119 喫茶いしかわの花嫁
それは、小さな小さな結婚式だった。
とても慎ましく、とても細やかな。結婚式と呼べるかすらいささか疑わしいほどの小さな式。参列者は誰一人正装などしていないし、新郎となる男も白いタキシードなど着ていない。
もうすぐ春が訪れる町の一角にある喫茶いしかわで、この日僕らふたりの結婚式が開かれた。
「和樹さん」
「……」
「和樹さんってば!」
「……」
「おい、聞いてんのかよ!」
「……徹平くん」
「何すか」
「何であいつがいるんだ」
「何でって。和樹さんの友達だから」
「俺がいつ奴と友達になったんだ」
喫茶いしかわの休憩室。この日のために新調した、彼女が一番似合うと褒めてくれたグレイのスーツに身を包み、俺は扉を開けて入って来た徹平くんを睨みつける。
「良いじゃないですか。乾さんも、和樹さんを祝いたいって。わざわざアメリカから来てくれたんですよ?」
「暇なのかアイツは」
「あーもー! 早くしないと、ゆかりさんが来ちゃいますって。ほら、早く!」
そう言う徹平くんに手を引かれ、俺はしぶしぶ椅子から腰を上げる。
「ゆかりさんは?」
「もう向かってる。うちの母さんと梢さんとリョウさんが完璧に仕上げたって言ってたから、和樹さん鼻血もんかもな」
「それはヤバイな」
扉を開けた先にあるのは、此処で出会った、見知った顔、顔、顔。
「わぁー! 和樹さんカッコいい!」
「イケメンはやっぱり違いますね!」
近所の少年少女たち、商店街の皆さん。乾。長田。そして、マスター。
「ありがとう。飛鳥ちゃん、遥さん。皆さんもありがとうございます」
『何でお前も』と言ってやりたい奴もいるけれど、今は敢えてその言葉はぐっと飲み込む。みんな、日々を過ごす中で繋がった確かな糸だ。
「おめでとう和樹さん!」
「おめでとう!」
「おめでとうございます! 和樹さん」
たくさんの笑顔が、俺に向けられる。
様々な手作りのオーナメントで彩られた喫茶いしかわのフロア。壁に貼られた【Happy Wadding】の文字。
「くっ、う、うぅぅ……」
「長田、なに泣いてるんだ」
「おめ、おめでどうございます」
「お前には苦労かけたな」
「そっ、ぞんなごど」
彼女に出会い、駄目だと思いつつも彼女に惹かれ、三十路手前にして柄にもなく恋をして。
自分には、幸せになる権利などないと思っていたあの頃。いや、そう思おうとしていたと言った方が、正しいのかもしれない。そう思っていた方が、生きていくのに楽だった。
どんなに望んでも、昔から神様は幸せなどは与えてはくれなかった。むしろ、大切に思えば思う程、簡単に手の届かない場所へと連れ去ってしまう。
でも皮肉にも、それが自分には酷く似合っている様な気もしていた。
だから、自分の気持ちに気付いた時は、ひどく驚いた。自分が誰かを好きになる日が来るなんて、想像もできなかったから。
「まぁ、これからもよろしく頼む」
「もぢろんです」
大泣きする長田に、苦笑いがこぼれる。まったく、良い部下を持ったものだなと思う。そんな俺をいつだって気遣い、どんな些細なことでも力になってくれたのは、長田だったから。
「和樹さん!」
「ん?」
「来ましたよ!」
徹平くんの声に入り口の方を見れば、喫茶いしかわの前に止まる一台の車。
「位置に着いて!」
その言葉とともに、一斉に全員が扉の左右に列を作る。
広いとは言い切れない喫茶いしかわにできた、即席のバージンロード。その一番奥に、俺は背筋を伸ばし立つ。
「和樹さん、準備は良い?」
「あぁ」
事の発端は、なぜか気が合った徹平くんと年の離れた兄弟や友人とも言えるまでの仲となり。その日も、お互いの近況報告をし合っていたことだ。
その中で、俺はゆかりさんとの結婚を決めたことを告げた。
その話をした数日後。徹平くんがある案を持って、俺を訪ねてきた。
カランカランと、入口の鈴が鳴る。
「え、な、何これ?」
扉が開き現れたのは、真っ白なワンピースに身を包んだ彼女。
「ゆかりお姉さん、しゃがんで!」
「あ、飛鳥ちゃん?」
訳の分からないまま、少女に言われた通り彼女は身を屈める。そんな彼女の頭に乗せられたのは、色取り取りの花で作られた花冠。
「な、何?」
「ゆかりさん」
状況がまったく把握できていないであろう彼女に、後から入ってきた聡美さんが声をかける。
「はい。これ持ってください」
「えっ、聡美ちゃん?」
手渡された花冠と、同じ花で作られた可愛らしいブーケ。
「ほら、待ってますよ」
聡美さんの言葉に、初めて気付いたかのように彼女がこちらを向く。
「か、和樹さん?」
「綺麗ですよ。ゆかりさん」
「え、ちょっと待って。私、何が何だか分からなくて」
いつもより少しだけ厚めのメイクをした彼女の瞳が、僅かに揺れる。
「泣いたらメイク取れちゃいますよ」
「そうそう笑って」
すかさず遥さんと聡美さんがそう言うと、それに応えるように彼女が笑う。僕の大好きなその笑顔。
