98 三番目に好きなのは
まだまだこどもたちが幼い頃の一幕。
「ぼくもうがまんできない」
こどもたちのお昼寝に付き合って、うとうととしていたゆかりは、可愛らしい声に似合わない不穏な響きに眼を開けた。
きょろりと周りを確認すると、隣にいたはずの息子がいない。レースのカーテンがふわふわと揺れている。リビングのラグの上に敷かれた小さなお昼寝用布団の上で、真弓はよく寝ている。
「進くん?」
身体を起こして見回すと、息子が夫の仕事部屋に向かって突撃姿勢をとっていた。
「まってまってまって止まって進くん!」
ゆかりは進を産んでから身につけることになった俊敏性を発揮して立ち上がった。親の言うことをよく聞いて、道路から飛び出したりしない良い子だが、それでも思いも寄らない動きをするのが男の子だ。
付き合っていたら、自然と瞬発力もついてくる。
五歳とはいえ、父親譲りのパワーや身体能力はしっかり受け継いでいるようで、全身をかかえこんで抱きしめてようやく止めることが出来た。
扉の直前で捕まえたゆかりの腕の中で、父親によく似た男の子は、ツンとくちびるを尖らせた。
「だってお父さん朝からご飯のときしか出てきてくれない! お休みなのにお休みしてない!」
「うーん、急なお仕事らしいからねぇ。それでもおうちにはいてくれるじゃない?」
「僕は遊んでくれるお父さんが好きなの!」
進が休みのときにお父さんも休みで家にいることなんて滅多にない。だから、本当に楽しみにしていたのに、朝ごはんを食べたら部屋にこもって、お昼ごはんに出てきたと思ったら「もうしばらくかかりそうなんだ、ごめんな」と、進の頭をくしゃくしゃ撫でて、真弓を抱っこして、ついでに隣にいたお母さんにちゅってして、それから何時間?
デジタル時計だけじゃなく、ぐるぐる回る時計もちゃんと分かる進は、頭の中で時計の針をくるくる早回転させた。
ゆかりは腕の中の沸騰しかけた熱い背中をぽんぽんとあやした。
「お母さんはお仕事してるお父さんも格好良くて好きよ-」
「僕が一番好きなのは、遊んでくれるお父さん!」
「じゃあ、二番目に好きなお父さんは?」
「お母さんとラブラブしてるお父さん!」
進はなんの迷いもなく答えた。
ゆかりは子どもの前でも遠慮せず抱きしめてくる夫を「ばかあ」と心の中でなじった。ついでに、扉の向こうにいる夫を睨み付ける。防音になっているが、これだけ扉の前で騒いでいたらきっと聞こえているはずだ。ついでに私の羞恥心も届け。いやダメだ、届いても嬉しがるだけだ。
「じゃ、じゃあ、三番目に好きなお父さんは?」
「……お仕事がんばってるお父さん」
「だよね、かっこいいよねお父さん!」
ゆかりは進をぎゅーっと抱きしめる。
「かっこいいけどね、好きだけどね、三番目だから! 一番目じゃないからね!」
そう言った進は、ゆかりの腕の中から抜け出した。
結局、お父さんが大好きなのよねえ、とゆかりはご機嫌がなおったらしい息子に微笑んだ。
もうすぐ三時のおやつの時間。
そうしたら、この扉をノックして、少しだけ和樹さんにも出てきてもらおう。
大好きなお父さんの顔を見られたら、それだけで、本当は嬉しいのだから。
この休みを一番楽しみにしていたのは和樹だったかもしれない。
みんなで進の自転車を買いに行って、公園で一緒に練習する予定だった。仕事でキャンセルになる可能性もあるから、進には内緒にしていたが、朝、電話がかかってきた瞬間、眉間に深い皺が寄ったのをゆかりは見逃さなかった。
幸い、職場に行かねばならない仕事ではなかったが、その代わり部屋に籠もることになった。
きっと今も必死に仕事をしているだろう。進たちと過ごす時間を少しでも増やすために。
「ねえ、お母さん。僕が一番好きなお母さん知ってる?」
大きくてつぶらな眼をくるりとまわして、進は身体をゆらしている。とても可愛い。和樹さんが子供の頃もこんな感じだったのかしら。そんなことを考えながら答える。
「ええ? うーん。おやつをくれるお母さん?」
「ブー! それも好きだけどブー!」
「おいしいごはんを作ってくれるお母さん!」
「ブッブー! それはもちろん大好きだけどね、ブーだよブー」
わからないの、仕方ないから教えてあげるね。
そう言って、進はゆかりに近づいて、両腕を広げた。
「僕が一番好きなのは、ぎゅーってしてくれるお母さん!」
「進くん!」
ゆかりはきらきらした笑顔で抱きついてくる進を思いきり、ぎゅーっと抱きしめた。
可愛い、可愛い、なんて可愛いのうちの子。
キャハハハと腕の中で笑う息子をゆかりは存分に抱きしめた。
「進くん、二番目に好きなお母さんは?」
「お父さんといちゃいちゃしてるお母さん!」
あ、それは今回も二番目なのね。両親の仲がいいのはいいことよ、いいことだけど節度!
