73 if~ゆかりさんがお決まりのセリフで口説いたら~
おつきあいしてる頃の初々しいはずの時期に。
「こんばんは、ゆかりさん」
「ひぇあ!?」
喫茶いしかわの鍵を閉めたところで声をかけられて、本当に、冗談でなく心臓が飛び跳ねた。
「あはは、何ですかその声。和樹ですよ」
「いやびっくりしますよ急に声かけられたら!」
「えぇー、気配は消してないはずですけど」
「え、嘘でしょまさか和樹さんは暗殺者だったのかしら……」
そもそも気配を消せるってことに驚きだし、できても絶対にわたしの前ではしないでほしいし。
扉をカチャンと一度引っ張って、きちんとロックされていることを確認する。
そうして、改めて和樹さんに向き直った。
「……和樹さん、何日徹夜したの?」
不調を隠しやすいなめらかな褐色の肌でさえ、今の彼がとんでもなく疲弊していることは誤魔化せない。
よっぽど寝てないか、忙しかったか、あるいはものすごく神経を使ったか。
全部まとめての可能性も大いにあるぞと思いながら、かわいそうにすっかり冷えきったその頬に触れた。
「何日だったかな……あー、ゆかりさんの指気持ちいい」
とろりと目を伏せて、和樹さんは猫が甘えるときみたいにわたしの指に頬を擦り寄せる。
無防備なところを見せてくれることが嬉しくくすぐったく、ちょっと落ち着かない。
照れくささを誤魔化すみたいに、その頬をふにふにとつまんだ。
「もー、覚えていられないくらいなら、喫茶いしかわじゃなくてまっすぐお家に帰ってくださいよ」
「明日は休みもぎ取ったんで……」
「うん、明日のことは聞いてないです」
「どうせ家のことと睡眠で潰れるんで……その前に、どうしてもゆかりさんに会いたくて」
疲れた瞳が、それでも穏やかにほころんでわたしを映した。
億劫そうなまばたき。
和樹さんはわたしの手を取って、自分の車に向かって歩き出す。
「ちょっと和樹さん、だめですよそんな眠たいひとが運転したら」
「大丈夫です、車の中に翼を授けるアレがあるんで……いや、目がシャキッとするやつかな」
「それはどっちでも良いですけど、これから寝ようってひとにそんなもの飲ませるわけないでしょう」
「えぇー……」
「眠気覚ましのおしゃべりなら付き合いますから。もしくはちょっと仮眠とか……」
カフェインは効果が続いてしまうけど、ガムくらいならいいかもしれない。
ちょっとそこのコンビニまでお使いしてあげようかしら、などと考えていると、不意に和樹さんが歩みを止めた。
指先は繋がれたままだからつられるようにわたしも立ち止まって、振り返る。
「和樹さん?」
ぱし、ぱし。
返事のように繰り返される瞬き。
「……ゆかりさん、ちょっと僕のこと怒ってくれませんか」
「なんて?」
今日の和樹さんはたいそうポンコツだ。
眠気覚ましに怒ってくれって、ぜんぜん意味がわからないしちょっと心配になるレベル。
いや、もともと無理をしがちなこのひとのことは、だいぶ心配してはいるけれど。
「和樹さん相当疲れてるでしょ。寝て! とにかく寝ていっぱい寝て。ブランのお散歩代わりに行こうか?」
「ブランの散歩は夕方したので大丈夫……。いや、違うんです誤解されると困るんですけど、別にそういう趣味があるわけじゃあないですよ」
なんとも居た堪れない様子で和樹さんは緩んでたネクタイを外してしまって、ポケットに押し込んだ。
はぁ、と楽になったらしい呼吸を、空に向けて吐き出す。
「別にわたし和樹さんに特殊な性癖があっても引かないですよ、たぶん」
「特殊な性癖ってなんですか……いや、後学のために伺っておいても?」
「えぇ? ……なんだろ、過激なSMとか……? 痛いのは嫌ですからね」
「……なるほど。つまりソフトならセーフってことですね、分かりました」
「ちょっと和樹さん? 一体何を分かったって言うんです」
まさか実践するわけでもあるまいし。
したり顔で頷く和樹さんのスーツの肩を、ぺすんとはたく。
まるきり気が抜けたみたいに和樹さんは眉を下げた。
「普段ゆかりさん僕のこと怒らないんで。ゆかりさんの珍しい顔見たら目が覚めるかなって」
「えぇー……怒るって言ったって、別に和樹さんに怒ることないし……あ、じゃあむしろ和樹さんがわたしのこと怒らせてくださいよ、そしたらいけるかも」
無茶振りには無茶振り返しを、というくらいの軽い気持ちで提案する。
ぱ、と顔をあげた先、和樹さんがとっくりとこちらを見返した。吸い込まれそうな深い瞳がじいっとこちらを見ている。
わたしが詩人なら、この色をきっとうつくしく表現できたのに。
