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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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81-2 勤労感謝のカレーウォーズ(後編)

 妻にされるがまま、和樹はスリッパを鳴らし、緩慢な動きで玄関に向かう。スーツ生地のさらりとした感触が、ゆかりの手のひらを伝った。


「ほら、和樹さん」

「?」

 玄関で履き慣れた革靴を履こうとすると、ゆかりがめいっぱい両手を広げて和樹を呼び止めた。突然のことに、きょとんとしていると、

「いつもお仕事お疲れさまです。和樹さんは、あの子にとって最高のおとうさんで、私にとってはもったいないくらい素敵で頼れる旦那さま、です」


 和樹さん、だいすきですよ。

 めいっぱい両手を広げたゆかりが、和樹をぎゅっと抱きしめた。

 親愛と敬愛、いろんな種類の『愛情』が詰まった怖いくらいしあわせなハグを噛みしめる。和樹もゆかりの背に腕を回す。腕の中のぬくもりが愛おしい。愛娘から“ながたん”に宛てたカレーが入っている紙袋が、がさりと音を立てた。


「今日は早く帰って来られそうですか?」

「仕事も一段落つきそうなので、今日は帰ります。何としても」

「あの子たちも和樹さんに会えるの、楽しみにしてますからね」

「……カレーにうるさい父親でも?」

「もう……まだ根に持ってるの? 困ったおとうさんねぇ」

 ハグをしたまま、どちらともなくクスクスと小さな笑い声が響いた。


「……ゆかりさんと離れるのいやだ。このままくっついてたい」

「和樹さーん? お仕事、がんばっていきましょうね?」

 和樹は「いやいや」をするように、ゆかりの首元に額を擦り付ける。大きな駄々っ子か、飼い主から離れたくない大型犬か。

 名残惜しくゆかりから離れる直前、彼女の唇に触れるだけのキスをしようとすると、


「おとうさんとおかあさん、ちゅーするの?」

「え!?」

 ぱたぱたと裸足で玄関先までやってきたのは、二人の愛おしい“宝物”のひとつだった。


「しない、しないよ」

 頬をわずかに赤らめ、おろおろするゆかりとは対照的に、

「おはよう。昨日遅かったんだって? 今日は休みだから、もう少し寝ててもいいんだぞ?」

 和樹はいつもどおり娘に話しかけた。


「おとうさん、おはよう。あのね、ブランがね、おこしてくれたの」

 先ほどまで愛妻を抱きしめていた腕で、今度は愛娘を抱き上げた。羽のように、軽くて、重い。しあわせの重みだ。


「カレー。ながたんにわたしてね」

 紙袋の中身を見た愛娘が、父親に釘を刺した。「もちろん、わかってるよ」と和樹が答えると、「ありがとう、おとうさん」ぎゅーっと、愛娘からの熱いハグが返ってきた。


「和樹さん、そろそろ行かないと」

「あ……そうだな」

 “宝物”が壊れないよう、そっと、やさしく廊下に下ろした。

 愛娘の頭を撫で、愛する家族たちに「いってきます」を告げ、家を出た。



 ◇ ◇ ◇



「“ながたん”にカレーのデリバリーだ」

「……」

 新手のパワハラか。

 長田はデスクの上に無遠慮に置かれた紙袋を見て思った。

 時刻は十二時を少し回ったところ。昼食にはちょうどいい時間だ。

 上司から賜った紙袋の中身を確認すると、大盛りご飯と、なみなみと注がれたカレーのタッパーが入っていた。

 タッパーの上には、自分には少し縁遠い、ファンシーなメモ用紙に書かれた拙いひらがなの“おてがみ”。ああ、これは……。


「石川さんのお嬢さん、ですか?」

「勤労感謝のカレーだそうだ。うちのカレーは子どもに合わせて甘口だから、長田には物足りないかもしれないけど……娘が一生懸命作ったカレーだから、よかったら食べてやってくれ」

 嫁も手伝って作ってるから、味は保証するよ。……僕は食べてないけど。


 ながたんへ。そんな書き出しからはじまる“おてがみ”の送り主は、自分になぜか懐いてくれている上司のかわいい娘さん。上司が目に入れても痛くないほど可愛がっている娘さんからのお裾分けをありがたくちょうだいしよう。

