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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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136-2 あま~いあまい(中編)

「なーがーたーさーん」

「なんだ」

 後ろからのしかかるようにのぞき込んでくる後輩を腕で払いのける。

「その紙袋、なんですか」

「彼女ですか」

「チョコですか」

「多すぎませんか」

 あとからあとからゾロゾロと湧いてくる。

「お前らは墓場のゾンビか!」

 一喝するがまるで効果はない。


「くださいよーくださいよー」

「チョコレートくださいよー」

「ギブミーチョコレート」

 こんなところをあの人に見られたらどうなることか。

 とはいえ、先に回った部署でも同じような光景が広がっていたわけだが。

 奥様、ご安心を。

 おそらく数時間のうちに跡形もなく消え去ります。


「これは、石川さんの奥様からの差し入れだ!」

「おおおおおおおお!」

「マジか」

「女神か」

「チョコレートの女神!」

「お前ら、石川さんもまだ食べられないってのに……」

「それはそれ、これはこれ、ですよ!」

「僕、コーヒー入れてきます!」

「じゃあ、私が公平に分けてあげる」

「絶対公平じゃないやつそれ!」

「あ? なんか言った?」

「……公平にお願いします」

「やだー最初から公平にするって言ってるじゃなーい」

 ガタガタ抜かすなこの野郎、と平野が低く呟いた。

 今日は、はげ親父の接待だ。

 その前に真面目にこっちに出勤してるんだ、甘い癒やしを求めてもいいだろう?

 凄む美人に、長田は袋ごと渡した。



 ◇ ◇ ◇



 チョコレートの決戦日を数日過ぎたその日が、出張最終日となった。

 和樹はハニートラップなぞ使うまでもなく出張先で若手実業家自身の信用を得て、取引の成果を次々と獲得していった。和樹とさほど年齢が変わらぬ若手実業家は、確かに優秀な経営者であり能力もあっただろうが、和樹から見れば何もかもが甘かった。



「やけに皆気合が入っていたな」

「そうですか。ああ、でもそうかもしれませんね」

 大口の仕事が無事に終わった後も、以前なら和樹が軽口を叩くことはなかった。武道の残心とでもいうか、油断なく気を張り巡らせていた。今も無論油断はしていないだろうが、良い意味で余裕があり周囲が見えているようだ。


 和樹につられて長田の口も軽くなる。

「バレンタインのチョコレート効果でしょう」

「は、なんだそれ」

 急激に低くなった声に、しくじりを悟った長田はバッと直角に頭を下げた。

「どうせ隠し通せないでしょうから申し上げます。奥様からチョコレートの差し入れをいただきました」


 隣に立つ上司と自分の周囲だけ重力が変化したのを長田は感じた。

 こうなることは分かっていたが、受け取らないという選択肢も食べずに和樹の帰りを待っているという選択肢もなかった。

 バレンタインにもらったものはバレンタインのうちに!


 仕事柄、義理チョコを気軽に強請ることも難しい我々にとって、それがどれほどありがたかったことか。「僕、これで一年間頑張れます」と泣きながら食べた部下たちは言葉通り、今日の彼らはうきうきるんるんと和樹の手足としての任務(しごと)に臨んでいた。

「石川さんの奥様のために、石川さんをさっさと帰らせるぞ!」

 これを合言葉に、それはもう命をかけて働いたのだ。



「……おい」

 おっも! 空気おっも!

