111-1 ななくさ なずな(前編)
和樹さんが喫茶いしかわに通いはじめた頃の年末年始のお話。
例年、和樹には年末年始などあってないようなものだった。
幸いというべきか、この年末年始はさほどのトラブルは起きなかった。
家族持ちにわずかばかりの正月を与えるため、独身組が年末年始の業務に就くのは自然の流れだった。浮足立つ世間とは裏腹な仕事漬けで徹夜し、白い息を吐いて初日の出を拝む。
そんな、いつも通りの年明けだった。
◇ ◇ ◇
「ゆかりさんは帰省されるんですか」
「はい、兄と一緒に。大晦日の夕方にパッと戻って元日にパッと帰ってくる予定なんです」
「パッと?」
家族や親戚との仲が悪いとは聞いたことがないし、むしろ時々話に出てくるエピソードはさすがゆかりの血族だと思わせる逸話ばかりなのだ。ゆっくりしてくるとばかり思っていたが。
不思議そうにしている和樹にゆかりは首を振りながら説明した。
「ゆっくりしたいのはやまやまなんですけど、毎年兄にお見合い話をもってくる大叔母がいまして……今年からは私もターゲットにされているようだと母からリークされまして」
「ゆかりさんも、ですか」
「大学卒業したら即結婚って考えの人なんで」
それがなければ優しい良い人なんですけどね。
社会人としての経験を積むどころか、そもそも恋愛もそれほどしていないゆかりには、結婚なんてまだ考えられない。
一度だけ騙されたようにお見合いさせられた。あれは高校を卒業してすぐの頃だった。相手の名前も顔もすっかり忘れてしまったが、あの微妙な空気感は忘れられない。着慣れない着物を着て、慣れない濃いメイクをしたゆかりを見定めようとする向かい側のまなざしに、愛想笑いで顔が引きつりそうになった記憶がある。いや、大叔母がゆかりを見ては顔を顰めていたので、多分引きつっていた。
和樹くらい笑顔が張り付いていれば、とゆかりは隣の青年を見上げた。
店内の照明の中でもキラキラと輝いて見える、これまで見た誰よりも整った顔。
単なる好奇心から訊いてみた。
「和樹さんはお見合いってしたことあります?」
「……いいえ。幸か不幸かご縁がなくて」
ゆかりはにぱっと笑った。
「あはは、和樹さんならお見合いなんてする必要もないですよ。特上の美人さんがわんさか寄ってきてよりどりみどりでしょう?」
「……ゆかりさんは僕をどういう目で見てるんですか?」
ジト目で追及する。
「う、ごめんなさい」
実際、見合いなどしたくもないしする気もないが、たとえ見合いの条件を提示したとしても、ゆかりにとってそういう対象にならない気がするのはなぜだろう。
「まあ、事情は分かりました。ゆかりさんもお兄さんも、お見合いから逃げるために早々に帰ってこられるんですね」
「そうなんです! だから三日から喫茶いしかわのシフトも入れてます。一緒に初詣してからお店開けるんです」
「初詣?」
「ええ。毎年三日は午後から夕方までの営業だから、喫茶いしかわ前に九時集合で、マスターたちと初詣に行ってるんです」
ゆかりは嬉しそうに笑った。
ではその時間にここに来れば、僕もゆかりさんと初詣に行けるだろうか。和樹のなかにほんのりと期待が生まれた。
◇ ◇ ◇
正月三日、和樹は珍しくしっかりと睡眠をとった後、初詣に向かった。
冷え込みもなく、日差しも温かい。絶好の初詣日和だろう。薄墨を刷いたようなやわらかな青空を見上げていると、視界に人影が映った。
「明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします」
ゆっくりと挨拶をしたゆかりに、和樹は目を瞠る。
「ゆかりさん……」
ゆかりは、着物姿だった。
