12-2 彼女の協力者(中編)
その時、カランカランとドアベルが鳴り、客が入って来た。彼女との会話もここまでか。そう思った矢先、目の前でにこやかに微笑んでいた彼女の表情が、一変する。
「カズキさん!」
僕は目を見張った。
その表情が、とんでもなく可愛かったからだ。
彼女がそんな顔をするほどに待ちわびていたであろう人物は、僕が座るカウンター席から二つ隣の席へ、どかりと腰掛けた。
……男かよ!
僕は心の中で叫ばずにはいられなかった。僕より明らかに上背があるだろうその男は、グレーのスーツを身に纏っている。目の端にとらえただけで仕立ての良いものだとわかるが、そのくせしてヨレヨレで、しばらくクリーニングに出していないことが丸わかりだ。顔はよく見えないが、なんだか派手で、ちぐはぐな男だ。この素朴なカフェに全然馴染んでいないそいつに、彼女は慣れたように話しかけた。
「お疲れ様です。思ったより、早かったですねぇ」
「うん、死ぬ気で片付けてきた」
「4日ぶり?」
「5日ですね」
やけに、親しげに話す。よほど通い詰めた客なのだろうか。
「パスタランチ、頼んでもいい?」
「わかりました。コーヒーは?」
「お願いします」
「ちょっと、待っててね」
もうとっくにランチタイムは終了しているというのに、彼女はパスタのオーダーを快く受け入れる。二人の距離が、ただの客と店員じゃないことは一目瞭然で、僕は頭が痛くなった。
すると彼女は、男との会話を打ち切り、そのまま僕の元へとやってきて、目の前にコーヒーカップを置いた。二人のやりとりを聞いて呆然としていた僕は、完全に不意打ちを喰らった。
「セットのブレンドコーヒーです。ごめんなさい、騒がしくして」
「い、いえ、全然!」
「ごゆっくりどうぞ」
相変わらずの天使の微笑みでそう言われたが、この状況でゆっくりしていられるか!
心の中で悪態をつくも、ふわりと漂ってきた香りは、否応なしに僕の嗅覚をくすぐった。引き寄せられるようにカップに口をつける。
いつもコンビニのコーヒーにミルクと砂糖をたっぷり入れて飲む僕は、ハンドドリップで丁寧に煎れたコーヒーを、そのままブラックで飲むのなんて初めてだった。
コーヒーって、こんなに美味しいものだったのか!
「美味しいでしょう」
それが、僕に向けられた言葉だと気づいたのは数秒後だった。はっと彼の顔を見れば、こちらを見てにこやかに微笑んでいる。
それは、こちらの予想よりずっと成熟した美丈夫だった。彼のくたびれた風貌とミスマッチな、大人の色気が滲み出る表情。
僕は、また呆気に取られてしまった。
「あ……はい。とても、美味しいです」
「ゆかりさんのコーヒーはね、世界で一番美味しいんですよ」
彼の言葉で、初めて彼女の名を知る。
深みのあるテノールで甘く紡がれたその台詞は、彼女への感情を物語っていた。
……これは、敵わない。
僕は何だかもう戦意を喪失していた。ズルいじゃないか。こんな、華やかな夜の街なんかが似合いそうな男が、路地裏の素朴なカフェ店員を狙うだなんて。
そこで、僕は気づいた。彼の左手の薬指に煌めいている指輪の存在に。
いやいや、ちょっとそれはどうなんだ? いくらイケメンだからって、こんな白昼堂々と……不倫をすることは許されるのだろうか。小さなカフェを一人で切り盛りしてるような健気な女性を誑かしているというのは。いやしかし、嬉しそうに調理をする彼女と、それをにこやかに見守る彼を見れば、もう関係性なんてどうでもいいのかもしれない。いやでも、駄目なものはダメだ!
