12-1 彼女の協力者(前編)
初登場のモブくんが頑張るお話です。
ジリジリと皮膚を焼く太陽が照りつける、週末の昼下がり。閑静な住宅街の外れに佇む喫茶店の目の前に、僕は立っていた。
一見小ぢんまりとしているが、一目でこだわりあるとわかるレトロな外観は、ありきたりな住宅街の中でそこそこに存在感を放っていた。扉の横に立てかけられた小さなボードには、可愛らしい丸文字でランチメニューが書き記されている。
女性好きしそうな雰囲気のその店に男一人で入るのは、僕にはハードルが高いことだった。けれど、今日僕はここに来て、ランチセットを食べて帰る。その覚悟をして家を出たのだから。
ごくりと唾を飲み込んで、重みを感じる扉を押す。カランカランとドアベルが鳴り、澄んだソプラノがいらっしゃいませ、と告げた。
声の持ち主は、狭い店内のカウンターの中でコーヒーをドリップしている手を止め、僕の方を見る。
「いまカウンター席しか空いてないんですけど……大丈夫ですか?」
それは、願ったり叶ったりだった。
こくりと頷くと、彼女は「お好きなところへどうぞ」と微笑んだ。
僕は、ついその表情に見惚れて固まった足をそろりと動かし、一番奥のカウンター席に腰掛ける。
初めて入る店内を落ち着いて見回せば、暖かな薄茶を基調とした空間の中で、レトロなアンティーク調のインテリアや奥の(おそらく)座敷が存在感を放っている。外観と同様、店主のこだわりが詰め込まれた空間なのだと感じた。
テーブル席はすべて女性客で埋まっている。どう考えても僕はこの空間で浮いていた。
そそくさとメニューを手に取り眺めながら、カウンターの中の彼女をちらりと盗み見る。
――やっぱり、天使だ。
生まれてこの方二十五年、僕は初めて一目惚れというものをした。
大学院を出て、就職と同時にこの町へと引っ越してきたのは、四ヶ月ほど前のこと。越してきたばかりの新しい家に、新しい街。アパートから駅までの道のりと反対側にふらりと歩いたところに、ぽつんと佇む個人経営らしきその喫茶店があった。正直、コンビニの百円のコーヒーと、その数倍の値段のチェーン店のコーヒーの違いもわからない僕が、その扉を叩く時が来るなんて思ってもみなかった。
慣れない社会人生活に気疲れし、やっと来た休日に食料を調達しようと寝不足の状態で家を出たとある朝。僕がその店の前を通りがかると、店員と思しき女性が店先の植木鉢に水をやっていた。彼女は、通りすがりの僕に気づくと顔を上げ、笑顔を浮かべて会釈した。僕もつられて、会釈をした。
その瞬間、自分より幾分か年上に見えるその女性店員に、心を奪われたのだ。決して飛び抜けた美人ではないが、サラサラと揺れる髪に、人懐こい笑顔を浮かべながら朝日を浴びる彼女は、とても美しかった。知らない街の、知らない店員。けれど、なんの気無しに自分に向けられた彼女の笑顔に、胸が暖かくなったのだ。好きにならない方がおかしい。
大学院の同級生にこんな話をすれば、爆笑されるに違いない。けれど、僕は至って大真面目だ。この扉をくぐる決意をするまで、約一ヶ月。今日は、彼女の煎れたコーヒーを飲んで、あわよくば顔を覚えてもらうのが目標である。
時刻は、十四時の少し手前。ランチタイムは残りわずかだが、まだ間に合うだろう。
「注文、いいですか?」
「はい、どうぞ」
「パスタランチセット、ひとつ」
「パスタランチセットですね、お飲み物は何にしますか?」
「ブレンドコーヒーでお願いします」
「かしこまりました。しばらくお待ちくださいね」
注文を聞くと、彼女はくるりと踵を返し調理に取りかかった。
