9 浴衣に魅せられて
ドン! ドドン! パパン! パラパラパラ……。
「うわぁっ!」
夜空に咲く大輪の花にキラキラとした目を向ける子供たちに優しい目を向けながら、和樹とゆかりは以前この祭りに来たときのことを思い出していた。
◇ ◇ ◇
やっぱり浴衣っていいですよね。
道行く人の彩りにゆかりが目を細める。そんなゆかりに和樹は提案した。
「どうせなら浴衣着ましょうか?」
問いかけると「え?」とものすごく驚いた顔をされ、和樹はあるポスターに目を向ける。
〝一泊宿泊客に浴衣の無料貸し出しと着付けサービス〟
とても魅力的だけど、泊まらなくちゃいけないじゃないですかと言われ、じゃあ泊まりましょうと和樹はゆかりの返事を待たずして旅館へと足を向けたのだった。
「残り一部屋を確保できて良かったですね」
「……それ良かったことになります?」
「ほら、この通り浴衣借りられたじゃないですか」
「それは……そうですけど……」
ゆかりは困惑していた。和樹と祭りに行けることはとても嬉しい。嬉しいし、浴衣も着られてとても幸せなのだがその後が問題だった。部屋は一部屋しか空いてないと言われ、仕方なしに二人で一緒に部屋になったのだ。恋人でもなんでもないのにそれはありなのか、と問うと曖昧に誤魔化された。
今日だって、マスターの代理で仕入れるコーヒー豆の受け取りに来ただけなのだ。遅くなるだろうし、向こうはお祭りの日のはずだから、泊まって楽しんできてもいいよとは言われたけれど。そしてなぜか、僕車出しますからお使いついでにお祭り一緒に行きましょうと食い気味に提案してきた言葉にうっかりのせられてしまったのだけれど。
(和樹さんほど私はこういうことに慣れてないのに)
ゆかりと和樹の関係は喫茶店の店員と常連客、それだけだ。和樹に気のあるキレイなお姉さんや可愛いお嬢さんに関係を邪推され、うろんな目を向けられることはけっして少なくはないが、いわゆる男女の関係ではない。
そう、和樹は俗に言う『イケメン』なのだ。先ほどからやたら女性たちの視線が和樹に向けられているのだが、和樹はどこ吹く風かゆかりの手を握って歩いている。最初は拒否しようとしたのだが、圧の強い笑顔つきではぐれたらまずいでしょうと言って離してはくれなかった。
「ゆかりさん、あそこにいか焼きありますよ」
「えっ、本当ですか!」
「たこ焼きもすぐ傍にありますね」
「あ、それも食べたい!」
「あっちにリンゴ飴もありますよ。あとチョコバナナ」
「うわーん。食べたいのたくさん!」
頭を悩ませながら「とりあえずいか焼きを最初に」とゆかりは所望した。ちなみに部屋を出る際、貴重品を持とうとしたら和樹に僕が出しますからと言われ、ゆかりは持って来ていない。ひったくりに遭うかもしれないから部屋の金庫にしまっていくようにと強硬に主張され、押しきられた。あとで絶対に返してやると思っているが、それも受け取って貰えるかどうか。仕方なしに今日は和樹に甘えると言う選択肢を取る。
「わかりました。じゃあ、いか焼きを二つ」
「まいどあり!」
出店でいか焼きを頼み、醤油の香ばしい香りとほどよく焼けていくイカの匂いにゆかりの心は躍った。これだからお祭りは止められない。焼けたイカを頬張りながら隣にあったたこ焼き屋とリンゴ飴の店にも寄った。飲み物も一緒に買いながら、ゆかりはあるものに目を向ける。
「ゆかりさん?」
「あ、いや。ヨーヨー懐かしいなって」
ヨーヨー掬いを見つけ、へらりと笑いながらゆかりが言うと、和樹は一回やらせて下さいと店主に言う。いいよ、と言われビニールプールの中にあるヨーヨーを釣るための紙製の釣竿を受け取った。持っていたたこ焼きなどは一度ゆかりに預けると、和樹はいとも簡単にさっとヨーヨーを釣り上げる。
「わっ! 和樹さんあっという間!」
「こういうのはさっとやってしまうのが一番ですよ。もちろん、狙いを定めてね」
「さっすが!」
「じゃあ、このヨーヨーはゆかりさんに」
「良いんですか?」
「ええ。どうぞ」
ヨーヨーと引き換えにゆかりは和樹の手にたこ焼きなど預かったものを戻す。そうして二人はカラコロと下駄の音を響かせながらある場所へと向かった。
少し小高くなった場所、人気が少ない場所は花火を見るには絶好の場所なのだと旅館の女将から伺ったのだ。周りにいる客も女将から聞いた人たちなのかもしれない。二人は草むらの上に腰を下ろしてその時を待ちながら買ったものに手をつける。
「じゃあ、とりあえず飲んじゃいましょうか」
「はーい! 乾杯!」
「乾杯!」
ビールの入ったプラスチックのコップに口をつけた。さっぱりとしたのどごしのクラフトビールが二人の喉を潤す。
「ぷっはぁーっ! 地ビールにして正解でしたね」
