74 可愛くしてください
初めて和樹さんがお化粧してくれたときのお話。
コスメボックスの中身は、年相応に多いとは思う。
メーキャップアーティストをしている兄からもらう試供品はもちろん、雑誌で好きなモデルさんのルージュが宣伝されていたら買ってしまうし、SNSで話題になっている下地も試してみたくなる。
お気に入りのコスメブランドが可愛いパッケージのファンデーションを発売したら、いくら今のものが残っていたって買ってしまうのは仕方がない。
友達とデパートに行って、うっかりカウンターで新色のアイカラーをタッチアップしてもらったら、それこそ買わないわけにはいかないでしょう?
古いのは捨ててしまう。ときめかないものも。
それでもカラフルなメイクボックスは見ているだけで楽しくて、少ないとは言い難かった。
「わあっ」
コスメボックスを床にぶちまけた現場を和樹に見られ、ゆかりは気まずさに唇を噛んだ。和樹は苦笑いしながら、転がったルージュを渡してくれる。
「お化粧してるの見るなんて、デリカシーがないですよ」
「すっぴんはいいのに?」
「すっぴんはいいの」
受け取ったルージュはお気に入りのもので、もう残りが少なくなっている。また買わないと、と思ってしまうのだから、もうどうしようもない。
ぶちまけたコスメをコーヒーテーブルにぽんぽんと拾い上げていく。和樹も屈んで手伝ってくれた。
リップ、ルージュ、グロス、下地にファンデーション、コントロールカラーにハイライト。シーズン毎に出るアイカラー、チーク。気合いを入れるときに使うマスカラ、アイライナーも。
寝坊時に便利なオールインワン、保湿のオイル、数々のブラシ。それらを机に乗せて、パウダーファンデは割れてないか確認していたら、隣に腰を下ろした和樹が興味深そうにコスメを覗き込んだ。
「お店屋さんが開けそうですね」
「女の子は色々大変なんです」
前髪をクリップで上げ、スポンジを手に取る。最近は乾燥しているから、リキッドの方が具合がいい。
そう思っていたら、和樹がゆかりの手をそっと覆って動きを遮った。疑問に思い見上げると、和樹は至極楽しそうに目を細め、ゆかりのおでこに唇を落とした。
「お姫さま、僕がお化粧してあげる」
ああ、また和樹は新たな世界を見つけたらしい。
水を含ませたスポンジを手に取り、和樹は楽しそうに下地を濃い肌に落とした。コントラストに見惚れていると「君は肌が白いですね」と耳元で囁かれる。
「……遊んでたら、お出かけできませんよ」
良いように遊ばれている事実を誤魔化すように、わざとつっけんどんな態度で言うと、和樹はすべてお見通しと言うように破顔した。
「確か塗るんじゃなくて、軽くぽんぽんとするんですよね」
「そうです、毛穴を殺す勢いで」
「ゆかりさんのものなら毛穴一つも失いたくない」
「それは……別にきゅんってなりませんけど」
ぽんぽんぽん。
薄く伸ばした下地を肌に乗せて丁寧に馴染ませる。真剣な顔で和樹がゆかりを見るので、恥ずかしくなって投げやりな気持ちで目を閉じた。
「はい。次はファンデーションですか?」
ぺちぺちと頬を緩く叩かれ、ゆかりは目を開けてテーブルに置いた鏡を見る。綺麗にムラ一つなく塗れていて、なんだか悔しい。
「ううん。誰かさんのせいで目の下のクマが酷いので、コンシーラーを薄く塗ります。これ」
「へー、知らなかったな」
小さな筒状のケースを渡すと、和樹はキャップを外してしげしげと眺める。余分な液を落として、そうっとゆかりの目の下に色を乗せた。
「こうやって消してたんですか」
和樹はまた軽くスポンジで叩きながら、丁寧にコンシーラーを広げて馴染ませていく。不自然なくクマが消えたのを確認して、和樹はテーブルの上のコスメを困ったように見下ろした。
「どれを使えばいいんですか?」
和樹が適当に手に取ったのはパウダータイプ。でも冬場は保湿がメインのゆかりは、最近はあまり使っていないファンデーションだった。
和樹が知らないことを教えるのは滅多にないことで、それが自分の得意分野だから、ゆかりはつい嬉しくってにやけてしまう。
「ふふ、それはこの時期あまり適しませんね。リキッドタイプのものを使います。これか、これか……」
「いくつ持ってるんです?」
「可愛くなれる分だけ」
「ただでさえとんでもなく可愛いのに?」
和樹の手にぽいぽいとリキッドファンデーションを乗せていく。マットタイプのもの、ツヤ感が強調されるもの、最近買ったのは薄くラメが入っていて、夜のデートでも綺麗にしてくれる。
