83 ガラス越しのキス
ふたりの休みが重なる平日の買い出しは、恋人になって以降すっかり定番の、十年は続いているデートプランのひとつだ。
その帰り道、和樹さんの車に荷物を載せたまま、彼が仕事ついでの雑談で聞いたのだという駅近くのビルにひっそりとあるレストランに行きランチを食べた。お腹の中まで幸せだ。
まだ口に残るデザートのシトラスムースの味を反芻しながら「他にどこか、寄るところがあれば車を回しますよ」とこれもまた、買い出しの時おなじみになってしまった問いかけに、仕事で毎日忙しそうにしているのだから早く帰って休んでほしい、という気持ちと、もう少し一緒にデートしたいという気持ちがせめぎ合ってしまう。
だってそりゃあ、好きな人と休みの日も一緒にいられるなんて、おいしいものを食べたとき以上に胸がいっぱいになる。
それでもいつもみたいに「大丈夫ですよ」と返そうとしたところで、和樹さんがふとデニムのお尻のポケットに入れていたスマートフォンを取り出した。電話の着信のようで、すみません、と私に告げながら、意思の強そうな眉がちょっと下がる。
もしかしてここで解散かな、と勝手に少し残念に思ったけれど、すぐに飛び出すような急ぎではないようだった。
スマートフォンを耳に当てながら待っていてくれますか、とジェスチャーをする和樹さんに、ここは歩道の真ん中だからちょっと見回して、ブランドショップのショーウィンドウに気がついた。
造花とラッピングされたプレゼントボックスに、秋色のカバンがおしゃれに飾り付けられているそちらを指さして「あっちで待っています」と声を掛けると、和樹さんはごめん、というようなジェスチャーを続けて人の少ない方へと歩みを進める。
おうちで見るような柔らかい表情よりもピリッとはしているけど、やっぱり急ぎではないみたいだ。その横顔に、緊急の呼び出しで飛び出すときのほどの切りつける鋭さはなかった。
和樹さんへ言った通りショーウインドウの前に向かうと、光の加減のせいか大きなガラスが鏡のようになっている。そこに、ちらちらと和樹さんの横顔が映っていた。
長い指が、思案げに顎に軽く触れている。人の視線に驚くほど敏感な和樹さんを遠目とはいえこんなにまじまじと見る機会なんてあんまりない。エナメルがきれいなバッグを見る振りをしながら、それよりも手前のガラスに映っている和樹さんばっかり凝視した。
オフホワイトのニットにデニムとスニーカー、そしてボディバッグ。同じような格好の男の人はいくらでも見つかりそうな姿なのに、そこだけキラキラしているみたいだ。確かにきらきらと、秋の涼やかな風に彼の髪は揺れているけれども。
そんな姿を見ていて、なんだかそわそわしてきてしまう。
もしかして今なら、バレないんじゃない? 和樹さんは電話をしてこっちを見る気配はないし、私が見ているのはショーウインドウのガラスでしかない。歩いている人はいるけど、誰もこっちを気にしていなかった。
目の前のガラスの中で、和樹さんが目を伏せる。
私はその横顔に、ちょっとキスをするみたいに伸び上がった。
上げたかかとを地面に戻しながらくるんとショーウインドウに背を向ける。
やっちゃった。ああ恥ずかしい!
だばだばと無駄に動きたい気分の代わりに、肩に掛けたバッグの紐をぐにぐにといじってみる。和樹さんの視線は相変わらずこっちを向いていなかったことにほっとしつつ、一分もしないうちに通話を終えた和樹さんが、スマートフォンを元の通り後ろのポケットに戻しながら足早に私の方へとやってきた。
「お電話、大丈夫でした?」
「はい、ありがとうございます、ゆかりさん。すみません。ああ、それで」
「はい?」
キッチンで隣に並んでいるときと同じ位置に視線を上げると、和樹さんの口元はなにやらむずむずとしていた。
たれ目の目元に小じわがあるな、なんて改めて気付きながら首を傾げる。すると、私と同じ方向にこてん、と和樹さんも首を傾げた。
「僕にはしてくれないんですか?」
「……なにを?」
「そこに映っていた僕には、してくれたのに」
同じ角度に傾けていた自分の顔が、引きつったのが判った。そこに、と言った和樹さんが私の背後にあるガラスを指差し、そしてそのまま自分の頬をとんとん、と叩く。
「え、な、え……えっ」
なんとも言葉が話せなくなった私を、和樹さんはにこにこ上機嫌に見るばかりだ。
後退ろうにも、一歩下がればすぐにガラスに背中がついてしまう。ちろ、と横目で映る私の顔を見ると、ガラスに映っている姿でも判るくらい真っ赤になっていた。
「う、うそ!? あれっみ、見え……!」
「見てました」
「なんで!?」
見えた位置だったのかと思ったのに、まさかの意思を持って見ていた発言に思わず声がひっくり返る。
すると和樹さんはなぜか、ちょっと拗ねたような、照れくさそうな表情で手で口許を覆った。
斜め上を見るようで視線が逸れたことにも安心したけれど、この場を逃げ出せるほどの距離でもない。どの方向かに逃げられないものかと視線を彷徨わせていると、それを察したように顔はちょっと逸れたまま、その瞳だけがすい、と再び私の方へ戻ってくる。
「心配していたんですよ。今日も可愛らしい格好をしているから、ナンパでもされたらすぐに行けるように。そうしたらあんな……かわいいことをするし」
かわいいことというよりも(いい歳をしてと)引かれる案件ではないものかと思いつつ、じりじり横移動をしていたら手首を掴まれた。捕まった! と相変わらず変な汗が出そうなほど顔は熱いまま、喉の奥でひえっと声が擦れ出る。
「……ねえ、ゆかりさん。ガラス越しよりも、本物がここにいますよ?」
少し背を屈めた和樹さんが眼を細める。
それが覆い被さってくるようで、ただ声もなく唇をはくはくと動かすことしかできなかった。
少し短めですが、そろそろ更新ペースを上げようかなということで。
街の中にも関わらず少女漫画もかくやな行動をかますゆかりさんと、それにしっかり煽られてる和樹さんの、とあるデートの一コマのおはなしでした。
一応、ほのぼの話のつもりだったんですが、煽られた和樹さんの肉食獣感がそれを許してくれないような……おかしいなぁ。




