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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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85 よっぱらいおくさん

「かじゅきしゃん……」


 呂律の回らない舌ったらずな声が僕を呼ぶ。近寄ると酒で火照った身体が胸元にしなだれかかる。甘えているのだろうか。申し訳なさと嬉しさが綯交ぜになって僕は結局困った表情をしてしまう。


 ゆかりさんは酒に強い。ザルではないが、自分の限界をちゃんと把握した上で上手に付き合える、いい飲み方のできる人だと付き合い始めた頃は感心したものだ。しかし今目の前にいるゆかりさんはぐでんぐでんに酔っ払っている。許容量を超えてしまったのだろう。いつもならこんな飲み方はしないはずだが、理由を考えれば無理もない。


 今日は初めての結婚記念日だった。本当ならハイクラスホテルの最上階でディナーをした後に高層階の部屋でゆっくり過ごそうと話していた。しかし緊急の仕事が入ってしまい予約した時間にホテルへ行くことができなくなってしまった。よりによって記念日に……! と初めて本気で仕事を恨んだ。


 しかしゆかりさんは笑顔で送り出してくれた。

「和樹さん、いってらっしゃい。あまり無茶しないでくださいね?」

 その物分かりの良さに胸が痛んだ。こんなことは初めてじゃない。結婚する前からあったことだ。でもよくあることだからと言って落胆しない訳じゃない。楽しみにしていたはずなんだ。あんなに嬉しそうにしていたのだから。


 せめて帰宅時間は記念日に間に合わせたい。一分だけでもいいから記念日を一緒に祝いたい。そうして仕事を半ば強引に終わらせ、急いで帰ってきた僕を出迎えたのは冒頭の酔っ払った妻だった。


「あ、ゆかり……さん?」

「えへへ……おかえりなしゃぁい」

「ただいま……珍しく酔っぱらってるね」

「あの~なんらっけ、棚においてる、瓶の……」

「これを全部飲んだのか……」


 バーボンウィスキーの一つ、I.W.ハーパーの瓶が見事に空になっている。半分以上残っていたはずなんだが。飲み方はテーブルの上に置かれたグラスを見れば分かる。オンザロックだ。渋い。


「かじゅきしゃん、おこってる?」

「え、なんで」

「ぜんぶのんじゃったから」

「こんなことで怒らないよ。むしろ謝らないといけないのはこっちで」


 仕事とはいえ結婚記念日を台無しにしてゆかりさんを自棄酒に走らせてしまった。それをどうして咎められるだろう。ごめん、と紡ごうとした唇はバーボンの残滓に彩られた唇に堰き止められた。


「ちょ、んぅ……ゆか……こら、ふっ、んっ」


 ちゅっ、ちゅっ、と言葉を遮り何度も啄むようなキスで唇を塞がれる。ふにふにと唇から伝わる柔らかな感触が心地いい。やがて悪戯な唇は離れなくなり、口内を熱い舌がまさぐりはじめる。絡めてくる舌にバーボンの味がするからか、なんとなく酒を飲んだ時の酩酊する感覚を思い出す。


「はぁ……ふ、ん……」

「……ゆか、り」


 どうして、なんて聞くのは野暮だ。彼女は僕に謝ってほしいわけじゃない。それは分かる。何故かネクタイを両手で握られてるけど。


「おしゃけ、ね……? ちょっとだけ、のんでみたかったの」

「うん」

「そしたらぁ、おいしくって……とまらなくなっちゃってぇ」

「そっか」

「もっとのみたいなぁ」

「それはだめ」

「ゆかりのおねがい、きいて?」

「うぐっ……」


 目の前には物欲しそうに頬を染めて瞳を潤ませる愛しい人。しかしこれ以上飲ませて明日体調を崩しでもしたら心配だ。いくらゆかりさんの妹力を最大に発揮したおねだりでも聞く訳にはいかない。

 首を横に振ると、ゆかりさんがぷくーっと頬を膨らませた。頬袋に種をいっぱい詰めたハムスターに似てる。可愛い。


「むぅー」

「こら、ネクタイ引っ張らない」


 軽くたしなめてもゆかりさんがネクタイをぐいぐい引っ張るものだから、引く力に身体を任せて前のめりになる。支えを失ったゆかりさんはカーペットの上に仰向けに転がり、僕はその上にゆっくりと覆いかぶさった。


「ゆかりさん、誘ってる?」

「そんにゃんじゃにゃい!」


 呂律の回らない口調で足をジタバタさせる身体を組み敷いて肩口に顔を埋めると、風呂上がりの石鹸の匂いが鼻をくすぐる。


「いい匂いがする」

「かじゅきしゃん……あせくさい」

「あ、まだ風呂も入ってなかった……ぅぐっ」


 慌てて起き上がろうとして首が締まる。ネクタイを掴まれたままなのを忘れてた。まだ離してなかったのか。


「ゆかりさ~ん……ネクタイ離して」

「だめ」

「え、なんで」

「かじゅきしゃんのにおい……しゅき」


 ふんふんと鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ仕草が可愛い。もうこのまま抱いてしまおうか、と欲望がむくむく膨らむ。しかし下を向くとカーペットに寝転がっているせいか、ゆかりさんはうとうと半ば夢の中に行こうとしていた。限界を超えたら寝るタイプだったのか。


「かじゅ……しゃん……きねんび、よかったぁ……」

「うん、僕も間に合ってよかった」


 結婚記念日を一緒に過ごせてよかった、そう言いたかったのだろう。僕も、と返せば満足気に微笑むと眠気に任せて寝てしまった。

 すやすやと眠る寝顔の安らかさに安堵する。


 もし急いで僕が帰ってこなかったら自棄酒して空になった酒瓶を抱えて不貞寝していたのかもしれない。そんな寂しい寝顔を見るのは辛い。


「おやすみ、ゆかりさん」

 今日くらいいいよなと思いつつ、頰におやすみのキスをする。

 なんだか気恥ずかしくなって、ぱっと上半身を持ち上げる。


 が、ネクタイがいまだ掴まれたままだった。仕方なく片手で結の目を引っ張って解く。しゅるりと落ちた紺色のネクタイはゆかりさんの胸元で細い手首に絡まる。


「そうだ……これでよし、と」


 ごそごそと細工を施す。こんなくだらない悪戯をするのはいつぶりだろう。童心にかえったようだ。完成した悪戯を前に、ふふんと得意気になった。明日の朝が楽しみだ。

 眠るゆかりさんの身体を抱き上げる。んん……と吐息をもらしながら無意識に僕にすり寄るゆかりさんのかわいらしさを堪能しつつベットへ向かった。



 翌朝、二日酔いもなくケロリと起きたゆかりさんの手首にはゆるく巻かれた紺色のネクタイ。ラッピングされたゆかりさんは自らの手首を不思議そうに眺めていた。

 僕へのプレゼントとなった愛妻を、朝から美味しくいただいた。


 「こんな結婚記念日は嫌だ」って大喜利に出てきそうですよね(苦笑)

 ゆかりさんが起きてるうちに帰って来られて良かったね、和樹さん。


 記念日を台無しにした不機嫌は長田さんのもとへ……いかないよね?

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