70-3 行列のできない床屋さん(後編)
「……なんか緊張してきました……」
「手震えてますよ。大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です! 任せてください……!」
ぬるま湯で顔を洗い、髭を柔らかくしたところで、ゆかりさんを洗面所に呼んだ。僕が顔を洗っている間、彼女は五日前と同じように洗面所の入り口から中を覗き込んでいた。
「……ほんとに大丈夫?」
カミソリを持ったゆかりさんの右手が小さく震えている。
「武者震いです……」
「……そう……ですか……」
この子は今から何と戦うんだ。
震える五枚刃カミソリに否が応でも不安を覚えたが、一度は飲んでしまった約束だ。一回、床屋気分を体感したら、彼女も気が済むだろう。
よし、と心の中で一呼吸置く。
「それではゆかりさん、お願いします」
「はい! がんばります!」
僕はゆかりさんが握りしめていたカミソリを取り上げ、代わりにシェービングジェルのボトルを手渡した。
「……これは?」
「カミソリ負けしないためのジェルです。これ、最初に塗ってもらっていいですか?」
僕はジェルを塗る場所を左手で押さえた。頬、口まわり、顎。
ゆかりさんは「わかりました」とボトルのキャップを開けた。
「塗りますね?」
ゆかりさんは左の手のひらに透明なジェルを絞り出し、右手の指先に纏わせ、一度宣言してから僕の頬に触れた。ジェルの冷たさと、彼女の指の温度が混ざり、肌に広がっていく。
「和樹さん、こんな感じで合ってます?」
「はい、充分です。では……」
僕は取り上げていたカミソリをゆかりさんに差し出す。
「まずは頬の辺りからお願いします」
「わ、わかりました」
「ジェルで刃が滑りやすくなってるので、力を入れず、軽くで剃れます」
「はい……。じゃあ、やります」
僕はゆかりさんが手元を見やすいよう、少し膝を折る。
手の震えはもう止まっていたが、ゆかりさんの声色は少し硬かった。
僕の左頬にカミソリの冷たい感触が当たる。ゆかりさんはゆっくり、髭の流れに沿ってカミソリを動かした。
「和樹さん……剃れてます?」
「はい、ちゃんと剃れてますよ」
カミソリを左手に持ちかえたゆかりさんが、右手で僕の頬に触れた。そのまま指を上下に滑らせ、剃り心地を確認している。
「わぁ! すごい! ちゃんと剃れてる!」
スベスベですよ、とゆかりさんは嬉しそうにまだシェービングジェルが残る僕の頬を触り続ける。
「この調子でお願いします」
「はい! おまかせください!」
左頬の仕上がりが満足のいく出来だったようで、ゆかりさんは楽しそうに右頬にもカミソリを滑らせていく。
正直、ゆかりさんといえど、自分以外の人間に刃物を突き付けられたくはなかったが、こんなにも嬉々と髭剃りに勤しむ彼女を見ていると、「まぁ、ゆかりさんならいいか……たまになら……」と、僕自身少し変なクセを覚えてしまった。……ぜったいゆかりさんには言わないけど。
「少し慣れてきました」
鼻歌交じりに右頬と口まわりを剃り終わったゆかりさんが、顎にカミソリを当てる。
「このヒゲ剃っちゃったら、いつもの和樹さんに戻っちゃうんですね」
「いつものって……」
「ヒゲが伸びてる和樹さんも好きですよ。……ちょっとドキドキしちゃいます……」
「……っ」
この子はもう……。
無自覚にこういうこと言うから。
ドキドキしたのはこっちのほうだ。
「……あれ? 顎はちょっと難しいですね」
ゆかりさんは顎の形に沿って慎重にカミソリを滑らすが、少し苦戦しているようだ。
「ゆっくりで大丈夫ですよ」
「あっ、和樹さん喋らないで! 手元がくるい」
「あ」
おそらく「手元が狂います」と言いたかったであろうゆかりさんの言葉は、最後まで聞くことはできなかった。僕の目の前には、カミソリを持ったまま青ざめた顔で立ち尽くすゆかりさん。顎からは、ヒリヒリした痛み。紙で指を切った時のような、線の細い、切り傷特有の痛みだ。