混乱した思考回路の中、香り豊かなコーヒーをまた一口すする。こんな素晴らしいものは、もっと穏やかな気持ちで飲みたかった。僕は悶々としていた。
そう、僕は気付いていなかった。この二人の、単純な関係性の名前に。そしてそれはこの後、一瞬にして判明したのだった。
「お父さん!」
突然、甲高い声が狭い店内に響き渡った。声がする方を見れば、店の奥の畳の部屋から、ぱぁっと表情を明るくした女の子が顔を覗かせていた。そのまま、ものすごい勢いで駆け寄ってくる。
「真弓、ただいま。いい子にしてた?」
「うん。真弓ね、お母さんのお手伝いいっぱいしたの。お店のお掃除も」
「うん、えらい」
小学校に上がりたてくらいだろうか。いや、もう少し上か? 真弓、と呼ばれたその子の艶やかな髪を、男がわしわしと撫でる。真弓は、嬉しそうにえへへ、と笑った。
「進は?」
「やきゅうのひ」
「そうか。今日、土曜日だもんな」
すると真弓は、唐突にきょろきょろと店内を見回した。そのつぶらな瞳が、何故か僕の瞳とぱっちりと合う。
「お母さん、おにいさん、新しいお客さん?」
「そうよ。最近、この町に引っ越してきたんですって」
僕は、真弓に向かって笑いかけた。けれど、その笑顔は絶対に引きつっているだろう。
だって、こんなこと、誰が予想しただろう。僕のさっきまでの思考回路は、まったくもって見当違いだったのだ。今の少しの会話から、この三人の関係性は理解できた。理解できたけれど、感情が追いつかない。
しかし、他の客はその様子に見向きもせずにおしゃべりに花を咲かせていた。きっと、これがこの店の日常だからだ。
僕は、段々と顔に熱が集まってくるのを感じた。意気揚々と、ゆかりさんに惚れた腫れただの言っていた自分を殴り倒したい。だって、真弓はどう見たって小学校には上がっているし、兄弟もいるという。自分よりちょっと年上かな、なんて思っていた彼女は、一体何歳なんだ?
そんなことを考えていれば、二児の父親である彼と目が合う。彼は、まるで僕の考えなんてお見通しだよ。と言うように、ぱちんとウィンクをした。
僕はつい見惚れてしまった。この店の中で圧倒的な部外者である僕だけに向けられたその仕草は、そこらへんの女子が不意打ちを喰らったら、卒倒してしまいそうなほど完璧だった。きっと、ゆかりさんも、他の客も、見ていなかった。
ちくしょう。イケメンすぎるだろ。どうやったら、こんな男になれるんだ。目指すだけ無駄なのはわかっているが、どうしようもなく目の前の男に心を打たれてしまっている自分がいた。
目の前では、5日ぶりの邂逅となったらしい親子の微笑ましい会話が続けられている。これ以上、ここにいるのはなんとなく憚られた。僕は、コーヒーを飲み干して、ゆっくりと立ち上がる。
とても良い店だった。暖かい笑顔で客を迎える店員。彼女が煎れる美味しいコーヒー。そして、可愛らしい小さな店員さんに、彼女たちを支える超絶イケメン。
この数分で、当初の僕の思惑はひっくり返され、信じがたいような事実を目の当たりにしたというのに、何故だか僕は朗らかな気分だった。
それは、目の前の家族がとても暖かいからだろう。そして、この空間は、彼女たちが作り出しているのだ。
「ぜひ、またご来店くださいね」
「ありがとーございました!」
ゆかりさんと同じ目をした小さな店員は、ペコリと頭を下げた。僕は、笑って頷いた。
かくして、僕は彼女と、その協力者達に会うために、数日後、またこの店の扉をくぐってしまうことになるのだった。
このモブくんにも名前はありません。再登場予定も、今のところないかな?
彼がゆかりさんしか見かけなかったのはたまたまです。おそらく在庫確認とかでマスターが外してたんでしょうね。
もしかしたらゆかりさんしか目に入らなすぎたモブ君には、マスターの影を感じ取れなかっただけかも……ドンマイ、マスター。
モブ君帰宅後のおはなしが、もうちょっとだけ続きまーす。




