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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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116 あいのかたち

 半月ほどかけた営業先への新年のご挨拶が一通り済み、和樹は公園のベンチで缶コーヒーを飲みほした。喫茶いしかわやゆかりのコーヒーに慣れた舌には物足りないが、どうしてもコーヒーを飲みたい気分だったのだ。


 足元に缶を置き、軽く肩まわりのストレッチをする。

 視界の端に入った瞬間、落ちる寸前のそれを反射的に掬い上げた。


「ああ、ありがとうございます」

「いえ」


 たまたま隣に座っていたご老人は差し出したものを受け取り、ゆったりとした動作で軽く会釈した。小さく返礼する和樹の目の前で、彼はその革手袋を撫でる。まるで愛おしいとでもいうように。

 物自体はそれほどいいものではないだろう。表面は毛羽立ち、繋ぎ目からは地肌がのぞいていた。少し触れただけの和樹の手にもごわついた感触がまだ残っている。それは、コートも靴も見るからに一級品を身に纏い、老紳士とでも称されるような上品なご老人にはひどく不釣り合いにうつった。


「妻がね、はじめてくれたものなんですよ」

 穏やかな口調は、和樹の不躾な視線にも気分を害した様子はない。ほうっと吐き出される息は幸せに満ちていた。


「みっともないからやめてと妻には言われるんですがね」

 照れ臭そうにしながらもとても誇らしげに。和樹は穏やかに微笑み返す。

「僕もよく言われます。十年ほど前に妻が初めて手作りしてくれたマフラーを使おうとすると、もう古いし目もよれてるから、それを着けて出かけるのはやめてほしいって。今日も取り上げられました」

「ははは。それはそれは」

 ほんの一、二分だが、ぽつりぽつりと穏やかに会話すると、これからデートなのだとご老人は一足先に去っていった。深く刻まれた目尻の皺を濃く刻みながら。

 ご老人と交代で座った若い女性から僅かに距離をとると、和樹は自らの手を見つめた。硬くかさついた何にも守られていない裸の手を。

 そして、最愛のひととの手袋にまつわるお出かけ(和樹は立派なデートだと思っているが、おつきあいをする前なので彼女はただのお買い物に同行してもらっただけだと言い張るのだ)を思い出す。



 ◇ ◇ ◇



 時が過ぎるのは早い。年末が近くなり、通り過ぎる人々の足はどこか浮かれているようにみえる。煌びやかな装飾に彩られている町はハロウィンが過ぎるとさっさとクリスマスの装いに変わった。店先には個々に大小様々なモチーフが並び、百貨店の前には大きなクリスマスツリーが輝いていた。


「和樹さん、その。この後時間、ありますか?」


 近隣店舗の敵情視察という名目で誘い出したランチの後、ゆかりから声をかけられた。いつもならご飯を食べたらその場で解散というパターンだというのに珍しいことで。思わずまじまじと顔を見つめてしまうと、白い頬にぱっと薄紅が広がった。視線を外した彼女はもじもじと恥ずかしそうにほわほわした手袋に包まれた両指先を擦りあわせている。

 まさかと思うと同時に心がどくんと大きく高鳴った。そんな素振りなどなかったはずなのに、なぜ今。高速で回転する頭とは反対にうまく言葉が出てこない。こちらの胸中など何も知らぬ彼女は上目遣いにこちらの様子を窺っていた。その様子は粗相をしてしまった後の愛犬と重なって余計に言葉に窮してしまう。

近づきすぎるのは駄目だ。彼女を悲しませたくない。しかし……。


「だ、だめですか? あの……」




「和樹さん。今度はこれお願いします」


 真剣な表情に気負わされなら、和樹は小さな両手から手袋を受け取った。手にはめて指を動かして使用感を確認してみる横で、既にゆかりの興味は別の手袋に移っており、真剣に吟味している。じいっと真剣に商品を見比べている後ろ姿に、悟られないように和樹はこっそりとため息を吐いた。


 結論からいうと勘違いだった。彼女は兄であるリョウのクリスマスプレゼントを探すのを手伝ってほしいだけだった。恥ずかしそうだったのも「子供の頃ならまだしも、この歳になって兄妹でプレゼント交換は……」というのがあったかららしい。正直この兄妹ならばありそうではあるし、相変わらず仲がいいなくらいにしか思わないのだが。


「一位は変動しそうですか?」


 小首を傾げて聞いてくる様子はいつもどおりのゆかりの姿。暫定一位の手袋を左手にキープしながら、更に新たなものを用意している。


「こちらも悪くないですが、さっきのほうがいいですね。滑らかで」

「じゃあ、次はこっち」

「……ゆかりさん」

「これで最後。最後です!」


 最後と聞いたのは何度目か。呆れながらも今着けているものと交換してやると、ぱあぁっと喜色を浮かべるのだから、和樹は何も言えなくなる。自分に妹はいないが、こんな妹がいたらそりゃ甘やかすだろうなとリョウの心中を推し量った。

 渡されたのは、手の甲の部分にツーイド生地が使われている革の手袋。カジュアルスタイルに合いそうだが、抑えられた色味のため、これならビジネスでも使えるだろう。動かしやすいし、温かさも申し分ない。デザイン性もあるしこれひとつあるだけでお洒落に見えそうだ。開いたり、握ったりを繰り返していると、にまにまとどこか誇らしげな表情をしているゆかりと目があった。


