136-1 あま~いあまい(前編)
一つ目は、スイートチョコでコーティングしたビターなボンボンショコラ。
二つ目は、ゴロゴロとチョコチップを入れたスコーン。
三つ目は――――?
◇ ◇ ◇
バレンタインを迎えるこの二月。
だが、渡す相手は、松の内があけた頃から「しばらく帰れなくなります。連絡も難しいかもしれません」と言い置いて、仕事に赴いたきり帰ってこないし、連絡も全くない。
会社にいるなら、少なくとも一日一回は連絡が入るし、ゆかりにも連絡するように強請られる。
付き合い始めた当初、待ち合わせの時などの必要事項を除いてゆかりからは一切連絡しなかった。お友達に近い常連客さんの頃にしていたような、道端の風景やカフェの感想などの日常メッセージも、カレカノなら普通にするだろう、おはようおやすみメッセージもまったくしなかった。
一応、彼の立場や仕事を慮ってのことだったのだが、しばらくして和樹から泣きが入った。
「このスマホさびしすぎると思いませんか」
プライベート用だというスマホに登録されているのは、彼の身近な人がごく少数。その通話記録やメールはほとんどゆかりとのやりとりなのだが……。
「業務連絡みたいですね、アハハハハ」
絵文字もほとんどない文章、ワンセンテンスで終わるメッセージ。これが恋人同士のやりとりだと見せられたら、ゆかりも信じられないと思うだろう。
「僕の彼女、エア彼女と思われてるんです。お願いですから、もっと連絡ください。僕からも、できる限りするようにしますから」
懇願するように言われて、ゆかりは恥ずかしいのを我慢して自分のスマホを見せた。ついでに引かれるのも覚悟した。
未送信ファイルに大量のメール。
書いているのは他愛もないことばかり。
けれど確かにわかる、会いたいと願う気持ちや、会えない寂しさ。
たとえそばいなくても、和樹が守っていてくれるから、ゆかりの周囲は素敵なことややさしさであふれている。でも、共有できないのがとても寂しいです、と。
送れないまま消すこともできず、たまっていったメッセージ。それは遡れば、和樹が何も言わず長期出張に赴き、ゆかりの前から消えた時から始まっている。
アドレスは二つだけ。すべて同じ人物――出張前の和樹宛と出張後の和樹宛だ。
しばらく目を丸くして見つめていた和樹は、突然とんでもない速さで指を動かし始めた。
「え、何してるの和樹さん」
「これ僕宛でしょう、ぜんぶ送信してます」
「ちょっと待って、今読んだんだから必要ないでしょ!?」
「嫌です、これは僕のものです」
腕に取りすがって止めさせようとするゆかりを片腕で自分の胸に押さえつけると、そのまま作業を続ける。
「ゆかりさん、めちゃくちゃ嬉しいです」
あっという間に数十通のメールを送信し終えると、二台のスマホをローテーブルに置いて、和樹は腕の中のゆかりを存分に抱きしめた。
「すぐには無理かもしれませんが、絶対に返信します。メールでもメッセージでも、もちろん電話でもいいから連絡をください。それだけで僕は頑張れますから」
それ以来、毎日少なくとも一回はメッセージを送っている。和樹も意外とマメに返してくれていたが、それももう三週間途絶えていた。
さて、とゆかりはキッチンに並べた各種チョコレートを眺めた。
二月に入ってからずっと、喫茶いしかわの買い出しや帰り道や店休日を使って、品揃えのいいスーパーの製菓コーナーをまわって集めてきたものだ。
バレンタイン当日には渡せないかもしれないが、これはこれで良い機会だ。
和樹に美味しいと心から言わせられるチョコレートの研究を、時間をかけてするとしよう。
市販のほうがいいんじゃないかって?
ノンノン。
昔、手作りにいい思い出がないと話していたと小耳に挟み、気を遣って買ったチョコを渡したら、かなり微妙な表情をされたのを忘れていませんか。
『マスターは去年手作りを貰ったって自慢してましたけど』
『今年は、色々色々忙しかったので』
チョコレートの材料をそろえる暇も試作する暇もなかったと含ませれば、しおしおと引き下がっていったが、そもそもチョコレート苦手って断ってましたよね、お客様に。
まあ、それでも世話になった誼というものがあり、マスターやご近所さんにあげて、和樹さんにだけあげないというのも円滑な人間関係がもやもやしそうなので用意したんですが、いらないなら私食べます、と引っ張ったら存外強い力で引き戻したあげくに抱え込んでいたので、欲しかったのだろう。
その経験を踏まえて。
今年も手作りするのです。
その結果を目の前にならべて、我が事ながら現実逃避したくなって目をそらす。
いや、失敗したわけじゃない。
ほとんどは成功したし、甘いのから苦いのまでいろいろ試せて大満足だ。
ただ量が尋常じゃなかった。
気づけば、バレンタイン前日。昨日の夜から作り始めた各種チョコレートは個数にして百個を超える。
徹夜ハイって怖い。何も考えず、チョコレートの甘い匂いに浮かされて、夢中で作り続けていた。
疲労感と充足感に、座り込んで何度も数えなおすが、一向に減ってくれない。
なんでガトーショコラが三つあるの? いくら保存がきくタイプにしたからって三つはないわ。材料が余ってたから、そりゃそうだ。
クッキー、焼きチョコ、ブラウニー。
最初はトリュフだけのつもりだったのに、なんでこうなった?
教えてかまど!
冷蔵庫が茶色で占拠されているの、グレーテル姐さんを呼んできて! え、いないの? 彼女いつもどこに行ってるの? 最終回までに出てくるの?
