75 ゆかりはどこだ!
「よし、ここと、ここを修正すれば問題ない。今日中に仕上げてくれ」
和樹が職場て一番若い部下に付箋がついている報告書を戻すと、彼は見ているこちらが気の毒になるほどコチコチに緊張したまま「はっ」と敬礼し、そのままギクシャクとした奇妙な動きで自席へ戻って行く。
「……おい」
すぐ脇のデスクでパソコンを一心不乱に叩き、計画書を作成している長田に声をかける。
「何か、問題が?」
親愛なる部下は、ちらりと視線だけは寄越したが、その指は止まる様子はない。
「俺、そんなに怖いか?」
「いえ、いつもと同じですが」
「え? いつも怖いのか?」
「石川さん、こういう感情は個々人、それぞれです。少なくとも私は怖いと思いません。特に本日は、どちらかと言えば、ご機嫌が良いと知っていますし」
「え?なぜ?」
「昼食です。久しぶりに奥様にお弁当を作っていただいていたようですし」
和樹の口元が緩む。
「うん。昨日の夜、ゆかりさんが遅くまで何か作ってるな~と思っていたんだけど、朝、冷蔵庫を見たら久しぶりに弁当が入ってたんだ」
「あーはいはい。お幸せそうで、何よりです」
「え? 何、その言い方。お前、この頃、俺に対する口の利き方、雑じゃないか?」
「まさか」
「まあ、お前が俺を怖くないと思ってもな……」
「和樹さん、以前、皆の間では修羅と呼ばれていたこともありますよ」
「え? 初めて聞いたぞ」
長田はわざとらしいため息を吐くと「本人の耳に入るようなヘマ、さすがにしませんよ」と言う。
一体、それを褒めるべきなのか、怒るべきなのか、和樹が考え込んだ時、机の上のスマホがバイブする。
相手の名前を見て、さっと彼の顔色が変わったのに気付くと、さすがの長田の指も止まる。
和樹が慌てたように携帯のディスプレイをタップする、その指が震えている。
一体、何事だ!?
長田はごくりと唾を飲む。
「もっもしもし、何があった!?」
何があっても冷静な和樹の尋常ではない様子に、一瞬にして部屋中の空気が凍りつく。全員の表情も固まった。
相手が何か言っているようだ。
「え? 何だ? よく聞こえない? ゆかりさんは? ゆかりさんに何かあったのか?」
和樹の緊張した様子と、鋭い声に、室内は静まり返る。
「おい、どこにいる? ゆかりさんは無事なのか?!」
ここにいる誰もが、『ゆかりさん』は和樹の妻だということを知っている。
いや、最愛の妻だということを知っているのだ。
その大切な奥様に一体、何が…!
「何があった! ゆかりは? ゆかりに代われ! ――え? 周りがうるさくてよく聞こえないんだって! もう一度!」
今や室内は、針が落ちても聞こえるくらい静寂に満ち、しかし緊張感は高まる一方だ。
廊下から聞こえて来る誰かの話声が、耳障りで、長田は苛立つ。
「――べ?」
べ?
長田はもう、我慢できない。
立ち上がると、思ったよりも大きく椅子が動く音が響き、室内全員から『しーっ』と人差し指を立てられる。
「石川さん、ゆかりさんに何か…!?」
和樹は、制するように手を上げ、長田はピタリと動きを止めた。
「弁当がなんだって?」
全員の耳が驚くほど大きくなり、一言も聞き漏らさないように固唾を飲んでいる。
「え? あれ、おまえの弁当?」
ん?
んん?
んんん?
「やー、すまん。だって、給食は……え? 今日は校外学習の日だった? ごめん、冷蔵庫にドーンとあったから、てっきりお父さんの分だと……ゆか……じゃない、お母さんは怒ってなかった? そっか……分かった、後で謝っておくよ……で、おまえは昼どうしたんだ? ああ、コンビニ? 悪かった……うん、うん、分かった、分かった。え? うん、メインはエビフライだった……タルタルソースが絶品で……当たり前? まあ、そうか。あとは、卵焼きと、クリームコロッケとポテトサラダにきんぴら…おにぎりはタラコと鮭……もちろん、美味しかったぞ……ごめんって……今日の分にプラスアルファして小遣いやる……ああ、分かってる。うん、うん、今日はビーフシチュー? なるべく早く帰るから。はい、はーい。じゃ」
そこで、和樹は、静まり返っている室内の様子に、ようやく気付く。
「――あれ?」
『あれ? じゃねえよ!』
全員が心の中で突っ込んだが、もちろん、口に出せる人はいなかった。
――なんだ、石川さんも人間なんだ!(匿名希望の一番若い部下・談)
◇ ◇ ◇
「お母さん、お父さん、謝ってたよ」
「え? 電話しちゃったの? ダメよ……お仕事中なのに」
「でも、すぐ出たよ」
「あら。じゃあ、今日は外じゃないのかしら」
「うん。いきなり『ゆかりに何があった!? ゆかりはどこだ? ゆかりを出せ!』って大騒ぎしてた」
「もう――和樹さんったら」
「相変わらず心配性で過保護だよねえ」
「ねえ」
「明日もお弁当作って上げれば? 明日はどうせ進の分を作るんでしょ? 私も朝ごはんでいいからお弁当食べたい」
「そうね。じゃあ、そうしようかな」
「オムレツがいいな」
「はいはい」
「お父さんのオムレツの上に、ケチャップでハート書いてあげると喜ぶよ、きっと」
「あー……ずっと前に書いたら、長田さんに見られたってすっごく赤くなってたから、それはちょっと」
え! こっちは冗談のつもりだったのに、すでにやったことあるの? さすがバカップル……。
心の中で突っ込んだが、もちろん、口に出さない娘なのであった。
はた迷惑というか人騒がせというか……(苦笑)
明日のオムレツ弁当は、付け合わせのブロッコリーの下から、おだしで炊いたハート型に抜いたにんじんとか出てきそうな気がします。