カウンターの中はあまり広くないようで、手前はコーヒーを煎れる場所、奥の方は調理用のキッチンになっている。どうやら、今日は彼女一人で店を回しているようだ。それなりに客の入る店舗に見えるが一人で店番をしているのだろうか。そういえば、彼女以外の店員や店主らしき存在を見た記憶がなかった。
僕は、彼女が調理する様子を、カウンター越しに眺めた。鼻歌を歌っているのが、うっすらと聞こえる。暖かい店内で、彼女がつくる料理を待つ時間。なんていい時間だろう。
程なくして、カウンターを出た彼女が、出来立てのパスタをことりと僕の目の前に置いた。
「お待たせしました。お飲み物は食後で良いですか?」
僕がこくりと頷けば、彼女はごゆっくりどうぞ、と微笑み、またカウンターに戻った。あぁ、会話するチャンスだったのに。
木製のプレートには、パスタの他に何種類か、こまごました付け合わせが乗っている。僕にはもったいないくらいの、女子がSNSにアップしたくなるであろうランチプレートだった。いただきますと手を合わせ、パスタを口へ運ぶ。
「……美味い」
馬鹿舌の僕でもわかる。これは美味い。その素朴な味にどこかほっとする。きっと、素材の一つ一つもオーガニックとかそういう体に優しいものなんだろう。これは、この店内がいつも客で埋まっているのも肯ける。彼女の人柄や店の雰囲気だけじゃない。味もピカイチだからだ。僕は無心でパスタを頬張った。
「……ご馳走様でした」
その呟きが聞こえていたのか、カウンターの向こうから彼女の笑い声がした。
「ふふ、お粗末様でした。お客さん、よくこの道を通って駅に向かってるでしょう? 今日はご来店いただけて、嬉しいです」
なんてことだ。
既に僕は、彼女に覚えられていたらしい。今日の目標は、来る前から達成されていたのだ。彼女の記憶力が良いのか、それとも僕がそんなに彼女を見つめていたのか。いや、きっとその両方だろう。
彼女は、僕が食べ終わったのを見計らい、てきぱきとコーヒーを入れる支度をしている。僕は本来、初対面の人と流暢に会話ができるタイプではない。けれど、今変わらないでいつ変わるのだ。
「……実は僕、最近この町に引っ越してきたんです。四月から、こちらで働き始めて」
「わぁ、そうなんですね! じゃあ、やっと新生活に慣れたころかな。とってもいいところですよ」
どうやら彼女は、話好きのようだ。そして、僕のことを年下だと認識したのか、少し口調が砕ける。
「はい……やっと、慣れてきた感じです。この辺もまだスーパーとかコンビニしか行ったことがなくて、よくわかってなくて」
「そっかぁ、商店街の定食屋さん、安くてボリュームたっぷりで美味しいですよ。自炊するなら八百屋さんや魚屋さんはメニューの相談にのってくれますし」
「へぇ、そっちも今度、行ってみます」
「ええ、ぜひ!」
手慣れたようにコーヒーを淹れていく彼女からは、暖かさとか、優しさとかそんなものが滲み出ていて。きっと、店内にいる常連らしき客も、みんなきっと彼女のことが好きなのだろうと思う。この店の看板娘、といったところだろうか。
このまま、会話が途切れてしまうのは惜しい。僕は、ありったけの勇気を出して言った。
「あの。こんな良いカフェが近くにあって、よかったです」
それを聞くと、彼女は嬉しそうに笑った。胸がほっこりと暖かくなって、ドキドキする。まずい、これは恋だ。カフェ店員にガチ恋なんて、笑えない。いやまて、結婚指輪はつけていないようだけれど、こんな素敵なカフェ店員だ。既に彼氏がいたっておかしくはない。
「ありがとうございます、嬉しいなぁ」
両手で笑み崩れる口元を隠すように、うふふと笑う彼女に、さらにドキドキする。




