115 鏡開きの日
一月十一日。この日の喫茶いしかわは毎年「鏡開きデー」として地域イベントが開催される。
離乳食になるミルク粥やトーストなどの軽食はあるが、ランチなどで提供されるメニューはなりを潜める。
あるのはすまし汁系の雑煮と粕汁、そしてお汁粉。それからいくつかの餅用トッピング。
トッピングは商店街の様々な店と協力して準備したものだ。
そして毎年、白味噌仕立ての雑煮は手が回りきらず断念するところまでがお約束だ。
いつもは大人気なマスターのコーヒーも、この日ばかりはなかなか注文が入らない。いつもの三割といったところか。
かわりに(という訳ではないが)梢の入れる煎茶やほうじ茶が大人気だ。
テラス席が減らされ、そのスペースに七輪が置かれ、マスターが面倒を見ている。
店の前にワゴン車が横付けされ、中からは数名の常連のおばあちゃまが和樹にエスコートされて降りてくる。
それぞれが鏡餅を抱えている。
「ふふふ、マスター今年もお願いしますね」
「はい、こちらこそ毎年ありがとうございます」
そこに近所の子供たちが集まってくる。
「あっ! おばあちゃんたち来てる! 今年もおもちくれるの?」
「ええ。ひとりでは食べきれないから、食べ盛りのみんなが一緒に食べてくれると嬉しいわ」
「やったあ!」
「ぼく、おもち割る!」
「これは、“割る”じゃなくて“開く”って言うのよ」
おばあちゃまたちから簡単な鏡開きの説明がなされている間に、駐車場に車を置きにいった和樹が戻ってきた。
「お待たせしました。どの鏡餅から開きましょうか」
「いちばん開きやすそうなこれにしましょう」
大島のおばあちゃまの鏡餅が選ばれた。しっかりとひびが入っていて、たしかに開きやすそうだ。
「ふむ。これなら子供たちでもいけるかな? やってみるかい?」
「うんっ!」
「やりたい!」
和樹指導の元、近所の子供たちによる鏡開きが行われた。
表面のカピカピしすぎているところやカビたところなどを除き、マスターが七輪で餅を焼いていく。
カンカンと木槌の音が響く中、ぷくりと膨らんでいく餅をワクワクそわそわしながら見つめる子供たち。
「このへんのお餅はそろそろ食べられそうだね。真弓、おばあちゃまにお好みの食べ方を聞いてきて」
「はーい!」
雑煮の中に、焼き色のついた一口大の餅がぽとり、ぽとりと三つ入り、真弓がおばあちゃまに提供する。
「お待たせしました。おぞうにです」
「あら、ありがとう。みんなもお餅が焼けたらたくさん食べてね
」
「はーいっ」
おばあちゃまたちと子供たちが、はふはふしながら笑顔でお餅を食べている。
「おとうさん」
「ん?」
ひたすら木槌で鏡餅と格闘する和樹のもとに、とてとてと真弓が皿を持ってきた。皿にはほんのり湯気の立つ磯辺焼き。
「おとうさんも食べてね。はい、あーん」
「あーん」
真弓が磯辺焼きを和樹の口元に持っていくと、頬をゆるめて大きな口を開け、ぱくりと食べる。パリッと海苔の音がして、磯の香りと醤油の香ばしさが口いっぱいに広がる。
「うん。真弓にあーんしてもらったら、もっと美味しいお餅になったな」
「おもちおいしいのはいいけど、まゆみのおててまで食べちゃダメ!」
腰に両手をあてて軽く唇を尖らせる様子がゆかりが拗ねたときの表情に似てて、やはり親子だな、可愛いなと頬がゆるんで仕方ない。
「ごめんごめん。真弓が食べさせてくれるのが嬉しくて、ついね」
「おとうさん! こっちも食べて!」
店の中から、バスケットを持って進がやってきた。そこに入っているのは、コロコロとした塩味のあられ。形の画一的でないそれは、七輪で焼くには小さすぎるかけらが店内に運ばれ揚げられたものだ。
「これ、おかあさんが作ったの。だから食べるのいちばんは、おとうさん!」
さも当然という表情で言われ、嬉しくも面映ゆい。
「そうか、ありがとう。じゃあ、進が食べさせてくれるかい?」
「うん」
和樹がかぱりと口を開けると、ぽいぽいとあられが三つほど投げ込まれた。
「……これ、うまいな」
「だって、おかあさんが作ったんだもん」
進は嬉しそうに誇らしそうにそう告げると、自分もあられを口に放り込む。ポリポリと咀嚼しながら、他の子供たちやお餅を提供してくれたおばあちゃまたちにもあられを配り始めた。
今年の鏡開きデーが終わったとき、残っていたのはわずかなトッピングと粕汁だけだった。
たらふく餅を食べた真弓と進は、満足感たっぷりな表情で和室に寝転がっている。
大人四人でテーブルにつき、粕汁を前に、ほうっと安堵のため息を吐くと、おもむろにマスターが口を開く。
「みんな、今日一日お疲れさま」
