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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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114 あまやかしたい

 まだ新婚さんだった頃のおはなし。

 三日ぶりの帰宅は深夜、日付が変わってからになった。今日と明日はよほどのことがない限り呼び出しはない……はずだ。

 何から何まで和樹がいなければ片が付けられないなんてことはないのだし、和樹の能力が飛び抜けているだけで、和樹の部下たちだって十分に有能な人材だ。職場の上層部は和樹の仕事のスピードについていけるだけでも評価に値するなんていう暗黙の了解があるのだが、和樹は今のところそのことにはまだ気付いてはいない。


 できるだけ音を立てないようドアを施錠してから、いつも出迎えてくれるお利口な愛犬を撫でると、ネクタイを緩めて一度和樹の書斎という名の仕事部屋に向かう。ネクタイを椅子の背に放り出し、鞄を置くと脱衣所でスーツをクリーニングに出すものを入れておく籠に、シャツを洗濯籠に放り込んで寝室に向かった。愛犬は和樹がもう休むとみて自分の寝床に戻ったようだ。


 音を立てないように静かに寝室に滑り込むと、誰よりも愛しい人が健やかな寝息を立てている。下着姿のまま彼女の隣に潜りこんで、起こさないように抱き寄せて彼女の匂いを胸いっぱいに吸い込む。そうすると、まだどこか尖っていた神経がゆっくりと落ち着いていくのだ。

 一緒に暮らし始めた頃は深夜の帰宅になった時は万が一にも起こさないよう隣に横たわるだけにしていたのだが、ある日ゆかりが放った一言からゆかりの就寝後に帰宅しても和樹はこうして彼女を抱き寄せるようになった。




「私も、和樹さんを甘やかします!」

 その日、ゆかりはぎゅっと拳を握り締め決意を秘めた表情で高らかに宣言した。

「は?」

 ソファに並んで座って寛いでいる最中に落とされた唐突な宣言に、和樹は珍しく間の抜けた表情を浮かべてしまう。そもそも、今でも十分に甘やかされているように思っているだけに何がどうなって「甘やかす」発言になったのか、瞬時には図りかねた。


「えーと……僕としては、今でも甘やかしてもらってると思ってるけど?」

 和樹のロマンティックには程遠いプロポーズを受け入れてくれただけでも甘いのに、日々ゆかりは和樹を甘やかしてくれる。

 ゆかりがもう少し怒ったって罰が当たらないくらい、ゆかりのために割ける時間が少ないことは和樹も自覚している。そんなすれ違いが多い生活の中でもゆかりはいつも当たり前に和樹を気遣ってくれているし、起きている時に帰宅できた時には柔らかい笑顔で迎えてくれる。それだけでもかなり甘やかされていると思っているのに。


「いーえ! 和樹さん、せっかくのお休みでも一人で家事やっちゃうし」

 和樹はお客様都合の仕事が多く、前もって打ち合わせて休日を合わせるのはそれなりに難易度が高い。珍しく二人の休日が重なれば作業に応じて並んでやったり手分けしたりしているが、今も喫茶いしかわに出勤しているゆかりが仕事の日に和樹が休みになったときに、一人で家事を片付けてしまうのが不満だったらしい。


「だって、一人で過ごさなきゃならないなら片付けてしまった方が、ゆかりさんが帰って来てからいちゃつける時間が増えるし」

「う……せめてご飯くらい、作らせてほしかったのに」

「いつもはゆかりさんが作ってくれてるでしょう。ゆかりさんが仕事の日くらい労わせてよ。君が美味しいって笑ってくれるのが嬉しいんだ。貴重な僕の楽しみを奪わないで」

「せめて一緒に作らせて!」

「そうできる時はもちろん。一緒に料理するのも楽しみの一つだから」

 和樹としては合理的に時間を使ったつもりだが、ゆかりの言い分は「一緒にやりたかった」と拗ねているように思えて和樹の表情はゆるゆると緩み始める。


「……っ、一緒に買い物すると、いつも重いもの一人で持っちゃうし」

「身体能力を考えれば妥当な配分だと思うけど」

「セールまで待とうと思ってたお洋服買ってきちゃうし!」

「似合うと思ったから贈りたかったんだ。下心込みだから、ノーカンにして」

「イイ顔で下心があるとか言わないでぇ……!」

 ふしゅうぅぅと真っ赤になって、ゆかりは撃沈した。


 そんなゆかりを緩みきった表情で見つめている和樹は、群を抜くイケメン故にそんな姿も様になっているが、頭の中には「ああ、ゆかりさんはなんて可愛いんだろう!」しかなかったりする。