「うふふ。優勝決定! ですね」

「……そうですね。でも、リョウさんならもう少し明るい色でもい」

「お会計してきまーす」


 手袋を受け取るやいなや、ご機嫌に花でも飛ばしそうな勢いでゆかりはレジへと向かっていった。呆気にとられて背中を見送る視線の端で微笑ましそうな店員を見つけてなんともいえない気分になる。ずっと見られていたのだろうか。急にいたたまれなくなり、商品に視線を移した。ゆかりのお目当ての手袋のほかにマフラーなどの防寒具やクリスマスモチーフのポーチなどの日用品なんかもある。和樹はその中の一つをじっと見つめた。縁にレースの着いたタオルハンカチだ。面白いことにレース部分がクリスマスツリーになっている。


「こちら人気の品なんですよ。そのほかにも入荷するとすぐ売れてしまうんですが、おにぎりやサンドウィッチの柄もあるんです」

「……おにぎり? サンドウィッチ?」


 聞き間違いかと思ったが、先ほど目があった店員はさっと二枚のタオルハンカチを差し出した。確かにレース部分がおにぎりとサンドウィッチになっている。あまりに斬新で、そして無駄に緻密で美しい。


「すごく人気があるんですよ」


 ゆかりが好きそうだなと思った。

 レジのほうを確認するとまだ時間がかかりそうだ。どうやらあれやこれやとラッピングの相談をしているようで、黄色の包装紙を指さして頷いている。


「素敵な彼女さんですね。手袋はフィット感が非常に大切なんですよ」

「いや、彼女は」

「実は数日前にもいらっしゃったんですよ。その時は私が接客して。あ。ごめんなさい。もしかしたら内緒にしておきたかったのかも。私ったらつい」

「……いえ」


 彼女ではないと否定することはできなかった。くるりと振り返ったゆかりの弾けるような笑顔をもっと見ていたいと感じてしまったから。


「あとでまた来ます」


 これくらいは許されるだろうか。プレゼントを交換するくらい。

 しかし、そんな些細な願いすら叶うことはなかった。クリスマスの二日前から立て込んでしまった仕事に忙殺され、そのまま年が明け、すれ違ったまま長期海外出張に入ってしまった。



 ◇ ◇ ◇



 それから三年後。


 人波にのって改札をぬけると冷たい空気が頬を刺す。白い息を吐きながら、目的地へと足を進めた。通り過ぎた街路樹はきらきらと光を放っていて、すれ違う人々もどこか浮かれているようにみえる。百貨店の前には今年も大きなクリスマスツリーが輝いていた。その美しい光景の下、見惚れるようにしてゆかりは立っている。彼女の華奢な手に似合わぬ大きな手袋をつけて。


「待たせてごめん」


 こちらに気づいた彼女の顔がぱっと華やいだ。コートの裾が翻り、こつんとヒールの音が響く。


「和樹さん!」


 夜の空気に笑顔が咲いた。


「ぜんっぜん待ってませんよ。ひゃっ!?」

「嘘つき。頬が冷たい」

「和樹さんの手が冷たいんですよ~~だ。手袋してください」

「だって誰かさんがくれないから」


 手の甲を覆うツイード生地はいつか見たお洒落な色で。


「これは、お兄ちゃんに渡すつもりで」

「そうしたらリョウさんが先に新しいの買っていたんですよね?」

「そうです。だから、これは和樹さんに買ったんじゃないもん」


 つんととんがったかわいらしいピンク色の唇がかわいくないことを言うものだから、ちゅっと短く塞いでみせた。瞳を真ん丸にさせる最愛の女性に、あまくあまくおねだりを仕掛ける。


「だから、はんぶんかして」

「……うう……今日だけね。今日でおしまいだからね」


 むすっとした表情をつくりながらも、ゆかりはいそいそと右の手袋を外して差し出してきてくれた。きっとこの先も何度でもこうして貸してくれるんだろうなと既に緩み始めた口元を見ながら和樹は思う。

 黒の革の手袋は和樹の手に誂えたようにぴたりとフィットした。あのときの見立てどおり、カジュアルだけでなくビジネススタイルにもよく似合っている。恥ずかしそうにもぞもぞとコートのポケットに潜り込んでいた小さな手を引っ張り出して、握りしめて。ポケットからちょこんとはみ出た特徴的なレースはそのままに、聖夜の道を歩きだす。


「楽しみですねぇ。ディナー」

「本当に。でも、食べすぎないでくださいね。この後がありますから」

「この後?」

「部屋、とってありますから」


 耳元にそっと囁くと真っ赤に染まった彼女が愛おしくて、すべてのものから守るよう絡めた指に力を籠める。


 もう二度とこの温もりを離さぬように。


 気付けば、中身がクリスマスのお話になってしまいました。なぜじゃ……(頭を抱える)


 この話の中に出てきたマフラーは「76 オフホワイトのマフラー」でゆかりさんにおねだりして作ってもらったものです。

 恋人になって以降、初めて作ったマフラーは出来が悪くて恥ずかしいから外に着けていくのはやめてほしいと買ってきたマフラーを差し出しながら涙目で懇願したゆかりさんに譲歩した結果、現在そのマフラーは愛車のお手入れをする時しかゆかりさんが許可してくれなくなりました(笑)


 なお、ゆかりさんが使っていた男性用手袋はお泊りの翌朝、しれっと和樹さんがゲットしてます。

 行き先違うからと別れてから手元にないことに気付いたゆかりさんが和樹さんを問いただすと

「いやあ嬉しいなぁ。ゆかりさんが使っている手袋を使えるなんて」

 とか言いながら絶対返さない。


 あ、ゆかりさんには、さりげなくデザインを揃えた手袋をプレゼントしてます。

「僕とも手袋同士でプレゼント交換ですよ」って……勝手に持って行ったやつが何を言う?(苦笑)


 はい、ゆかりさんは気付かずペアルック案件です。周りはみんな気付いてるのにゆかりさんには教えず、によによしてます。

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