「さ、三番目は?」
「他のお母さんぜーんぶ!」
うちの子天使だわ。どうしよう、私天使産んでたわ。
ゆかりが、ぐりぐりとぷにぷにしたほっぺたにほっぺたを押しつけていると、ガチャッと扉の開く音がした。と、同時に腕の中の進ごと後ろから抱きしめられる。
「お父さん!」
進が歓声を上げた。
「可愛い可愛いすぎる、うち天国、天使、可愛すぎ、可愛い」
語彙力の死んだつぶやきは、ゆかりの耳元で囁かれて進には届かない。
「お仕事終わったの!?」
「終わった、待たせてごめんね、お父さんも一緒にぎゅーってしていい?」
「もちろんいいよ!」
進は、ゆかりの腕の中から腕を伸ばして、和樹の首に腕を回そうとして、襟をつかんだ。
和樹は、ゆかりの肩に顔を寄せて、二人を抱きしめる。
「ちょっと、二人とも苦しい…」
「お母さん、女はがまんだよ」
「ええええ、進くん厳しい」
数分後、幸せプレスから解放されて、ゆかりはようやく和樹を振り返った。
ずっとパソコンを見ていたせいか、少し目が充血している。けれど、その表情は甘くとろけているみたいに穏やかだ。
「お疲れ様。ちょうどおやつにしようと思ってたの」
「ありがとう、手伝うよ」
「僕も! 僕もてつだう!」
「じゃあ、みんなでおやつの準備をしましょ。せっかくだからお父さんに作ってもらおうかな?」
「じゃあね、ふわふわパンケーキがいい!」
「ですって、お父さん」
「喜んで作りますよお母さん」
甘い香りに誘われて起きてきた石川家のもうひとりの天使は、抱き上げようとした父親より先に、母親に抱きついた。
「真弓ちゃん、おはよう」
「ん」
「いっしょにパンケーキ食べようねえ」
「あい」
真弓はまだ眠いのか、目をこすりながら舌足らずな受け答えをしている。
ゆかりは、和樹が焼いたパンケーキをテーブルに運ぶ。パンケーキはふくよかなバターの香りをこれでもかと撒き散らす。
やったー! とバンザイしながら身体を揺すり、待ちきれないとワクワクを隠さない顔でパンケーキを目で追う子どもたち。うちの天使たちはやっぱり可愛い。
毎日家に帰れない、帰ってきても深夜で子どもたちはすっかり寝ている、一緒にいられるのはほんのわずかな時間、そんな生活が珍しくない和樹にとって、子どもの成長は想像以上に早い。
和樹の感覚では、真弓も進も変わらないくらい小さくて頼りないままなのだが、とんでもない。少し前までミルクしか飲めなかったはずの進は小さく切ったバナナパンケーキを上手にフォークで食べているし、真弓は子供用のナイフとフォークで自分で切り分けて食べている。
まいったな、と思う。
思っていたよりも、こうして甘えてくれる時間は短いのかもしれない。
「おとうさん、あーん」
真弓が小さな手を伸ばしてくる。
「ん?」
「お父さんにどうぞって」
進が面白そうに通訳する。
差し出された一口分のパンケーキを、和樹がとろけるくらいあまあまな顔で食べるのが面白くて仕方ないらしい。
そういえば去年はフォークがうまく使えなかった進が手掴みでパンケーキをあーんしてくれたっけ。本人は覚えてなさそうだけど。
「あら、じゃあお母さんは進くんからあーんしてもらおうかな」
「しかたないなあ、……はい、どうぞ」
子どもたちからそれぞれパンケーキをもらった親ふたりはこの上なく幸せを感じていた。
「進、おやつのあと、みんなでお出かけしようか」
「ほんと!?」
「うん、進の自転車買いに行こう」
やったーっ! と両手をあげて喜ぶ進の横で、真弓もにこにこして拍手している。
「和樹さん、泣いてもいいですよ」
「泣かないよ」
「意地っ張り」
「いじめっ子」
「じゃあ笑わせる!」
「は? な、ちょっ!?」
くるくると手をつないで踊り出した子どもたちの後ろで、二人はお互いの脇をくすぐりあって笑い転げていた。
笑い声に気付いて、子どもたちが参戦してくるまで。
妻馬鹿の和樹さんは、親馬鹿でもあります。
親馬鹿具合はゆかりさんも和樹さんに負けてません。
せっかく二番目に好きなのはラブラブなお父さんとお母さんって言ってくれてるのに、約十年後にはもうちょっと抑えてくれと思われてるんですよねぇ。
(「65 もうちょっと抑えてください」参照)
節度大事!(笑)




