76 オフホワイトのマフラー
これまたお付き合い前のふたり。
大島のおばあちゃまに、編み物を教わった。
ゆかりが和樹にそれを話したのは、秋も終わりに近付いた頃だ。喫茶いしかわでコーヒーを振る舞う合間の、他愛のない雑談。他愛のない話題であるつもりだった。
「どなたかに、贈られるんですか?」
せっかくだし、マフラーでも編もうかしら。そんなことを呟いたゆかりに、和樹はそう尋ねた。
ゆかりは特にその予定がないことを告げた。和樹には言わなかったけれど、そもそもそこまで本気でマフラーを編もうとも思っていなかったのだ。
「では、もし良かったら、僕にそれを頂けませんか」
和樹のその申し出を聞いた途端に、ゆかりの頭にはもうオフホワイトのマフラーが一本浮かび上がっていた。それはゆかりが和樹に贈るマフラーの、完成予想図に違いなかった。
ちょうど去年使っていたマフラーを失くしたのだ、と彼はゆかりに説明する。彼がそう言うので、ゆかりもまた、「それならちょうど良い」と思うことにした。
「いいですよ」
胸をどきどきとさせながら、それでも安請け合いを装って、ゆかりはそう答えたのだ。
和樹さん、どこまで本気だったのかしら。
それから一ヶ月程かかって、マフラーはようやく編み上がった。ゆかりはそれを和樹へ贈るための、ラッピング材料を買いに来ている。しかしここまで来て、悩んでいた。
本当に、贈ってもいいの?
技術不足からデザインにはあまりこだわることができない分、使う毛糸も、その色も、かなり悩みに悩んで選んだ。しかしあの日ゆかりの頭に浮かび上がったマフラーと、実際にできあがったマフラーとでは、かなり仕上がりに違いがある。
現実は理想のようにはいかない。そのことも、こうしてラッピングまで購入しに来ておいて、いまだにゆかりが悩んでいる理由の一つだ。つまり簡単に言えば、あの日の和樹の言動は社交辞令というもので、真に受けた自分はとんだ間抜けなのではないか、という不安が、ゆかりにはあるのだ。
手作りマフラーなんて、彼女からの贈り物だとしても、「重い」だなんて言う人がいるのに。
ゆかりと和樹は恋人同士でも何でもない。だから意気揚々とマフラーを編み始めたゆかりも、それが一目一目と進むうちに、だんだん心配になってしまった。それは時の経過と共に、浮かれていた気持ちが落ち着いたようでもあった。
冷静になってあの日の会話を思い出せば出すほど、和樹の言葉は冗談であったような気がしてくる。
確かな約束ではなかった。そんな気がしてくる。そうと信じるだけの、確固たるものがない、曖昧な会話。それはまるで、今の和樹とゆかりの関係性をそのまま表しているかのようだった。
でも、一応。せっかく、作ったんだし。
渡すかどうか迷っているのと同じ頭で、ラッピングはどんな風にしようか、とゆかりは考える。
休日で混雑した商業施設の中を、お目当てのショップ目指してぷらぷら歩いていたゆかりは、ふと足を止めた。
「あ、和樹さん」
思わず呟く。あっという間に人混みに紛れて見えなくなってしまったけれど、その後ろ姿は、確かに和樹のものだった。
おそらくは、仕事中なのだろう。和樹はグレーのスーツにダークグレーのコート、そしてオフホワイトのマフラーを首に巻いていた。
ああ、良かった。贈る前で。
ゆかりの心は、それで簡単に挫けてしまった。
新たに購入したのか、それとも失くしたと思っていたものが見つかったのか。ともかく今の和樹に、ゆかりの編んだマフラーはまったく必要ないように思えた。
遠目で素材までは分からなかったけれど、奇しくもゆかりが贈ろうとしていたものと、さっきの和樹が巻いていたマフラーは、全く同じ色だった。そして和樹が巻いていたマフラーの方がよっぽど、あの日ゆかりが頭に浮かべた完成理想図に近かった。
ラッピング材料は買わずに、ゆかりは家へ帰った。編んだマフラーは、余った毛糸と一緒にクローゼットに奥へしまいこんでしまった。あの日の会話も、マフラーを編んだことも、ゆかりは忘れてしまうことにした。
幸いにも、すっかり真冬の時期となるまで、それから和樹は喫茶いしかわを訪れなかった。そのまま春になってしまえばいいのに、とゆかりは思ったのだけど。
「今日は寒いですね」
しかし、和樹は冬が終わる前にやって来た。真冬の夜、外の寒さから逃れるようにするりと喫茶いしかわの店内へ身体を滑り込ませてきた彼は、スーツにコート姿であるにも関わらず、あのオフホワイトのマフラーを首に巻いていなかった。
「今年一番の冷え込みだって、天気予報で言ってました」
「うん。僕もその予報、聞きましたよ」