ひどく残念だな、と思って、だけど表現できないことに安心もする。
たぶん、このひとの魅力は語れないくらいでちょうどいいのだ。
すい、と和樹さんが腕を持ち上げた。ゆるゆると伸びた先は、わたしの頬。
「……和樹さん?」
「例えば」
和樹さんはさっきのわたしみたいに、もにもに揉んだりしない。ただ頬のまるみを確かめるみたいに上下するだけだ。
しばらくそうしたあと、そのまま親指が、つ、とわたしの唇に触れた。
どうしてだろう。あんなにも頬は冷えきっていたのに、触れる指先はとてもあつい。
「例えば僕が、ここに……あなたのくちびるに、キスをしたら。……ゆかりさんは、怒ります?」
大きさだけはひそやかだけど、そう尋ねるのはいつも通りの声だ。穏やかで角のない、一定のトーンのそれ。
こういうとき、彼はあんまり声に温度を滲ませないことを知っている。でも。
「……怒りませんよ」
彼の手に自分の手を、ゆっくり重ねた。和樹さんは、そうするわたしをただ見つめている。
指を跳ねさせたり息を呑んだり、そんな分かりやすいヘマを彼は決してしないけど。
だけどその瞳だけが、ほんの僅かに、さざなみが立つように揺れること。
それはきっと、わたしだけが、彼の横顔をずっと見ていたわたしだけが、読み取れるんじゃないだろうか。
「怒りませんし、拒絶もしません。たぶん和樹さんにされて怒ること、あんまりないんじゃないかな」
「それは……」
「ダメですか?」
「ダメではないですけど。……でも、男はゆかりさんが思ってるよりも馬鹿で単純ですよ、とだけ」
「和樹さんも?」
「えぇ、残念ながら」
苦笑まじりにたしなめるようなことを言いながら、それでもわたしの頬に触れたままの手。
馬鹿で単純、それって男も女もあんまり関係ないんじゃないかしら。だって好きってそういうものでしょう、はじまりを紐解けばおんなじだ。
詩にもならない恋だって、それ自体が素敵なものでしょう?
「では、和樹さん。それを……和樹さんがお馬鹿さんで単純ということを踏まえた上で、ひとつ提案なんですけど」
「……自分で言いましたけど地味に傷つきますね、それ」
「そこは甘んじて受け入れてくださいよ。……和樹さんは眠たくて、わたしはそんなあなたに運転させるのは心配です」
「はい」
「だから」
これを好機ととらえるのは、何もあなただけじゃない。
にっこり笑って、いつか見た映画のセリフをなぞる。
目指すはドラマティック、さぁいざ尋常に。
「『わたしの部屋、すぐそこなんです。良かったら、休んで行きません?』」
分かりやすいヘマをしない和樹さん。
いつだって冷静で、穏やかで、思慮深くて。
だけどその彼が今度こそ大きく目を見開くのを、わたしは楽しい気持ちで見つめた。
◇ ◇ ◇
「……ゆかりさん」
「はぁい? あ、もちろん断る権利は和樹さんにありますけど、でもその眠たい顔のまま運転するのはナシですよ。それならせめてガムを……」
「いえ、いえ……大丈夫ですお気遣いなく、目はすっかり覚めました」
「そうですか?」
「えぇ、それはもう」
顔を覗きこめば、確かにさっきまで彼の瞳のなかでけぶっていた靄のようなものは晴れている。
声もしゃきりとしはじめていて、死にそうな眠気からはなんとか逃げ出すことができたのだろう。
「ねぇ、ゆかりさん」
和樹さんが晴れやかに笑う。瞬間、反対の手にぐいと引き寄せられた。
彼のこぼした低い笑い声が、骨を伝って耳に響くようだ。
「う、わわ」
「迂闊なひとですね、きみは。こんな時間に僕を部屋に招いて、どうするつもりだったんです?」
「どうするって」
自分から言い出したことだけれど、改めて聞かれるとちょっと困る。
まごまご口の中で言い訳を転がして、迷って。
「そりゃあ、寝てもらうつもりでしたよ……今日のところは」
「今日のところは? なら、その次は? ゆかりさん、教えてください」
「えっなんでそんなグイグイ……も、なんですか急に! さっきまでとんでもなくポンコツだったくせに!」
もう一度ぺすんとはたこうとして、だけど今度は容易く受け止められた。
和樹さんはわたしを抱き寄せたまま、カツ、と革靴の踵を鳴らす。
その爪先が向くのは、当たり前のように、わたしの家の方向だ。
「本当に、おかげさまでちっとも眠くないんです。ですから、ねぇゆかりさん」
今から、『その次』を強請っても?
冴えた男のひとの目に見つめられて、ちょっとだけ早まったかもしれない、と思ったのは内緒の話だ。
えぇ、えぇ。だけど覚悟は決めてみせましょう!
こんなにわかりやすく誘ってくれるゆかりさん、存在したことあるのかな?(笑)