「どれがいいの?」
「どれでも。和樹さん選んで」
和樹はしばらく悩んでいたが、ゆかりの肌をじっと見た後、透明感の強いファンデーションを手に取った。
またぽんぽんとファンデーションを乗せていく。
言われるまでもなく目の辺りは丁寧にする和樹に、ゆかりは内心拍手を送った。
「はい、完成?」
ゆかりの頬に置いていた手が離れ、和樹はゆかりに鏡を見せる。綺麗に仕上がっていたけれど、これではまだまだ完成とは言い難い。
「あとはね、フェイスパウダー」
「まだ塗るの?」
「こうするとヨレないんです。その後にチークとか、アイシャドウとか」
「ううん、俄然極めたくなってきました」
和樹はフェイスパウダーを手に取る。ゆかりの指示通り顔の中心から外側にはたいたあと、ブラシで余計な粉を落とした。
「次は眉です。これは自分でやるので」
「僕がやる」
お気に入りのおもちゃを見つけた子どもみたいに、和樹はにっこりと笑って眉ペンを取り上げた。
「いつもの眉の形になぞればいいのかな?」
「え、分かりますか?」
「そりゃもちろん、君のことはなんでも」
眉はそれほどいじっていないから、少し足りない眉尻をペンで書き足すだけ。仕上げにまたパウダーと眉用のブラシを渡すと、和樹はまたかと笑ってくれる。
「これは?」
「眉毛真っ黒だと重いでしょ。私の髪は茶色寄りだから、眉にも少しだけ乗せるの」
「なるほど……色が違うんですね」
「眉尻は薄い色の方で、中心は濃くグラデーションして」
「ほほう、立体感を出すんですね」
和樹は器用にブラシを使い、自然な感じに眉に色を乗せていく。
自分でやるより綺麗になっている気がして、ゆかりは複雑な気分になる。眉毛の研究は難しいのに。
「眉終わり。うん、可愛い」
「まだですよ。チークと、アイシャドウも」
「チークもいろいろあるね。へえ、花びらの形のも」
「うふふん、可愛いでしょ~。お気に入りなの」
「うん、可愛い」
和樹はチークブラシを確かめた後、花びらをそっとなぞって粉を含ませた。ゆかりの顎に手を添え、頬にふわふわとピンクを落としていく。
「あとはアイシャドウ? これもまたたくさん色がありますね」
「色もタイプも違うんですよ。これはクリームタイプで、濡れ感とか出してくれるの。こっちは発色が綺麗なもので、これはラメだけ。最後に目元に乗せるのがお気に入りなんです。最近お気に入りなのは……」
「これかな。茶色のやつ」
「正解! コーヒーをイメージしたアイシャドウパレットなんです。和樹さん、好きな色選んでください」
和樹はうんうんと唸りながら、控えめなピンクに、締め色は茶色のものを選んだ。
「ピンク好きなの?」
「……可愛いって言ったらピンクでしょう。君は何を選んでも似合うから、困りますけど」
はい目を閉じてと早口に言われる。悩む和樹の顔が面白かったけれど、ゆかりは笑いながら目を閉じた。
ベースカラーを塗った瞼に、そっとアイシャドウのブラシが触れる。二重に締め色を乗せてグラデーションにすると、和樹は満足げに手を離した。
「上出来。可愛いよ、ゆかりさん」
頭を愛おしげに撫でられる。
トリミングをしたブランに向ける視線と同じものに見えて、ゆかりはもう少し、特別なものが欲しくなってしまった。
「あと、ルージュも」
「ああ、口紅か」
「これがリップで、口紅の前に塗るの。その上から」
「うわあ、いっぱいあるね? 何本?」
「可愛くなれる分だけ」
「困ったな。君はいつでも可愛いのに」
じゃあ、とゆかりは身を乗り出して、和樹の肩に手をついた。
耳元に口元を寄せると、内緒話をするように告げる。
「和樹さんが、一番キスしたいって思う色、選んで」
そう告げると、和樹は大きく目を見開いて、真剣な顔で低く唸る。
「君がどんな色でも、キスをしたい」
和樹は散々迷って、一番ゆかりが気に入っている口紅を手に取った。リップブラシに丁寧に含ませ、輪郭からなぞっていく。
「赤が君をこんなにも美しくするなんて」
「赤は素敵ですよ」
「そう言われる赤が羨ましいよ」
和樹はゆかりの顎を手で支えながら、優しくルージュで彩っていく。息遣いがすぐそばで聞こえてきて、ゆかりは視線を彷徨わせた。
「……はい、できた。僕のお姫さま」
鏡を見る前に、赤い色は奪われてしまった。
ここからメキメキ腕を上げちゃうのが凝り性の和樹さん。リョウさん(お義兄さん)ともこれがきっかけで仲良くなった……かもしれない。