ゆかりは戸惑ってしまう。そんな日に、彼はマフラーをどこかへ忘れてきたのだろうか。そんな日なのに、マフラーを付けないで家を出たのだろうか。
「……あの、和樹さん」
「はい」
「いいえ。……何でもないです」
ゆかりは聞こうとして、聞けなかった。一度無かったことにしてしまったその単語を、口にするのが怖かったのだ。
動揺しながら、ゆかりは和樹のために熱いコーヒーを入れる。いつもはゆかりが作業するその様子をじっと見つめているのに、この日の和樹はカウンターへ座ると、俯いたままだった。
考え事でもしているのだろうか、とゆかりはその邪魔をしないよう、控え目に、和樹の脇へコーヒーを置く。かちゃりとカップが微かに鳴った。ぱっと和樹がゆかりの方を向く。
「……あの、ゆかりさん」
「はい?」
「編み物は、もうやめてしまったんですか」
「えっ」
突然こちらを向いた和樹に驚き、重ねてその言葉に驚いた。
ゆかりの心臓が跳ねる。
オフホワイトのマフラーが頭に浮かび上がった。しかしそれは、間もなくやって来る春と共に、消えてしまうものだ。
「……はい。やっぱり、難しくて」
ゆかりは誤魔化そうとしたけれど、そう言った次の瞬間には、もうその嘘を後悔した。ゆかりの自惚れでなければ、驚いたように一瞬目を丸くした和樹の顔に、ショックの色があったからだ。
「……そうですか。残念だな。……楽しみにしていたんですけど」
和樹はまた目を伏せる。ゆかりには彼が本当に落胆しているように見えた。とても社交辞令には見えない。
胸がざわざわとして、ゆかりは激しい後悔に襲われる。
しかし一度嘘をついてしまった後は、当初より何十倍も、真実を打ち明けるのが難しくなっていた。
「……ごめんなさい」
「いいえ。少し図々しいお願いだったとは思います。マフラーは新しいのを買いますよ」
「……また失くしたの?」
「また、とは?」
「和樹さん、この前見かけた時は、素敵なマフラーしてたから」
「え?」
きょとりとした目がこちらを向く。それはすぐに気まずそうに細まって、口元にも同様の笑みが浮かんだ。
「ゆかりさん、僕に気付いていたんですか」
「和樹さんも気付いてたの?」
「ええ。仕事中だったので、声は掛けませんでしたけど。……そうか、ばれてしまいましたか。やはり私利私欲で嘘をついても、なかなか実らないものですね」
「嘘?」
「マフラー、失くしてないんです」
え、と驚いたゆかりに、和樹はやはり困ったような顔で笑う。それはゆかりと同じように、臆病な嘘を後悔している顔だった。
「貴女の編んだマフラーが欲しい、と正直に言うべきでした」
残念、と彼は繰り返す。楽しみにしていたプレゼントを貰えずにしょげている、子供のような顔で。
和樹は素直に嘘を白状した。それはゆかりが望んでいた、確固たるものだ。ゆかりがマフラーを編んだことは、自惚れでも勘違いでもなかった。
「……ごめんなさい」
「気にしないでください。本当に」
「私も、嘘をつきました」
「……ゆかりさん、が?」
「はい。マフラー、本当は編んだんです」
「えっ」
消沈していた和樹の目に、ぱっと期待が灯る。ゆかりは眉を八の字にして、「ごめんなさい」と自分の卑怯を再度詫びた。
「でも、編み上げた後で、もしかしたら冗談だったのかもって思っちゃって」
「まさか。そんなことあるわけ……編み上げたんですか?」
「はい。家にしまってあります」
「閉店まで待ちます。今日いただいても?」
マフラーを巻いたときの、その温もりを既に得たように、彼は顔を綻ばせる。ゆかりは胸が苦しくなった。
「あの。あんまり、上手く編めなかったので。……期待しないでくださいね」
「今日僕が聞かなかったら、どうするつもりだったんですか?」
「捨てるのはもったいないし、ずっとしまいっぱなしでもいいかな、と」
「……もっと早く聞けば良かった。催促するようで悪いかと……いや、違うか」
何か吹っ切れたような和樹の笑顔がゆかりを捉える。
「最初から、欲しいものは欲しいと正直に言えば良かった」
ゆかりの胸がまた跳ねた。
しまいっぱなしにして、忘れていくはずだったマフラーを、身に付ける彼の姿が浮かぶ。
もうすぐ、冬は終わる。
欲しいものを欲しいと正直に言えなかったのは、自分もまた同じだとゆかりは思った。
告白だのプロポーズだのする前に手編みのマフラーをプレゼントする関係。
そりゃあ付き合ってると思われちゃいますよねぇ?(笑)
結婚してからも和樹さんは手編みをおねだりしてるだろうし、ゆかりさんはゆかりさんで、定番の帽子や手袋よりも腹巻きなんかを作ってふふん! って顔してそうな気がしますね。




