79 蜂蜜をひとさじ
今日は一体、どうしちゃったんだろう?
ゆかりは目に入った壁時計の短針の位置に驚いた。
モーニングはそれなりだった混み具合は、ランチが始まると空席待ちの列ができるほどで、ビックリするやら申し訳ないやら。
この喫茶いしかわで行列ができるなんて、数人程度とはいえ珍しい。昼時に満席になることはよくあるが、タイミングよく入れ替わっていくおかげで長く待たせることはなく、上手く回せていた。
ゆかりと同じく早番のシフトで入っているマスターとは、阿吽の呼吸でフロアとキッチン業務をこなしていく。店の看板娘で働き者のゆかりはいつも以上に良く動き、作って運んで洗って拭いて、を繰り返した。
お客様がいないときには、まるで時が止まったかのように感じられるのに、今日みたいな日は真逆で。時計を読み違えたのではないかと我が目を疑ったほどだ。
そんなわけで混み合った本日のランチタイム。仕込んでおいた材料は途中で足りなくなり、仕方なく別メニューに切り替えて対応した。
突然の変更に気を悪くするような客はいなかったものの、今日の日替わりを楽しみにしていた客がいたかもしれない。もしかしたら残念な気持ちにさせてしまったかも。
あくまで仮定の話なのに、申し訳ないことをしたなぁとゆかりの胸の奥には小さな痛みが走った。
だからといって、仕込みが余りすぎても困る。本日のランチが連日のランチになるようでは、せっかく「本日の」とつけた意味がなくなる。
店のことは一通りできるようになっているけれど、何年たっても予想外な出来事は発生するものだ。
それはマスターも同じ意見だったようで、恋の駆け引きよりも難しいね、と冗談を飛ばした。
ゆかりはただ笑ってやり過ごした。
昔から、こと恋愛に関しては散々、鈍い鈍いと言われ続けていたゆかりは、果たしてそうだろうか、と思う。
駆け引きどころか、その土俵にすら上がれない。
ゆかりにとって、恋とはそういうものだった。
とりあえず、無事にピークタイムを乗りきれて良かった。
あとはよろしくね、と言い残してマスターは予定通り早番のシフトを終えた。今日は午後から商店街の集まりがあると聞いている。
ゆかりはにこやかにマスターを見送り、丁寧にテーブルを拭いていく。
ここからしばらくはゆかり一人で店を回さなくてはならない。気を引き締めなくては。
ティータイムもきっと忙しくなる。少しでも準備しておかなくては。
喫茶いしかわの店内には、入口の真横の日当たりのいいテーブル席、ゆったりと寛げる壁沿いのソファ席、キッチンに面したカウンター席がある。あと、和室がひとつとテラス席。
満席になっても三十人ほどしか入れない、こぢんまりとしたこの店のアットホームな雰囲気を、ゆかりはたいそう気に入っている。接客の間に挟む客とのおしゃべりは、喫茶店店員としてだけではなくゆかり個人としても楽しいし役得だとさえ思う。
カウンター席に陣取るのは主に常連客。
すっかり顔馴染みとなっていても、常に客の視線があるという意識と緊張感は忘れないように心掛けている。
お客様が安心して食事を楽しめるように、不快な印象を与えないように。
キッチンを清潔に保つことは、飲食店としては守って当然のマナー。これをいつも念頭に置いて腕を振るう。
ただ、どうしても忙しい時間帯はキッチン周辺のことが疎かになる。
今日は笑顔で接客しながら、シンクに溜まっていく食器が気になって仕方がなかった。こういうとき頼りになるバイトさんをもうひとり入れられたら、と思ってしまう。それこそ数え切れないほど、何度も。
ちなみに今日は、母が遅番シフトに入ってくれる。早番のゆかりと入れ替わりに、夕方から閉店業務までを任せることになっている。
喫茶いしかわで働き始めて早十数年、少し油断……というか甘えが出ていたのかもしれない。もっとしっかりしなきゃ。
そんな長年の経験をもってしても、今日ほどランチタイムの読みが外れたのは久々だった。