初対面のときは、どこにでもいる普通の女の子だと思っていた。タイプではなかったし、今まで付き合ってきた女性達とも違っていた。煩わしいのは面倒だし、好意を持たれないようにしなきゃななんて、馬鹿げたことも考えていた。
だけど、蓋を開けてみれば、好きになったのは俺の方で。一緒に過ごして行く間に、どんどん彼女に惹かれていった。何がどう僕の心を捉えたかなんて分からない。僕に向けられるその笑顔、瞳、声、優しさ。そのどれもが僕を癒し、救い上げてくれた。
ゼロだったこの世界に色を付けてくれたのは、紛れもない彼女で。生きている意味を教えてくれたのも、誰でもない彼女だった。
「ゆかりさん」
ゆっくりと愛おしいその名前を呼ぶ。
「僕らの結婚式です。ここにいる皆が、開いてくれたんだ」
この結婚式を考えてくれた徹平くん。喫茶いしかわを貸し切りにしてくれたマスター。俺の日程調節のため奮闘してくれた長田。ゆかりさんの準備をしてくれた徹平くんのお母さんと梢さんとリョウさんと聡美さん。ブーケを始めとする装飾品を作ってくれたこどもたちや遥さんたち。
たくさんの人たちに支えられ、俺は今日ここに立っている。がむしゃらに進んできた日々だったけれど、その中でできた暖かな繋がり。それが、俺を生かし此処まで連れて来てくれた。
「和樹さん、皆さん、ありがとう」
心底幸せそうな顔で、彼女が言う。
ウエディングドレスも着せてあげられないし、ウエディングケーキもない。新婚旅行にだって、連れて行ってあげられないだろう。人並み以上の生活はさせてあげられるけど、人並みの幸せな暮らしなんて、きっと程遠い。
それでも俺を選んでくれた彼女を、意地でも幸せにしたい。
「ほら、おいで」
そっと、手を差し出す。ほんの数メートル先にいる彼女が、一歩一歩近付いて来る。たくさんの笑顔と、祝福の声に見守られて。
「和樹さん、私」
「何?」
「幸せすぎて……もうダメ」
「ははっ。僕もだよ」
泣き出しそうな瞳。繋がる左手。募る多福感に、どうにかなってしまいそうなのは僕の方。
「泣かないで、ゆかりさん」
「無理です」
「ゆかりさんの笑ってる可愛い顔。僕、見たいなぁ」
「狡い。そんなの」
「まぁ、どんな顔してたって。大好きなんだけどね」
泣き出しそうだった表情が、みるみる変わっていく。
「な、何言ってるんですかっ。こんなところで」
「だって事実だし」
「もう! 和樹さんのバカ!」
くるくると変わるその表情を、ずっと見ていたいと思う。泣いたり、照れたり、怒ったり、笑ったり。僕が自然にできなくなったそれを、彼女は簡単にやってのける。
それに加えて、意外と芯も強くて。いざという時の行動力もあるし、大胆さも持ち合わせている。
きっと一生、飽きる日なんて来ないのだろう。
「イチャついているところ悪いが、和樹くん」
そんなところへ水を差す男がひとり。
「なんだ乾」
「誓いの言葉を始めても?」
「ちょっ、おい待て! なんでお前が!」
「悪いな。仕方ないが、あみだで決まったことだ。諦めてくれ」
「ふざけるな! しかも、あみだだと!? もっと真面目にやれ!」
「俺に当たるな。言い出したのは、ボウヤだ」
その言葉に、聡美さんの隣に立つ徹平くんを見れば、ニヤニヤとこちらを見て笑っている。と同時に、横から聞こえる笑い声。
「ふふっ」
「何笑ってるの。ゆかりさん」
「何だか嬉しくて」
「意味、分かんないんだけど」
「だって、そんな和樹さん初めて見た」
一瞬何を言われてるのか分からなくて、言葉に詰まる。
「大体和樹くんは、こんなもんだ」
「黙れ乾」
元々、犬猿の仲と言っていいほど嫌っていた。和解はしたものの、染み付いた態度というものを変えることはなかなか難しくて。つまらないプライドか、単なる甘えか。僕の態度は、結局それまで通りで。
それでも、乾はどこまでも大人で。情けないことに、躊躇う俺の背中を押してくれたのは乾だった。かけがえのない人を失っている奴だからこそ、響く言葉がある。
「いいから早くしてくれないかしら」
「そうだぞ! 腹減った!」
「そうそう!」
次々と上がる非難の声。こうなったら、仕方がない。
永遠なんて信じていないし、願える立場でもないけれど。いっちょやってやりますか。この悪人ヅラの牧師の前で。
「もうお前で良いから早く始めろ」
「大概だな、君も」
俺の隣で、喫茶いしかわの花嫁が笑った。
このふたり、神前結婚式はちゃんと挙げてるけど、披露宴はしておらず。
それはそれとして商店街のアイドル・ゆかりちゃんの幸せは俺たちも全力で祝いたいぞ! という商店街の皆さま&ご近所の皆さま&喫茶いしかわ常連客の熱すぎる思いがこんな形になりました。
手作りのお祝い、ゆかりさんはとっても喜びそうです。とっても喜んでるゆかりさん(しかもプロによる全力の仕上げ付き)に和樹さんはデレッデレです。
和樹さんはおそらく早くふたりきりになってもっとイチャイチャしたいと思いつつ、この場をめちゃくちゃにしたらゆかりさん泣いて怒るぞと予想して必死に耐えてます。