 この人は結婚して人間らしくなったはずなのにオカシイな、重力も操れるなんて、ハハハ、漂ってくるのは殺気か妖気か。

「石川さんのチョコレートの試作品です」

「試作品」

「引き出物サイズの紙袋ふたつ分、せっかくのお気持ちですので、皆で分けていただきました。お戻りになりましたら、奥様に皆からの礼をお伝えください」


「……僕より先に」

「え」

「先に食べたのか、ゆかりさんの手作りチョコを……僕もまだ貰ってないのに」


 初めてもらったのは、市販の義理チョコだった。マスターのもご近所のも市販品だったから差はつけてないだろうが、その前の年は手作りだったと聞いていたから、かなりショックだった。

 いや、当時は手作りの菓子など最も忌避すべきもので、他の女性にはチョコレートが苦手で、と予め断っていたのだが、それでもゆかりからはもらえると思っていただけにショックだった。その市販品すら取り上げられようとして、慌てて腕に抱え込んだが、よく考えたらいい歳して恥ずかしい行動だったな。


 結婚して、堂々と手作りをもらえるバレンタインを迎えて一安心できていたというのに、なんで今年の自分は海外出張なんてしてたんだ。考えまいとしていたことが脳内を占拠していく。


「お疲れさまでした! 奥様にチョコレートご馳走様でしたって伝えてくださいね」

「チョコレートケーキ絶品でした!」

「お疲れ様でした。自分はブラウニーというのを頂きました、大変おいしかったとお伝えください」

「僕もいただきました、今年もゼロだと思ってたんで、ほんっとに嬉しかったです」

「デパチカの一粒千円くらいするのより美味しかったですよ! 奥様すごいです」

「来年もお願いしまーす」

 通りすがりに礼を言っていく仲間たちの姿を、和樹は呆然と見送った。


「石川さん」

「ないんだぞ僕は! なんであいつらが先に、僕より先に食べてんだよ!」

「石川さん、今日はこのままお帰りください。あとは我々にお任せを」

「長田……」

「は」

「お前はいくつ食った?」


 うっそりと笑うその瞳孔は闇にも光る、狂気の色。

 数年前までよく見ていた眼だ。とある喫茶店に通い詰めるようになってからは、ほとんど見なくなっていたが、久しぶりに見ても別に懐かしさは感じない。感じるのは身の危険だ。


「チョコレートをランチにするような男は、一体いくつ食べたんだろうな?」

 長田の胸にひたと当てられた指は今にも胃に穴をあけて、食べたチョコを取り出しそうな鋭さをもっている。

 そんなところにチョコはありません! もう消化しきってます!

「ひ、一つです! 誓ってそれ以上は食べておりません!」

「まさか、お前が一つで我慢できるわけがない」

「本当です! 全員一つ厳守です。平野に配らせたので間違いありません!」


 長田の必死の叫びに、自分の名前を聞き取った女、平野が近づいてくる。

「平野、証言を頼む。俺は一つしか食ってないよな」

「あ、奥様のチョコですか。ご馳走様でした。そうですよ、他の班にも強奪されちゃってあっという間になくなったんです。うちの班の分はなんとか一つずつ確保しましたけど、他のとこなんて一つを半分にして分け合ったそうです。私も全種類食べたかったのに」

 うちの班とは言っても作戦ごとに編成されるので、今回限りの班といってもいい。和樹の存在を名前でしか知らぬような状態で今回の任務に参加した者もいるが、そんな彼らの心を一つにしたのがゆかりのチョコだった。


「そうか、長田」

「はいっ」

「つまり全員食べたんだな」

「そういうことに」

 和樹は嗤っていた。

「そうか、全員か。出張でストレスもたまっているしちょうど良い。明後日、きっちりしごいてやろう。もちろん全員。……それから、今日・明日は、休みをもらう」

「わ、わかりました」

「緊急以外の連絡は極力控えてくれ」


 足早に去っていく上司を見送って、長田はその場にへたり込みそうになった。

 明後日は地獄のシゴキが待っているとしても、その程度で済むなら御の字だ。和樹の特訓なら喜んで受ける者もいる。

 和樹も今夜の皆の働きには満足しているのだろう。ただ、それとこれとは別なだけで。


「またチョコレート食べたいな。奥様きっと他のお菓子もお上手ですよね。お願いしちゃだめですかね」

「お前、強いな……」

 平野は、にやりと笑って長田の肩をパシッと叩いた。

「お疲れ様でした、長田さん!」


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