「ねぇ、ゆかりさん。僕は君が愛しくて可愛くて仕方ないし、甘やかしたい。甘えてほしいと思ってる。でも、ゆかりさんも同じように思ってくれてるのなら、少しだけ我儘を言っても良い?」

「もちろんです!」

 和樹からの歩み寄りに、ゆかりはぱっと顔を輝かせる。


「ゆかりさんが眠ってから帰ってきた時は、起こさないように遠慮してたんだけど、これからは抱き締めても良いかな?」

「そんなの、我儘じゃないですよ。和樹さんが抱き締めてくれるの、嬉しいだけだもの」

 言いながら、はっと何かに気付いたゆかりはいそいそと和樹の前に回り、ソファに座っている和樹の頭を抱きしめる。

「大好きな人に抱き締められるの、幸せだから……和樹さんもそう思ってくれたら、嬉しいな」

「僕だって幸せだよ。でも間違っても、僕以外にはこんなことしないで。たとえ相手が子供でも」

「和樹さんだけですよ。だから、安心してね」


 ゆかりの胸に頬擦りしながら和樹はこの世の天国を享受する。そうして零れた和樹の独占欲に、ゆかりはくすくすとおかしそうに笑った。

 髪を梳くゆかりの指にうっとりと目を閉じて束の間無邪気に甘えるようにしていた和樹のスイッチが切り替わってベッドへともつれ込む流れになったのだが、それもまたゆかりは恥じらいを残しながらも受け入れてくれるのだから、どうしたって和樹は調子に乗ってしまう。それすら「困る」と言いながらもゆかりは滅多に怒らないのだから、やっぱりゆかりは和樹に甘いのだ。




 目覚ましの音にゆかりの意識が浮上する。ほとんど眠ったまま音を止めた和樹がゆかりを抱きしめ直して再び寝入る。和樹の腕の中で目覚めたゆかりは「幸せだなぁ」と微笑んだ。

 和樹の仕事の内容までは知らないが、とてつもなく忙しい彼は帰宅できないことも、ゆかりの生活とはリズムがずれることも多い。だからこそ、こうして大好きな彼の腕の中で一日の始まりを迎えられるのはとても幸せだとゆかりは思う。


 和樹はゆかりに甘やかされていると言ったが、ゆかりにしてみれば彼の方が断然ゆかりを甘やかしていると思う。せっかくの休みでも積極的に家事をやってくれるし、一緒に出掛けられる時にはゆかりが喜ぶ場所に連れて行ってくれるし、ゆかりが「良いな」と思ったものには目敏く気付いてゆかりが気後れしないランクのものから厳選してプレゼントしてくれたりするのだ。


「時間を取れないから、どうしても物で埋め合わせることになってしまうのは申し訳ないけど」

 そんな言葉とともに贈られたものをゆかりは拒むことができない。気に入ったものだからではなく、和樹の心がそこに込められているからだ。


 会えない日はいつだって和樹がきちんと食事と睡眠を取れているか、怪我をしていないか無茶をしていないかと心配だし、淋しくて切ない時間もあるけれど、それ以上に一緒に過ごせる時が幸せで、一緒にいられればゆかりの胸はどうしたって温かくて好きの気持ちで一杯になる。失敗に落ち込んだり、嫌なことがあって腹立たしかったりしても、和樹の姿を見ればゆかりの胸は彼でいっぱいになって、嫌な気分なんて吹き飛んでしまうのだ。

 自分でも浮かれていると思うし、いつまでも浮かれているわけにはいかないとも思うけれど、和樹に首ったけなのだから仕方ない。恋心を自覚してからは積もる一方でこの愛しさに慣れる日なんて来ないのではないかと思うほどに。


「和樹さん、大好き」

 自然と零れ落ちたゆかりの呟きで目を覚ました和樹から甘く蕩けるようなキスを仕掛けられて、甘く煮詰めたような時間から新しい一日が始まる。


 結局どっちもどっちというか……ねぇ?(苦笑)

 和樹さんてば「合理的判断に基づいてますけど何か?」って表情してるくせに、っていうね。

 歯が浮くようなでろっでろな愛の告白台詞はそこまでじゃないなりに、限界まで砂糖溶かしてみました。


 なんというか、ゆかりさんは分厚すぎる氷砂糖の中に閉じ込められてそうなんだけど、和樹さんは和樹さんで、膝あたりまでハチミツに埋まってるんじゃないかな。そんな気がする。


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