 カレーを温めようと、電子レンジに向かおうとした矢先……これだ。一言余計だ。


「食べてないって……石川さん? 勤労感謝のカレーなんですよね? ……お父さんにはその……なかった……んですか……」

「カレーの食べ方に口うるさい父親の分は、ないそうだ」

「……そんなこと聞いたら、ものすごく食べにくいんですが……」

「気にせず、食べてくれ。そのカレーは、娘から“ながたん”に、だ」

 電子レンジで温めると、甘口カレーのやさしいスパイスの香りが漂い、食欲をそそる。


「……い、いただきます」

「召し上がれ」

 ご飯のタッパーに、同じく先ほど温めたカレーを少しずつ乗せる。ご飯の片隅には、娘イチオシの福神漬けが控えめに彩りを添えていた。


「……たいへん……おいしいです」

「そうか」

「……石川さん」

「なんだ?」

「……美味しいですが、食べにくい……です」

 長田のデスクの隣の席を陣取り、和樹は彼の食事風景を眺めていた。カレーが入ったタッパーを、時々、うらめしそうに覗き込んで。


「五歳でも思ってたより包丁使えるんだな。きれいに野菜切ってあるよ」

「……そう、ですね……」

「? 僕のことは気にせず食事しろって」

「……食べにくい……本当に食べにくいんで、少しあっち向いててもらっていいですか!」


 そういうところですよ、石川さん。

 新手のパワハラに苦しみながら、長田は“小さなカレー屋さん”からのデリバリーを完食した。



 ◇ ◇ ◇



「おとうさん! おかえりなさい!」


 おかあさーん! おとうさんかえってきたよー!

 「ただいま」の声に、愛犬より先に、玄関まで走って出迎えてくれた愛娘は、父親の姿を確認すると、すぐにキッチンにいる母親に知らせに戻った。

 入れ替わるようにやってきた息子が右足にまとわりつく。きょう、ぼくだけおはようできなかった、とちょっぴり拗ねながら。

 息子とともにやってきた愛犬をひと撫でし、娘の短い熱烈歓迎と唇を尖らせた息子に苦笑しながら、和樹はリビングに向かった。


「おとうさん、もんだいです」

「問題?」

「きょうは、なんのひでしょう?」

 リビングに入ると、可愛い可愛い娘から、今朝聞いた覚えのある“問題”を出された。デジャヴだ。

 ランチョンマットの上にスプーンを並べながら、彼女は父親の答えを待っている。


「勤労感謝の日?」

「っ! せいかい! おとうさんどうしてわかったの?」

「きみのことなら、何でも分かるよ」

 スプーンを並べ終わった娘が、和樹に飛びかかる。和樹は慣れた様子で、愛娘を抱きあげる。


「カレーはつくらないけど、“きんろうかんしゃ”のシチューつくったの!」

 満面の笑みで和樹に告げる娘の格好を見ると、ゆかりとおそろいのエプロンと、頭には同じ生地のバンダナが巻いてある。薄い黄色のチェック柄で、左右にひとつずつ付いたポケットはアイボリー。シンプルだけど、かわいさはしっかりと押さえたエプロンだ。


「和樹さん、おかえりなさい。『カレーはいやだけど、“きんろうかんしゃ”のシチューをおとうさんにつくる!』って、この子張り切って。あ、手洗いとうがい済ませてきてください。もうすぐ食べられますよ」