「ふふ、お疲れさまでした。和樹さん、今年もお手伝いありがとうございました」
「お義母さんのお役に立てて光栄です」
「和樹さんがいる年は百人力です。商店街の力自慢の皆さんも鏡開きをお手伝いしてくださいますけど、和樹さんが一番スピーディーなんですもの」
ふわりと微笑みながらそう告げる梢の隣で、ゆかりが大きくうんうんと頷いている。
「そうですよ。和樹さんが参加してくれる年は、食べられるサイズになったお餅がどんどんできるので、私たちもたくさんつまみ食いできるんです!」
「ゆかりさん……」
三人から残念な子を見る表情を向けられたゆかりは、少しばつが悪そうに、小さく肩をすくめた。
「そ、それはそれとして! 今回は粕汁がたくさん残ってますから、さっそくいただきましょう!」
「そうですね」
自然と皆で両手を合わせて、いただきますと声を揃えた。
器を持ち上げ、汁をひとすすり。染み渡るあたたかさにほうっと息をつくところまでお揃いになるのは石川家だからだろうか。
「やはり汁物はいいですね。身体の芯から温まります」
「そうですね」
皆ほっこりと表情をゆるめる。
「ところでゆかりさん」
「はいなんでしょう、和樹さん」
「僕、今日は真弓と進に“あーん”でお餅を食べさせてもらったんです」
「あら良かったですね。可愛かったでしょふたりとも」
「はい、とても。にこにこして嬉しそうで」
「ふふ、でしょうねぇ。あの子たち、お父さん大好きですから」
「いつもゆかりさんが僕を立ててくれるからです。ありがとうございます」
「いえいえ。当然です」
「それでね、ゆかりさんの“あーん”も、欲しいんですけど」
「え?」
「ゆかりさんの“あーん”です。ゆかりさんだけ仲間外れになんかしたくないですから。ね? あ、なんなら先に僕がゆかりさんに“あーん”しましょうか? はい、あーん」
圧さえ感じる笑顔をにこりと浮かべた和樹は、箸で摘まんだ鮭をゆかりの口元に運ぶ。
「えっちょっと……ぁ、あーん」
照れ臭そうにぱくりと口の中に放り込まれた鮭を咀嚼するゆかり。箸を置いた和樹は楽しげに見つめる。
「美味しいですか?」
「はい、とても」
ごくりと飲み込んでから答えるゆかり。
「ふふ、それは良かった」
「では、次は僕の番ですね」
「ん?」
「ゆかりさんが僕に食べさせてください。ほら、はい、あーん」
それはそれは嬉しそうに口を開いている和樹。
「……仕方ありませんね。食べさせてあげます。あーん」
ゆかりがくたくたになった白菜を和樹の口に放り込むと、和樹の表情がどろりと溶ける。
「はぁ……ゆかりさんに食べさせてもらうと、何倍も美味しくなりますね」
「もう、和樹さんったら……」
微笑ましそうにそれを見ていた残るふたり。
いたずらっぽい表情に変わったのは梢。
「私たちも負けていられません! あーんで食べさせてあげます」
「い、いや僕は……」
あたふたし始めるマスターはきょろりと周りに視線を走らせるが、そこにいるのは、珍しいものを見たという表情でこちらを見ているゆかりと和樹だけ。マスターは、自分の味方がおらず、逃げ場がないことを悟った。
そっと口を開けたマスターの口に、楽しそうに長ネギを放り込む梢。
「っ、あっつ!」
マスターがびくりと跳ねる。どうやら長ネギを一噛みした時、熱々の芯が飛び出して喉の奥を直撃したらしい。
目を見開き顔を見合わせた三人は、たまらずぷっと吹き出した。情けない表情でそれを見るマスター。
「三人ともひどいな、そんなに笑うなんて」
「くすくす。だってぇ……うふふふ」
「あはは。粕汁はまだまだ、十分にありますから。お義母さんも、お義父さんにあーんしてもらったらいかがですか?」
「うふふ、そうねえ。どうします、あなた」
「ここまでお膳立てされて参加しないわけにはいかないさ」
そこからはお互いに、あーんで食べさせあうバカップルぶりを存分に見せつけあった。
食べ終わる頃には和室に寝転がっていたはずの真弓と進がふすまの隙間からじーっとその様子を見ていたことに気付き我に返った。
「お父さんとお母さんはいつもとってもラブラブだけど、おじいちゃんとおばあちゃんもうーんとラブラブなんだね」
「うん。めいっぱいラブラブ!」
うんうんと大きく頷きながらそんなことを言う子供たちを前に、肯定も否定もできず、真っ赤になって食器を片付ける大人の姿があったとか、なかったとか。
いろいろございまして……しばらく更新とまってごめんなさい!
この日は飛鳥ちゃんや佳苗ちゃんもお店に顔を出してますが、受験生なのですぐにご帰宅しちゃいました。
長田さん環さんも来てたんですけどね、うん。そこまで書くと話があっちこっちに飛びそうだったので自重。




