135 if~バレンタイン・トラップ~
ふたりがくっつく前のif話。
そもそもゆかりさんが旗折り姫じゃなかったら、和樹さんの正攻法が通用する人だったら、こんな告白もあったかもしれません。
――バレンタインフェア期間中、当店から心ばかりのご愛顧のサービスをご用意させて頂きます。チョコレートアレルギーなどあるお客様へもアレルギー対策のサービスをご用意させていただきますので、お気軽にお申し付けください。また、混乱防止のためお客様にプレゼントをご用意いただいてもお受け取りできかねます。ご理解とご協力をお願いいたします。 喫茶いしかわ一同――
(何これ……)
テーブルやカウンター席に新しく登場した、チョコレートスイーツの写真が躍るバレンタインフェアの告知ポップ。最後の方はイベントの告知の趣旨からずれてる気がしなくもないが、それは脇に置いておくとして、可愛くデフォルメされた和樹とゆかりが並んで頭を下げているイラストも添えられており、これはこれでゆかりお姉ちゃんが気にしてる炎上になるんじゃない? と飛鳥は思う。
「このイラスト可愛いですね。ゆかりさんが描いたんですか?」
「ん? ああ、これ? ふふ、マスターが描いたの」
飛鳥と一緒にポアロを訪れた聡美が尋ねると、注文のカフェラテとオレンジジュースを運んできたゆかりは朗らかな笑顔を浮かべた。
「チョコレートアレルギーなんてあるんですね」
「それって、カカオがダメなんだよね」
「そうみたい。他にも色んなアレルギーがあるじゃない、それに対応したスイーツを和樹さんがいくつも提案してくれて。ちょうどいいタイミングだし、女子高生のお客さまも増えてきてるから、バレンタインフェアやろうってなったのよ」
時々和樹さんにプレゼント持ってこられるのは困っちゃうけど。そう言ってゆかりはカウンターに戻って行った。
「和樹さん、プレゼントなんて貰ってるんだ?」
「お客さまから受け取るわけにはいかないから、お断りしてるけどね」
飲み物と一緒に注文していたホットケーキを持ってきた和樹に飛鳥が言うと、和樹は困ったように笑った。
「こうやってお願いしても、プレゼント持ってくる人いるかもね」
「できればお願いをきいてほしいんだけどね」
正直なところポップでの注意喚起があったところで、和樹へのチョコは回避できないだろうなと飛鳥は思うのだった。
そうしてやってきたバレンタインフェアの期間中、特にバレンタインデー近辺は、やはり和樹にチョコを持ってくる女子高生はいたけれども、和樹はやんわりと断り受け取りはしなかった。
一月下旬から始まったバレンタインフェアにはチョコレートスイーツやドリンクが登場し、女性客はもとより男性客にも受けの良い絶妙なラインに計算された期間限定メニューは一ヶ月弱という短い期間にも関わらず、多くのリピーターがついている。
「ゆかり姉ちゃん、チョコレートありがとう!」
「とっても美味しかったです」
バレンタインフェアの間、注文の品に添えるように小さめのブラウニーがサービスとして振舞われていた。アレルギーがある場合は和樹が考案したアレルギー対策のミニスイーツが付いてくる。
「こちらこそ、いつもご来店ありがとうございます」
聡美が会計している間、飛鳥はカウンター席によじ登って和樹に内緒話のように何かを話していた。
「飛鳥ちゃん、帰ろう」
「はーい」
仲良く戻って行く飛鳥と聡美を見送って、ゆかりはカウンターの中に戻る。
「飛鳥ちゃん、和樹さんに懐いてますねぇ」
「仲良くしてもらってます。まぁ、時々困った質問されたりしますけど」
「そうなんですか?」
「今日も、ゆかりさんがチョコを用意してたら受け取るのかって聞かれちゃって」
「えぇー!? そんな炎上案件、困ります!」
「はは。そうやって怒られてるから、もらえないって言っておきました」
胸の前で両腕を交差させてバツ印を作るゆかりに、和樹は苦笑する。
「ていうか、和樹さんプレゼントもらうの苦手ですよね。マスターのお土産にも困った顔してるし。あの箸置き、素敵だったのに」
「気持ちは嬉しいんですけど、形に残るものをもらっても壊してしまいそうで怖いんです。車に突っ込まれて壊れたり、ボヤ騒ぎに巻き込まれて煤だらけになったり、いただき物の上生菓子にボールが飛び込んできて潰れたり、そんなことばっかりだったんで」
「うわぁ……トラウマレベル……」
「そんなところです」
ドアベルが来客を告げ、二人は再びお客さまを迎えるために動き出した。
「お疲れ様です、ゆかりさん。今日はホットチョコレートにしてみました」
「わ、ありがとうございます!」
バレンタインデー当日、閉店作業を終えたゆかりに和樹がカップを差し出した。
「美味しい……」
ほぅ、と幸せそうに息をついたゆかりは、温かいチョコレートをゆっくりと飲みながら、和樹が自分用にはコーヒーを淹れているのを見て首を傾げる。
「和樹さんはコーヒー?」
「ええ。ホットチョコレートは僕からゆかりさんへ、バレンタインのプレゼントです」
「え……和樹さん、前にプレゼントはトラウマかもって言ってたから、用意してこなかったのに!」
「ゆかりさんのそういうところ、僕は好きですよ」
何も用意してないと焦り始めたゆかりに微笑み、和樹は自然な仕草で距離を詰めるとゆかりの唇を奪った。
「ん……少し甘すぎたかな」
突然のキスに驚いたゆかりの抵抗がないのをいいことに、たっぷりとその唇を堪能した和樹はぺろりと自分の唇をなめながら呟いた。
あまりのことにゆかりは真っ赤になってはくはくと口を動かすが、言葉が出てこない。
「ねぇ、ゆかりさん。僕、わりと無茶しなきゃいけない巡り合わせらしくて、あまり物持ちは良くないんですよ。せっかくもらっても、壊れてしまったらお互いに悲しいじゃないですか。だから、もういっそ物じゃなくてあなたをもらおうと思って」
悪びれずに色をはらんだ声音でそう言ってのける男は、欲を隠そうともしない、知っているはずなのに知らない男の表情をしていた。
いやぁ……正攻法のはずなのに、結局お付き合いじゃなくて俺の嫁宣言になるあたりがとっても和樹さん(笑)
書き入れ時なのにマスターの影が薄いのは……まあ標準仕様ってことで。
ホール回してチョコ配ってるゆかりさんと呼び出されまくって結局ホール担当みたいになってる和樹さんの状況を考えたら、ひたすらキッチンでご注文の品を作り続けてるんでしょうね。
昨夜十年前の余震が発生したそうで、みなさまご無事でしょうか?
昨今の状況のおかげで出歩く人が少なくて、上階から落下した物で怪我する人は少なかったそうで。そこは不幸中の幸いですね。
人的被害がなくとも物が散乱した部屋の片付け等いろいろあるでしょうが、一日も早く元の暮らしが取り戻せますように。
喫茶いしかわはこれまで通り、ゆるゆるの空気で続きます。ちょっとした気分転換になれば幸甚です。