華やかな振袖ではないが、奇麗な薄紅が似合っている。小紋というのだったか、以前どこかで頭に入れた知識がぼんやりと浮かんだ。派手さはないが、ゆかりの雰囲気に素晴らしく合っている。着物に合わせて、いつもより濃い色の口紅を差しているせいか、肌の白さが際立って大人びて見える。一つに結われた髪が肩に流れ、白く細いうなじが襟から見える様は、いつものゆかりには見られない年齢相応の大人の女性らしさがあった。
「おめでとうございます。ゆかりさん、よくお似合いですね」
なんとか言葉を絞り出した。
いつもの笑顔を浮かべたつもりだが、できていただろうか。
「えへへ、ありがとうございます。去年までは小振袖着てたんですけどね、今年はさすがに着れないので祖母の若い時の着物を借りました」
「去年、ということは毎年着物を?」
「はい、マスターに聞いたらいいよって言ってくれたので、毎年初日営業日はずっとです」
割烹着も持参しているから仕事はちゃんとできますよ、とゆかりは慌てて言った。
「割烹着……」
見たい、と思わず呟くと、あとで着ますよ? とゆかりは首を傾げた。
「二人とも、明けましておめでとう。今年もよろしくね。ゆかり、今年も奇麗に着付けたねえ。華やかな振袖も似合ってたけど、それもよく似合ってるよ、すごく奇麗だ、ねえ和樹くん」
「ええ、はい本当に」
「ありがとうございます、マスター。今年もどうぞよろしくお願いいたします。さぁ、行きましょう!」
草履を履いているのに元気よくスタスタと歩き出す。
動き出すといつものゆかりにしか見えない。
和樹とマスター夫妻は顔を見合わせて笑った。
三日とはいえ、境内にはそれなりに参拝客がいた。だが、商店街の小さな神社だ。すぐに四人並んで賽銭箱の前に立つことができた。
マスターが代表して鐘を鳴らす。そして四人そろって柏手を打った。
『喫茶いしかわと、喫茶いしかわのお客さんたちにとって幸せな一年になりますように』
ゆかりはちらりと隣の青年を見た。もう一度目を閉じて祈る。
ゆかりの視線を感じて、和樹も一瞬目を開ける。そしてゆかりを見て、再び目を閉じた。
喫茶いしかわを代表して絵馬を書きます、とゆかりが記帳台に向かうと、マスター夫妻は、先に帰ってお店を開けておくよ、と手を挙げて階段を降りていった。
『マスターの腰痛が治りますように、SNSのアカウントが炎上しませんように』
絵馬に『商売繁盛』と書いてから、小さな文字で続けて書いていると、上から覗き込んだ和樹が失笑した。
「家内安全のほうがよくないですか、それ」
笑いながら、ゆかりに甘酒を渡す。いつの間に、と思いながら、ありがとうございます、と受け取る。かじかんだ指先に甘酒の温かさがじんと伝わってきた。
「商売繁盛で間違いないです。そのために一番大事なことですからね」
「では、一つ足りませんよ」
ゆかりからペンを取り上げて、和樹は下の空白に『看板娘がいつも笑顔でいられますように』と書き加えた。
「これが一番大事です」
「マスターが元気で、和樹さんが無茶して不健康な顔してないならいつでも笑顔は準備万端です」
「ハハハ、その件に関しましては持ち帰り検討して……」
「どこに持ち帰るんですかどこに」
喫茶いしかわ、と最後に書いて絵馬を吊るす。ゆかりは、びっしり文字の書かれた絵馬を満足気に見上げると、甘酒を一口飲んだ。
生姜が効いていてとてもおいしい。
「すごく美味しいです、ありがとうございます和樹さん」
「どういたしまして。生姜けっこう入ってますね、ゆかりさん平気ですか」
「大好きです! 市販の甘酒を買う時も、自分ですりおろして入れるほど好きなんですよ」
ぽかぽかした気分のまま、ゆかりは隣の和樹を見上げた。
和樹も甘酒を飲んで温まったのか、ほのかに頬に赤みがさしているように見えた。
「温まりますよね、生姜たくさんいれると」
「……そうですね、僕も好きですよ」