接客の隙を見て洗い物をやっつけたら、続いてコンロをピカピカに磨き上げた。水滴ひとつない、元の輝きを取り戻したキッチンはやっぱり居心地がよい。
うん、我ながら完璧。
自らの仕事に満足して、ふぅ、とひと息つく。
組んだ手を反らせて、頭上へまっすぐ伸ばす。ぎしり、と背中が不協和音をたてたような気がした。
さすがに疲れたけれど、やりきったという満足感のほうが大きい。
やっとひと息つけた今、マグカップを片手に「こういうのも嬉しい悲鳴って言うのかな?」などと考えた。
接客の隙間に、とマスターが淹れてくれた本日のブレンドは、少しも減らないうちにすっかり冷めきっていた。もはやアイスコーヒーと化している。
今日はたった一口のコーヒーを飲む時間さえ取れなかったのか、と改めて驚いた。
お祭りや季節のイベントがあるときは、最初からある程度の混雑は心得ている。けれども、なんてことのない日に、朝から客足が途絶えなくて気付けば夕方だった、なんてことがたまにある。
それが今日だ。
やっと落ち着いたと思った途端、体は正直で腹の虫が騒ぎ始める。
たいていはモーニングとランチタイムの間にアイドルタイム、すなわち来客が少ない時間帯が発生する。
その間に在庫の管理やランチの仕込み、お持ち帰り用の予約が入っていればその準備を進めておく。
ランチタイムが過ぎれば買い出しの算段を立てて、交代で休憩をとる。一人で回しているときは接客の合間につまみ食い、みたいな食事になることも。
でも今日は、和樹さんが外回りの合間に喫茶いしかわで食事をとるからと買い出しを請け負ってくれた。そのお陰で、こうして一息つく時間がとれている。
買い出しを終えて今から店に向かいます、と丁寧な言葉で綴られたメッセージに、了解、と敬礼のポーズをとるキャラクターのかわいいイラストで返事をしてから五分と少し。
そういえば……と思い出したように残りが少なくなっていた牛乳パックを冷蔵庫から取り出す。冷たくなったマグカップに牛乳を注いだら、ちょうど使いきることができた。
電子レンジで温めて、蜂蜜を一匙。とろりと回し入れたら、ハニーラテの出来上がり。
飲み物でも食べ物でも、口にするならやっぱり湯気の上がっているときが一番。
ふぅふぅと冷ましながら、ミルクが多めのコーヒーだった飲み物を飲み進める。
そろそろ彼が到着する頃。今のうちに彼のごはんを作り始めてもいいかもしれない。
昨日聞いた時点では、私の賄いとおなじものをと言ってくれていたけれど。
何がいいかな、何を喜んでくれるかな。
料理好きな和樹の味覚とお腹を満足させられるように工夫を凝らすのは、ゆかりのささやかな楽しみのひとつ。
さ~てと、と腕捲りしてゆかりはキッチンに立つ。
その横顔が恋する女のそれであることを、ゆかりはいまだに知らない。
恋する大人の女へ、ゆかりに華麗なる脱皮を図らせた彼。
実家に続き笑顔の家庭と愛おしいこどもたちを与えてくれた彼。
その彼が、パンパンに膨らんだ買い物袋を両手に下げて喫茶いしかわのドアベルを鳴らすまで、あとわずか。
この日の喫茶いしかわじゃないですけれど、たまに「もうっ、なんで!?」みたいな日、ありますよね。
おうちに帰ったゆかりさんはきっと、こどもたちとぎゅーっとして、作り置き活用の晩ごはんを食べて長湯して。和樹さんが帰ってきたら、ぎゅー電のおねだりして。
ソファーでくつろぎながらぎゅー電してたら、和樹さんにぴとっとひっついたまま眠ってしまって、翌朝ベッドで目覚めてから真っ赤になるんでしょうね。
(もちろん和樹さんがベッドに運んでくれました)
めいっぱい甘えてくれるゆかりさんは、買い出しのお手伝いしてくれた和樹さんへの最大のご褒美になっているはず。
きっと翌日はご機嫌だし、なんなら仕事の合間に「僕にひっつきながら眠る、あどけない寝顔のゆかりさん」の隠し撮りを見ながらによによしてるに違いない。




