72 あいうえおショウ
少し、いつもより長めです。
「ぼく、“あいうえお”ぜんぶいえるようになったんだよ」
久しぶりに帰宅を果たした父親に、興奮気味に報告したのは、この家、石川家の宝物。ゆかりと和樹の元に誕生した男の子だ。
よく“父親の生き写し”、そんなふうに称される。それくらい、この男の子は、和樹にそっくりだった。
知り合いと息子が初めて対面を果たした時、あまりにも和樹に瓜二つで、「和樹さん、分身の術でも使えるんですか?」なんて揶揄われたこともあった。
間違いなくゆかりとの間に授かった愛の結晶だが、どうにも自分の遺伝子の強さを思い知りながら和樹は、「目元はゆかりさんに似てるんだ」と、家族自慢も忘れずにしておいたことは記憶に新しい。
和樹は、息子と湯船に浸かりながら、彼が披露してくれる少しおぼつかない五十音に、耳を傾けている。
「らりるれろ、わをん!」
和樹の足の間に座る息子が、手のひらで両目を覆い、浴室の壁に貼ってある“防水あいうえお表”を一度も見ることなく、五十音を最後の行まで音読した。
「どう? おとうさん? あってた?」
「ああ、合ってたぞ。すごいな、本当に“あいうえお”覚えたんだな」
「おふろのとき、おかあさんと、まいにちれんしゅうしたんだ」
和樹が息子の頭を撫でてやると、彼は嬉しそうに“練習風景”の様子を語ってくれた。この間まで“あいうえお”が言えなかった息子が、少し会えない間に成長していた。嬉しいような、寂しいような。
「おとうさん、ぼく、もういっかいやる」
「ああ、もう一度……いや、何度でも聴かせてくれ」
子どもの成長が嬉しい父親と、大好きな“おとうさん”に褒めてもらいたい息子による、“五十音朗読会”は、石川家のバスルームで開催されることとなった。真っ白な湯気と、五十音がこだまする湯船は、暖かかった。
いや、暑かった。
「和樹さん? どうしたの?」
「のぼせた。湯疲れしたみたいで、突然ぐったりした」
リビングで洗濯物を畳んでいた妻の元に、体を拭くのもそこそこに、パンイチ姿で現れた和樹の腕の中には、さっきまで五十音朗読会に励んでいた息子が抱きかかえられている。
「ちょっと待ってて、水と氷枕用意するから」
ゆかりがキッチンに駆け込み、慌ただしく準備する。
「いったいお風呂で何してたの?」
「“あいうえお”を聴かせてもらってた」
「のぼせるまで?」
緊迫した状況の中、ゆかりがからりと笑った。父親である和樹は生きた心地がしていないが、ゆかりは案外どんと構えている。母は強し。
「和樹さん、お水じゃなくて、スポーツドリンクにしましょう」
ゆかりがグラスにスポーツドリンクを注ぎ、足早に和樹に手渡した。またすぐにキッチンに引っ込み、ガラガラと製氷庫をかき混ぜ、氷枕を作る。
「……おかあさん、ねるまえのじゅーす、だめじゃないの……?」
氷枕を持ってきた母親に、首を傾げなら確認する。今、自分を抱きかかえている父親よりも、母親に確認されたことに、和樹はほんの少しだけショックを受けたが、今はそんなことを言っている場合ではない。
「今日は特別」
寝る前のジュースはだめだよ。
糖分の過剰摂取と、おねしょ防止のため、石川家では寝る前にジュースを飲ませないルールだ。
“特別”という甘美な響きに、和樹の腕の中にいる息子は、グラスを少し傾けた。
こくり、ごくり。
