86 あさってな彼女
「ねぇ、和樹さん」
オーダーを通す時の溌剌とした声とは違う、おっとりした彼女の呼び掛けが耳に届く。
「なんでしょう?」
お昼のピークを終え、洗い物を済ませたゆかりは手を拭きながら和樹のほうを向いた。
彼女はこちらを向いたまま、顎に人差し指を添えて(それが僕が考えごとをする時のポーズと同じであることは指摘した方がいいのだろうか?)何かを言いあぐねているように見えた。
「ゆかりさん?」
困り事だろうか?
他愛もない出来事であればポンポンと言葉を紡いでいく彼女が、珍しく言いよどむので、話しのきっかけを与えるように少し顔を傾げてゆかりの瞳を覗き込んだ。
「あのね……」
「はい」
コクリ。彼女の細い喉が緊張なのか、何かを決意したのか小さく上下した。
「和樹さんって服の上からでも女性のバストサイズが分かるって本当ですか?」
「………………は?」
待ってくれ。何を言われた?
というか何だその質問は? 今ここで聞くことか? しかもそんな神妙な顔で?
それを聞いてどうするんだ? そうなんですよと答えたらただの変態じゃないのか?
セクハラで訴えようとかそういうことか?
時間にして僅か数秒。けれども予想をしていなかった問い掛けに和樹は混乱した。
「えっと……? それは、一体、どういう……?」
質問の意図が分からず、まじまじと彼女の顔を見返してしまう。
ここで「そんなはずないでしょう」といつもの和樹スマイルを返せば話は終わっていたかもしれないのに、動揺のあまり上手い返しをしそびれた。
「ん~、特に意味はないというか。そういう噂を耳にしたので、本当かなぁ? と」
「噂……誰から?」
「それは秘密です。ほら、守秘義務? っていうやつです」
「守秘義務」
自分も時々答えを誤魔化すために使う聞き慣れた単語を返され、思わず口端に苦笑が浮かんだ。
「それで? どうなんですか? 真相は?」
先程までの遠慮していた様子は一変、目尻の垂れた瞳が好奇心いっぱいに大きく開かれ、こちらの回答を待っている。
店内の照明を受ける彼女の瞳はキラキラと輝いて、とても魅力的だ。
しかし、いかんせん質問の内容がアレである。
答えにくいというよりも、答えたくないというのが正直な気持ちだ。
噂は正しい。正解は「Yes」だ。
さすがにトップが何cmでアンダーがcmかまでを目測できる訳ではないが、サイズくらいは分かる。
特に、冬場に体にフィットしたニットを着る女性ならば……まぁ、今目の前に佇む彼女のことなのだが。
しかし、バカ正直に答えたところでその後ギクシャクしないのだろうか?
答えを口にするのを悩みはするものの、既に否定のタイミングは逃してしまっている。
そうなれば、あとは事実を小難しい言葉で飾り立てて正当な理由に聞こえるよう弁明するか、冗談を交えて茶化し、うやむやにしてしまうしかないだろう。
「うーん、そうですね……」
意図して先程彼女が披露していたポーズを模倣し顎に人差し指を添える。
「分かると言えば分かりますが、見ただけではさすがに。触れば分かると思いますよ、たぶんですけど」
和樹は後者を選んだ。
効果音がつくほどにっこりと笑顔を浮かべ、鈍いゆかりにも自分がこの話題をこれで終わらそうとしていることを暗に伝えた。
それに、彼女はなかなかの恥ずかしがり屋だ。
赤裸々な話題になれば、照れてこれ以上は踏み込んでこないだろう。
「何てこと言うんですか!」
そう言いながら赤面して慌てるゆかりを想像して和樹はふっと小さく息を漏らした、その時。
「えっ!? 触れば分かるんですか!? それって和樹さんの手の大きさと比較して判定できるってことですか? 手に収まったからこのくらいだなとか、はみ出てたからこのくらいだなとか? 凄い……女の私でもそんなの分からないですよ?」
何かを掴むように意味深なカタチに広げられた自身の両手をまじまじと見つめ、息つく間もなく喋る彼女に自然と和樹の視線もその華奢な手指に向けられる。
「ゆかりさん、あの」
「やっぱり女性経験が豊富な和樹さんだからですかね? 数々のグラマラスな方を相手にされて自然と身に付いたってこと? ん? ということは、あまりお目に掛かったことのないシンデレラバストとかはさすがに分からないのかな?」
「シンデレラバスト……」
「和樹さん知りません? ちょっと小振りなお胸のことを最近ではそう呼んでて」
そう言ってお椀型に作られたゆかりの手が自身の上半身をエプロンの上からなぞるように動いたので、和樹は猫が視線誘導を受けるようにそれを追い掛け、ある一点でじっと止めた。
「ゆかりさんのは、そんな奥ゆかしいサイズではないと思うんですが」
何も考えずに口から出た。それはもう短絡的に。
「は?」
「え?」
互いにやや俯いていた視線が上がり、ハッとしたように目線が交わる。
しまった!
焦り、フォローのためと相手を落ち着かせるために静止の意味で伸ばした右手は、しかし今の今ではタイミングが悪く、変な誤解を生んで相手に避けられた。
耳の先からハイネックに差し掛かる首筋までを真っ赤に染め上げ、身を守るように両腕を胸の前で交差し羞恥に震えるゆかりから痛恨の一言。
「さ、触らないで……っ、和樹さんのえっち!」
カランカラン
ドアベルが響いた。
和樹終了のお知らせか。
ぎぎぎっと油の切れかかったおもちゃのように背後の扉を振り返ると、見たことがない程にっこり笑顔を浮かべるマスター。
わあ、マスターまで僕の真似上手ですね! なんて途方もない現実逃避。
「和樹くん、ちょっといいかな?」
「……はい」
この後、身の潔白をマスターに説明するも何度も途中でゆかりに話の腰を折られた。
噂は噂、あれはからかうつもりで冗談を言っただけだと力説しても、変なところで妙に鋭い彼女にそんなはずはないと返される。
仕方なく和樹は最後の切り札「僕とゆかりさんが付き合っているって噂だって、事実ではないでしょう?」を高々と掲げ彼女を黙らせたのだった。
後にマスターは言う。
「でもねぇ、火のない所に煙は立たないだろう?」
これは僕とゆかりさんが付き合い始める二年前の話。
いくらランチの喧騒が過ぎて他にお客さんがいないとしても、話題のチョイスがちょっと……ねぇ?(苦笑)
いくら寛容なマスターでも、自分の城で娘に破廉恥行為だと! となればそりゃあ氷の微笑がダイヤモンド・ダストに変わりますよね。
しばらく顔合わせ辛かったろうな。ある意味、自業自得だけど。