なんでこうなったか?
だって、喫茶いしかわでお客さまとチョコレートの話で盛り上がって色々作りたくなったんだもん!
もちろん、喫茶いしかわでもバレンタイン用のクッキーとトリュフは作っている。
お店で作って、家で作って、そのたびに試食して。
おそらく体重もそれなりのことになっているだろうが、そこは仕方がない。
体重を犠牲にしても良いほどの成果も得られた。
表面はビターなチョコでコーティングされたトリュフ。
中は洋酒の薫るガナッシュとコーヒー風味のガナッシュの二種類だ。コーヒーの風味を和樹好みにするのにかなり苦労した。
甘すぎず苦すぎず。
ワインにも洋酒にも合うし、もちろんコーヒーにも合うのは試し済み。
喜んでくれるといいなあ。
渡せるのはいつになるかわからないけど。
もし賞味期限切れたら、また作り直せばいいのよ。
さて、問題は。
この試作品の山です。
◇ ◇ ◇
長田は会社に向かって歩いていた。昨夜遅く受け取った和樹からの連絡を上長に伝えるためだ。
出張もそろそろ大詰めらしい。
想定外に早かった。
最初の計画段階では、早くても二月いっぱいはかかるだろうと思われていたが、さすがエース・石川和樹。
すでに都市伝説のような噂が独り歩きしているが、荒唐無稽に思えるその噂がほぼほぼ事実で、しかも事実のほうが更に上を行くと言ったらどうなるのだろうか。
今回は、そもそも和樹が出るはずではなかった。だが担当者はどうにも追い詰められ、協力者と共倒れになりそうなところだったらしい。そのうえ緊急を要すると上が判断し、和樹の出番となったのだ。
彼が成果を上げられる理由はハニートラップメインだと誤認しているものは多いが、そんなのは極々一部にすぎない。和樹の資質は、どんな階級、どんな世代にもすんなりと入り込み、相手に喋らせるのではなく相手が喋りたくなるように誘導することに最も発揮されるのではないかと、長田は考えている。
相手は、和樹の気を引くために何でも話し、何でもするだろう。
本当に彼がこちら側の人間で良かったと、心からそう思う。
結婚してからの和樹ときたら、これまで以上に凄味を増したし、ある一部分を除いて度量も大きくなった。地に足が付いたというか、帰る場所に迎える人がいてくれるということは、彼にとってとても大きな変化だったのだろう。
仕事しか寄る辺がなかった彼は、かつては生と死の境界線を目隠しで無造作に歩いているような危うさを感じることもあった。それが、結婚したことで驚くほどに安定した、と見るのは部下として僭越にすぎるだろうか。
さて、問題は『ある一部分』である。そのある一部分に関して、彼の度量は限りなく狭くなる。
そのある一部分が長田に接近していた。
「長田さん、ちょうど良かった! 今からお伺いしようと思ってたんです」
「お久しぶりです、石川さん……いえ、奥様」
「やだ、奥様なんてもう……ふふ」
ゆかりは、頬を染めて笑った。
「あの、これなんですけど」
大きな紙袋を二つ下げたゆかりは、少し持ち上げて見せた。
「皆さんで召し上がっていただけませんか?」
ほのかに甘い香りがする。長田の好物の匂いだ。
「チョコレートですね!」
つい、言葉に力が入ってしまった。
「そうなんです。つい作りすぎてしまって。でも、和樹さん……主人はまだ帰ってきそうにないし、帰ってきたとしてもさすがにこれ全部は無理でしょう」
無理してでも食べようとするかもしれないけれど、健康に悪いし。
「試作品で申し訳ないんですけど、数だけはありますから、良かったら、なんですけど。やっぱり手作りに抵抗がある方もいらっしゃるでしょうし」
「いえ、奥様の手料理はうちでも人気です。チョコレートも、バレンタインでやさぐれている者も多いですからきっと喜びます。ありがとうございます。ただ……」
「ただ?」
「いえ、和樹さんが知ったら、と」
「あの人の分はちゃんとありますから、遠慮なく食べちゃってください。二、三日しかもたないと思いますから、余ったら傷まないうちに捨ててくださいね」
「そんなことには絶対になりませんよ」
むしろ取り合いになる可能性が高い。
ちなみに職場には少ないが女性もいる。彼女たちは、「チョコレート? くれるんですか? は? ほしい? なんで? くれるんですよね? 義理チョコなら男女関係ないでしょ、さあよこせ」と二日前に同僚を涙目にさせていた。
男たちは言わずもがな、である。
ゆかりは「わかります、女の子同士で友チョコとか贈りあうのも楽しいですよね」と納得していたが、そんな可愛いものだろうか、アレらが。
ゆかりは、少し躊躇ってから、長田を見上げた。
「あの、主人、は……。あ、いえ、いいです、ごめんなさい。じゃあ、今から喫茶いしかわなので、これで失礼しますね」
ゆかりはぺこりと頭を下げた。
和樹が突然の長期出張に放り込まれてからもう一ヶ月以上経つ。その間、ろくな連絡はしていないだろう。
だが、ゆかりからすれば心配でないはずがない。長田は受け取った袋の取っ手をグッと握りしめた。
「ご主人はお元気です。――申し訳ありません、これしかお伝えできなくて」
ゆかりは、驚いたように目を丸くして、それから満面の笑みを浮かべた。
「いいえ! ……いいえ、ありがとうございます! 本当にありがとうございます長田さん」
礼を言う瞳が潤を帯びていく。
「では、これで失礼します」
「はい、お引き留めしてすみませんでした」
ゆかりは弾むように去って行った。