「ホント! とっても美味しい!」
次に片手でずっと持ち続けていたイカを口に運んだ。香ばしい醤油と磯の香りが鼻をくすぐる。身の厚いイカは食べごたえがありとても美味しかった。
「ん~! イカ焼きがビールにぴったり合う~!」
「意外とでかいですよね、このイカ焼き」
「はい、食べごたえ抜群です! ふふ。イカ焼き買ってだ~い正解♪」
声を弾ませたゆかりを見る目が甘くなる。どこか遠慮がちだったゆかりが嬉しそうに食べている姿を見ていると和樹もほっとしてしまう。やはり食べ物に弱いゆかりなだけあって、美味しいものに目がない。まだこの後でたこ焼きやらリンゴ飴やら、追加で買った焼き鳥だって控えている。
「まだ食べるものはありますからね。遠慮なく食べてください」
「はぁーい」
もぐもぐとイカを頬張りながらゆかりは返事をする。最初は遠慮がちだったのだが、今はすっかり落ち着いたのかイカを食べることに夢中になっていた。
「……まさかこういう形で和樹さんとお祭りに来られるなんて思ってなかったなぁ」
ぼそ、と呟いた声にそうですね、と和樹は相槌を打った。
「僕もまさかゆかりさんとお祭りに来られるとは思ってもいませんでした」
「ですよね。なんか、今日は変な日」
「変ですか?」
「うん。なんて言うか、夢みたい。現実じゃないような…まあ、非日常だからかも」
アルコールが入ったせいかゆかりの瞳はとろん、と気怠そうにしていた。
「まあ、確かにそうですね。ここにいること自体不思議です」
「うん。そうなの。だからかな、とっても楽しくて…もったいないなって」
「もったいない?」
「そう。この夢ももうすぐで醒めちゃうんだろうなぁっていう勿体ない感じ」
それは言い得て妙だった。和樹はイカ焼きの最後の一切れを口に含む。ここにいることも、ゆかりと共に浴衣を着ていることも。ゆかりが言う非日常は和樹とて同じだ。
「ゆかりさん」
「何ですか?」
「ちょっとそのままで動かないでくださいね」
「へ?」
和樹がゆっくりとゆかりの傍に寄ると後ろに座った。そしてずっと袂に入れていたそれを取り出す。
「ちょっと髪の毛失礼しますよ」
「え? 和樹さん?」
そう言うと和樹はゆかりの髪の毛を丁寧に掬い上げる。一体何が始まると言うのか。ゆかりがすっかり固まってしまったことに気づいて和樹はこれですよ、とあるものを目の前に見せた。
「さっき、似合うだろうなと思ってゆかりさんの着付けを待っている間に買っちゃいました」
「えっ。これ…かんざしじゃないですか」
「このトンボ玉、綺麗だと思いません? ゆかりさんに似合ってていいなって」
そう思って選んでおいたんですと和樹が言うとゆかりはぽそりと言葉をこぼした。
「……なんか、今日の和樹さん本当にずるい」
「そうですか?」
「だって、私のことめちゃくちゃ甘やかすんだもん」
「日頃の感謝ですよ。ゆかりさんには散々お世話になっていますから」
ろくでもない取引相手や無駄にすり寄ってくる香水に荒む心をコーヒーと笑顔でほぐしてくれる看板娘。
疲労困憊したタイミングにこれでもかとクリティカルヒットな美味い和食で心を鷲掴みにされたことは数知れず(嘘だ。提供されたメニューも回数もすべて覚えている)
本人が無意識で歌いはじめる、たまに音の外れる鼻歌がなんとも心地よく何にも変えがたい癒しの空間を作り出す。鼻歌を聞かれたことに気付くとパタリとやめて、忘れてくださいと恥ずかしそうにくるりと後ろを向いてしまう可愛らしさで癒し効果は倍増だ。
それでも、その優しさはきっと和樹だけのものじゃない。他の誰かでも同じことをすることは容易に想像がつく。それが無性に苛立ちを覚えさせた。
食い気だらけの夏祭り。こんな感じになりました。
ちなみに定番メニューで焼きそばやお好み焼きなども考えましたが、ゆかりさんはせっかくの花火で色気を吹っ飛ばす青海苔をやらかしそう(いや、きっとやる)なので、こちらで自重。
トマト肉じゃがの後、しばらく攻めあぐねてる時期かと。
と言うか……ねぇマスター、わざと和樹さんの前で仕入れの話したでしょ?
わかる? 余計なお世話だけどあのふたり、こっちできっかけ作らないと進展しなさそうでさぁ。
うん。ゆかりちゃん、意外に鈍いというかなんというか……はぁ。
お店に戻ってきたゆかりからは浴衣を着たことと屋台が美味しかったことばかり聞かされ、そこじゃなくてと常連のおばあちゃまが手練手管で詳細を聞き出すと、何事もなく一泊したこと、告白もできていないことがつまびらかになり、そのお手盛りシチュエーションで何やってんだとヘタレ認定されそうな和樹さん。ある意味ピンチ!
ま、今となっては笑い話でしょうけどね。