカオそのものの苦みのなかにほのかな甘みが感じられる。かじると、豊かな珈琲の香りが鼻腔をくすぐって、思わず手のひらで口を覆っていた。
「すごいな、これ」
「どう?」
期待と不安の入り混じった顔で、ゆかりが身を乗り出す。
「すごく美味い。チョコのカカオと珈琲のバランスが良いって言うか、ガナッシュを味わってるとチョコの苦みが絶妙に絡んでくる」
「ホント?」
「うん、チョコってこんなに味が変わるんだな。今まで味にはそれほどこだわりはなかったんだけど、すごく僕好みだ。ありがとうゆかりさん」
お世辞なしに賞賛すると、ゆかりはわかりやすく照れた。
「褒めすぎ、でも嬉しい! これね、和樹さんをイメージして作ったから、チョコの苦みとかすごく考えたの」
この味を一番生かせるのは何か、色々作ってみたけれど、やっぱりシンプルなトリュフが一番だった。
「僕? それこそ褒めすぎだよ、ゆかりさん」
ゆかりは、そんなことないです、と笑った。
和樹は普段、どこか硬質で頑固で、朝出ていくときはパリッとしているのに、帰ってくるときはボッサボサで疲れ果てて仏頂面で、無表情でソファーでダレていたりする。そして、頭がいいのになんだかんだと力技で解決しちゃうような人だ。
でも、ゆかりに触れてくる手はいつもやさしくて、その瞳は甘い。ゆかりよりずっと大人だけど、どこか子どもっぽいところもあって、感情豊かで、知らなかったいろんな表情が見えてくる。
このチョコだってまだまだイメージ通りではないのだ。
「来年も期待しててくださいね」
微笑むゆかりにたまらなくなって、和樹は立ち上がってテーブルの上から手を伸ばした。
ん? と傾げる顎をとらえて口づける。
ボンボンショコラを食べていたゆかりの唇は甘かった。
「和樹さんっ!」
「今、そういう雰囲気だったでしょ」
知ってます? チョコって媚薬の効果もあるんですよ。席を立って、座っているゆかりの背後に回って耳元で囁く。
「和樹さん、媚薬なんて効かないんでしょ」
「君のは別」
「ダメ、今から子供たちと公園までお散歩に行って、買い物に行くんだから」
ゆかりはキッパリと言ったが、その耳たぶは真っ赤だ。
「そうだね、今日の夕食は僕が作るんだった。精のつくメニューにしよう」
「……え」
「まだトリュフも残ってるし、ワインと一緒に食べようか」
真っ赤な耳たぶをパクッと噛む。
ゆかりがひゃああっという悲鳴をあげると、「おかあさんっ!?」と子供部屋から子供たちがバタバタと出てきた。
お散歩にはまだ行けそうにない。
ゆかりさんもなんだかんだ言って凝り性です。もしかしたら新メニュー開発より張り切ってたかもしれません。
和樹さんは、自分のためだけに作られた、しかもいつ帰ってきても食べられるようにと作り直されたチョコレートたちにご満悦。
でも出勤したら「そういえば奴らはブラウニーとかケーキとか言ってたな……」と、自分がもらってない種類のチョコレート菓子を食べた部下がいることに気付いてしまい、「僕食べてませんよ。僕も食べたいです」と、ゆかりさんへのおねだりが炸裂します。