少しずつ、ゆっくりと喉が鳴る。寝る前の背徳の味に、こどもの顔がほころんだ。
「じゅーす、おいしい!」
「よかったね」
湯疲れでのぼせていた息子は、浴室でぐったりとしたことなどすっかり忘れ、和樹の膝の上ではしゃいでいる。
「……なんだ、お前……元気じゃん」
びっくりさせないでくれ、頼むから。
安堵の息を大きく吐き、和樹はそのままフローリングに大の字で寝転がった。三十も超えた男が、冷たいフローリングに、黒のボクサーパンツ一丁で寝転ぶ様は、何とも間が抜けている。
「和樹さーん? この子も大丈夫だったし、そろそろパジャマ着てください」
「うーん」
「髪の毛も乾かさないと。風邪引きますよ?」
「うーん」
和樹から愛息子を受け取ったゆかりは、何を言っても生返事の旦那さまを一旦諦め、「パジャマ着てから、ちょっと横になろうか?」と、腕の中の彼に話しかける。
「やだ!」
グラス一杯のスポーツドリンクで、魔法のように元気になった息子は、和樹の元に走っていった。
パンイチの旦那の隣に、旦那に瓜二つの小さな息子が、同じくパンツ一枚の姿で、大の字に寝転がる。
「おかあさん、みて。おとうさんのまね」
「もう、和樹さーん? 和樹さんが変なことするから、この子もマネしちゃってるじゃないですかぁ? こら、パンツで寝ちゃだめ。風邪引くからー」
何とかパジャマを着せようと奮闘するゆかりと、フローリングをころころと転がり、その手から逃げる息子。「逃げ足早いな」と和樹が笑う。
「和樹さん、笑い事じゃないですよ」
「火照った体には、ひんやりしたフローリングが気持ちいいんだ」
「きもちいいんだ」
「なぁ、気持ちいいよな」
「うん!」
父親の口調を真似ているが、おそらく“小さな和樹”は、あまり意味は分かっていない。
「ほら、ゆかりさんも寝転んで」
「え? うわ!」
ふわり、和樹にやさしく腕を引かれたゆかりが降り立った場所は、「ひんやりしている」と、湯疲れさんたちから評判のフローリングではなかった。
「……温い」
和樹の胸の上に引き寄せられたゆかりは、よく知った心臓の音と、いつもより僅かに高い体温に包まれた。
「和樹さん、熱がこもって……る?」
「僕も湯疲れしてるから」
「え? 和樹さんものぼせてるの?」
「せっかく“五十音発表会”に招待してもらったんだから、最後まで聴きたくてね」
「独演会じゃなくて?」
「うーん……ワンマンショーかな。湯疲れと引き換えに、特等席で聴かせてもらったよ」
和樹が小さく笑った。
「あの子、『お父さんに聞いてもらいたいんだ』って、和樹さんがいない間、ずっと練習してたんですよ。あいうえおを覚えたら、お父さんに手紙も書けるからって」
予想していなかった言葉に、鼻の奥がツンとする。嬉しさと愛おしさが込み上げてくる。胸の中がぽかぽかするのはきっと、湯疲れのせいではない。
「おとうさんと、おかあさん、らぶらぶなの?」
妻を抱き寄せたまま感慨に浸っていると、右隣で大の字で寝転がっていたはずの宝物が、和樹の右胸に飛び込んできた。ゆかりと和樹の顔を交互に見つめ、ほんのり頬を赤らめた母親の反応を見て、いたずらっぽく笑った。
左腕には愛妻、右腕に愛息子を抱きしめ、両手に華どころではないありあまる幸福だ。
「ああ、そうだぞ。お母さんとお父さんはラブラブなんだ」
ちょっと和樹さん!