「ごめんなさい……っ! 私、手元が狂って……和樹さんの顎、切っちゃいました……本当にごめんなさい! ……あっ、血が……」
「ゆかりさん落ち着いて。僕は大丈夫ですから」
「でもっ! 血が!」
顎を触ると、少し血が滲んでいた。
自分のせいで僕がケガをした、とゆかりさんはパニックだ。少量とはいえ血が出ていることも、彼女のパニックに拍車をかけた。
「大丈夫ですよ。これくらいならすぐ血は止まるんで。気にしないでください」
「気にしますよ……。和樹さんをケガさせちゃったんですよ?」
「これくらいケガのうちに入りませんよ」
僕の髭剃りを失敗してしまったことに、ゆかりさんはショックを受けていた。さっきまでの鼻歌はどこへやら、シュンとうなだれている。
「髭剃り、自分でも時々失敗しちゃうんで大丈夫ですよ。だから本当に気にしないでください。ね、床屋さん」
僕はうなだれているゆかりさんの頭をぽんぽんした。一瞬、驚いて僕を見上げた彼女。
「床屋は業務上過失致死をしてしまいました……」
「生きてますから。ころさないで」
ゆかりさんは動揺して訳の分からないことを呟いた。
僕は思わず冷静に訂正を入れた。
これはこれで面白い状況だが、これ以上、ゆかりさんに変なスイッチが入ってしまう前に話題を変えることにした。
「僕は大丈夫だから。ほら、もう気にするのはおしまい」
「でも……」
「……僕も楽しい思いさせてもらったし、いいんだよ」
「?」
「あ、そうだ。リビングに救急箱があるんで取ってきてもらえませんか?」
「! わかりました!」
「手当てしますね!」
慌ただしく救急箱を取りに行ったゆかりさんに軟膏をべったりと塗られ、「……それはいらないです」という抵抗虚しく、顎に絆創膏を貼られて、その日僕は会社に顔を出した。
◇ ◇ ◇
「石川さん……顎、どうしたんですか?」
社内の自販機で缶コーヒーを買っていると、長田に話しかけられた。
「髭剃り、失敗した」
「石川さんが失敗するなんて珍しいですね」
「オープンしたばかりの床屋がやってくれてね」
「え? 床屋が……ですか?」
「旨いコーヒーを淹れるのと、和食とナポリタンが得意な床屋なんだけど、髭剃りは初めてだったからな」
「……石川さん……それってもしかして……」
長田が何か言いかけたが、それを遮るように僕のスマホがメールの通知を知らせた。送り主は、噂の“床屋さん”。
「では、私は仕事に戻ります」
何かを察したらしく、飲み物も買わず足早にこの場を立ち去ろうとした長田の右肩を僕は反射的に掴んだ。
「上司の惚気話なんて聞きたくないです!」
───
和樹さん、今朝は本当にすみませんでした。
傷の具合はいかがですか?
あと、ひとつ聞きたいことがあります。
私の首にキスマーク、つけました?
朝は動揺してたからそんな余裕なくて、喫茶いしかわで聡美ちゃんと遥ちゃんに言われて初めて気づきましたよ……。
いつつけたんですか?
私がベッドの中で和樹さんのヒゲを触ってたとき? 和樹さん、あのとき私の首に顔埋めてたし……くすぐったくて気づかなかったけど。
もしかして、「楽しい思い」ってこのこと?
……やられました。くやしい。
お仕事がんばってください。
今度会えるときには、傷治ってるといいなぁ。
P.S.床屋は店じまいしました。
───
長田に逃げられた僕は、床屋さんからのメールで店じまいを知らされた。
キスマークに気づくのに意外と時間がかかったな、と味気ない缶コーヒーを飲みながら小さく笑った。
好奇心で刃物を扱ってはいけません(苦笑)
私は遺伝で肌が弱いので、父に髭をこすりつけられたとき本気で痛くて泣きそうになり、こすられた場所が二日ほど赤くなるのを親に必死で隠してた記憶が。
ゆかりさんみたいに楽しめる人なら良かったんですけどね。