 ゆかりが運ぶ深皿が、ダイニングテーブルに置かれる。

 じゃがいも、にんじん。しめじにブロッコリー。大きめのお肉もごろごろ入った具だくさんなクリームシチューが、深皿の中で湯気を立てていた。


「和樹さん、泣きそうになってます?」

「泣いてない、泣いてないから」

「おとうさんー? おなかすいたから、はやくー」

「あ、ごめん、わかった。すぐ手洗って、着替えてくる」

「うがいもわすれちゃダメだよ」


 言うことまで奥さんに瓜二つな娘に「わかってるよ」とやさしく返し、和樹はニヤける顔を抑えながら洗面所に向かった。



「シチューおいしいよ。うん、すごくおいしい」

「……らっきょういれない?」

「入れない。絶対入れない。シチューには入れない」

 娘の“トラウマ”に、ゆかりが我慢できずに小さく笑う。

「おとうさんも反省してると思うよ」

 助け舟は出してくれたが、スプーンを持った右手はぷるぷると震えている。

 愛娘と奥さんが作ってくれた“きんろうかんしゃ”のシチューを、和樹はゆっくりと味わって食べる。

 シチューって、こんなにしあわせな食べ物だったっけ。

 大きめの具材がごろごろ入った食べ応えのあるシチューが、冷えた体に染み渡る。


「そういえば、“ながたん”が『カレーおいしかった』って」

「ほんと?」

「本当だよ。“ながたん”、すごく喜んでた」


 ながたんが……おいしいって、たべてくれた……。

 娘が照れたような表情を浮かべ、和樹は「勘弁してくれ……」と、心の中で小さく呟いた。

 恋か憧れか、まだ区別のつかない温かな感情は、どうか部下にだけは向けないでくれ。

 父の悲痛な叫びは、愛娘に届くはずもない。

 ゆかりはもう笑いを我慢しなくなっている。

 複雑な気持ちでシチューを咀嚼している和樹は、ちらりと隣を見て、リスのように口いっぱいにシチューを頬張る息子の口のまわりを拭いてやる。


「あのね、おとうさんのシチューは “とくべつ” なんだよ」

 和樹の向かいに座る愛娘が、内緒話をするように、小さな声で話しかけてきた。

「ん? 何が特別なの?」

「にんじん、みて」

「人参?」

 スプーンでじゃがいもやブロッコリーをかき分け、和樹はシチューの海から人参をサルベージする。


「おしごと、いつもがんばってるおとうさんには“おほしさま”のにんじん。ながたんにあげたカレーにはないんだよ。おとうさんだけ」

 スプーンの上には、星型に型抜きされた人参。できるだけ型崩れしないよう、控えめに角が面取りされているのは、隙を見計らい、ゆかりがこっそり手を加えたんだろう。


「ありがとう。いちばんこの星がもらえて嬉しいかも……」

「和樹さん、泣いてる?」

「え? おとうさん、泣いてるの?」

「わ、おとうさんを泣かせちゃったの?」

「三人してもう……! 泣いてない! ぜっったい泣いてない!」

 大好きな娘と息子と奥さんの笑い声が響き、愛犬も見守っている、そんな温かな食卓がしあわせすぎて痛いくらいだ。


「あと、もうひとつ “とくべつ” があるの」

「?」

「おとうさんとおかあさんはとってもなかよしだから、ハートのにんじんもいれてます」


 え? いつのまに?

 ゆかりが目をまん丸にして驚いてる。どうやら、娘は娘で、ゆかりの隙を見計らい、ハート型に型抜きした人参を内緒で投入したようだ。五歳のサプライズは、見事に成功した。


「いってきますのぎゅーとちゅーをしてるおとうさんとおかあさんには、ハートの “とくべつ” をあげるの。なかよしのしるし」


 天真爛漫に笑う愛娘が用意してくれた “とくべつ” を見て、和樹もゆかりも、妙な気恥ずかしさに襲われた。頬の温度が上がったのは、きっと、シチューのせいだけじゃない。


 と、いうことで。

 いい夫婦の日をすっ飛ばして勤労感謝の日で書いてしまいました。

 いい夫婦……おそらく皆さまも予想されている通り、和樹さんがハッスルするばかりなのは目に見えてますからねぇ(苦笑)


 それはさておき長田さん、毎度毎度パワハラかましてごめんよ。初登場時はここまで不憫属性にするつもりはなかったんだ。いやマジで。


 えーと、この頃の長田さんはまだ独身です。

 娘ちゃんは長田さんと環さんの結婚を機にながたん呼びを卒業しました。

 なんだかんだで娘ちゃんにとっての夫婦の基準は自分の両親ですから、彼女なりにいろいろ考えて気を遣った結果のようです。


 和樹さんは長田さんの結婚をことのほか喜び、環さんには「長田と結婚してくれてありがとう!」と、この上なく感謝したという噂。あくまでも噂です。ふふふ。



 次回は11月27日(金)更新です。

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