和樹は、左隣からもごもご聞こえてくる反論はスルーした。だって、仲良しだから。
「あ、そうだ。スポーツドリンク、おかわり飲みたくない? 今日は特別。湯疲れしちゃったから、しっかり水分摂らなくちゃ、ね」
息子からの、混じり気ゼロのピュアな視線に耐えきれなくなったゆかりは、話題を逸らすように、スポーツドリンクのおかわりを提案した。
「おかわりのむぅ!」
寝る前のジュースは厳禁。家訓が今日は休業で、息子のテンションが上がった。
父と母のラブラブ話よりも、グラスに並々注がれた、ほんのりグレープフルーツの味がするスポーツドリンクのほうが重要だ。
照れ隠しの話題チェンジが見事成功し、ゆかりは和樹の胸から離れた。公約のスポーツドリンクを注ぐため、キッチンに向かう。
和樹は少し面白くないが、大好きな妻が離れ、自分も湯疲れをしていたことを思い出した。
「ねぇ、ゆかりさん。僕もスポーツドリンク飲みたい」
大の字に寝転んだまま、キッチンのゆかりにリクエストした。
「和樹さん、大人だから自分でできるでしょ?」
「できない。湯疲れしてるから、もう歩けない!」
ゆかりさん! スポーツドリンク! 僕も飲みたい!
黒のボクサーパンツ一枚で、大の字に寝転がり、おまけに髪の毛も乾かしていない。そんな大人が、今度はスポーツドリンクをご所望している。駄々をこねる子どもだ。今にも、モデルのように長い手足をバタつかせそうだ。
会社では多くの部下を従え、日々職務を全うする彼が、愛する家族が待つ家に帰宅すると、突然大きな子どもになる。普段の和樹を知る者がこの姿を見たら、不気味すぎるギャップに、卒倒してもおかしくない。
「お風呂上がりにパジャマも着ない人には、スポーツドリンク入れてあげません」
「あいつだって着てない」
大きな子どもが大人げないことを言う。
「あら、あの子はちゃんと着替え始めましたよ?」
そんな馬鹿な。
そう思いながらも、急に重みの消えた右側を見やると、さっきまで和樹にくっついてスポーツドリンクのおかわりを待っていた息子が、いそいそとパジャマを着ていた。
「ひとりで着替えてえらいね」
ゆかりが愛おしそうに息子を褒めた。
「ゆかりさん! 僕も着替えるから!」
息子に対抗意識を燃やした大きな子どもが、慌ただしくパジャマに袖を通した。
「和樹さんもえらいね。パジャマ着れたねぇ。次は、この子の髪もドライヤーしてくれたら、もっと助かるなぁ」
「ゆかりさん、まかせて!」
大好きなゆかりからの、「和樹さんもえらいね」のひとことに、和樹は完全に舞い上がった。
旦那さまの取り扱い説明書。そんなタイトルの書籍を出版できそうなくらい、ゆかりは和樹の扱い方を心得ている。喫茶いしかわの店員と常連客として程よい距離感を保っていたあの頃には、知る由もなかった案外単純なところがある彼のかわいい扱い方だ。
「スポーツドリンク、和樹さんの分も用意しますね」
湯疲れしてのぼせている旦那さまは、愛する妻と息子のためにきびきび動く。さっきまで駄々をこねていた大きな子どもは、別人のように父親の顔に戻った。
息子も、久しぶりの父親のドライヤーに、気持ちよさそうに瞳を閉じている。
そういえば結婚前、「僕、ブランを洗い慣れてるから、ドライヤーには自信あるんです」なんて“微妙すぎること”を言いながら、風呂上がりに自分の髪を乾かしてくれたことをゆかりは思い出し、くすりと笑った。
「ゆかりさーん、髪乾かしたよ。ゆかりさんも一緒にスポーツドリンク飲もう?」
リビングから和樹が呼びかける。
「おかあさんもぉー! いっしょ!」
「湯疲れしてないけど、今日だけ、私も特別、ね」
トレイの上に二人分のスポーツドリンクを用意したゆかりは、駄々っ子たちからお誘いを受け、食器棚からもうひとつグラスを取り出す。
ふと、視線を感じ振り返る。
「ブラン、うちの男の子たちは仕方ないねぇ」
騒々しさから逃れるように、キッチンの隅に身を潜めていた愛犬と目が合った。
ゆかりが話しかけると、彼は苦虫を噛み潰したような顔で短くクゥン、と鳴いた。
本日の娘ちゃんは早めのご就寝。
三人だけでいちゃついてたの知ったら拗ねるだろうなぁ(苦笑)




