69-1 ヴァンパイアのイタズラ(前編)
マスターと梢さんがお付き合いを始める前にもだもだしてた頃の、喫茶いしかわのハロウィンです。
仄暗い、夜の喫茶いしかわの店内。オレンジ色の明かりがぼんやり灯る中で、ねばついた低く唸るようなマスターの声がする。
「おやおや、何とも美味しそうなお嬢さん方だ……きっとその白い肌の下に流れる血は、ひどく甘いのでしょうね……今宵、そんなあなた方に……」
ぺろり。舌なめずりをしたマスターが言葉を途切れさせた。少女たちの息を呑む音がする。暗闇に光る、金色にきらめくショートヘア。彼の口からは、二本の鋭く長いキバが飛び出していた。
「なーんて、ね。お待たせしました! ブラッド・オレンジジュースです!」
まるでスイッチが切り替わるような変化だった。いつものように朗らかに微笑んだマスターが差し出したのは、ふたつのグラス。大きめに砕かれた氷がカラン、と音を立てる。
十月も終わりのハロウィン当日。喫茶いしかわではハロウィンフェアとして、ブラッド・オレンジジュースやパンプキンパイ、ガイコツの形のクッキーなど、ハロウィンにちなんだメニューを提供していた。
日没後は「ハロウィンナイト」と称し、店内を賑やかに飾り付けた。雑貨店で購入したおばけやゾンビ、魔女のウォールステッカー、コウモリやガイコツのオーナメントもぶら下げられている。普段の照明を落とし、ジャック・オ・ランタンの薄ぼんやりとした明かりだけの店内は、雰囲気たっぷりだった。
けれどこのイベントの目玉はスタッフの“仮装”。
「きゃーっ! マスター、ヴァンパイア似合う~! カッコいい~っ!」
ブラッド・オレンジジュースを運ばれた女子高生二人が、きゃっきゃっと黄色い声を上げてはしゃいでいた。すらりとした体型、意外と鼻の高い顔。真っ白なキバもびしっと着こなしたドレスシャツも細身のパンツも、そして挙動に合わせて優雅に翻るマントも、とにかくすべてがマスターに似合っていた。
「それはどうも。ですが、そんなに無防備だと本当に食べてしまいますよ?」
石川さんってば、ノリノリだわ。ああほら、ウインクを向けられた女子高生があまりのことに、めまいを起こしてしまっている。
あーあ、何を着ても、何をしても様になるなんてずるい。そうぼんやりとマスターを眺めていた梢は、自分を呼ぶ声に我に返った。目の前のカウンター席に座っていた常連の若い警官に、声をかけられていたのだ。
「梢ちゃんは何の仮装?」
「私ですか? 一応、警察官です」
カウンターで洗い物をしながら、梢は刑事に向かって答えた。しげしげと梢の格好を眺める刑事に、泡だらけの両手を上げてにっこり応える。
ハロウィンナイトの為に、梢はヨーロッパの婦人警官をイメージしたコスチュームを着ていた。エンブレムのついた帽子に、上半身はかっちりとしたカーキ色の制服。勲章を象ったバッジに、金色に輝くボタンもついている。スカートは一般的なタイトなものではなく、ふわりと広がるミニ丈のものだった。一応、中にペチパンツを履いている。
そんな梢のコスプレは、日の目を見ることはなさそうだった。というのも、マスターの着ているマントが、飲食店のカウンターの中ではひどく都合が悪いのだ。あらぬ所に引っ掛けて食器を割ったり、水で濡れたり火で燃えたりしてしまうかもしれない。ハロウィンナイトに限り、マスターはホール、梢はカウンターと分業をすることにしたのだった。
それが、なんとなくつまらない。私だってそれなりに着飾っているのだから、お客様にお世辞でも素敵だねって言ってもらいたいし、「逮捕します!」みたいな小芝居のひとつも、正直打ってみたい。
「へえ、警察官なんだ……俺も警官の端くれだし、ちょっと見てみたいな。そこにいたらよく見えないから、カウンターの外に出てきてよ」
「あ、はい」
同じ警察ということで、梢の服装に興味があるのかもしれない。のんびり考えた梢は、警官の伸びた鼻の下に気づいていなかった。
あくまでもコスチューム用だから、正式なものではないんです。丁寧にもそう前置きした上で梢がカウンターから出ようとすると、接客を終えたマスターが梢の行く手を阻むように前に立ちはだかった。むき出しのキバに、思わずぎょっとする。
「あ、梢さん。悪いんですけどペーパーナプキンの在庫を取ってきてもらえます? 僕、手が離せなくて」
困ったようにマスターが首を傾いだ瞬間、マ~スタ~ぁ! と彼の後ろから甘ったるい声がする。梢はムッとした。
何が「手が離せない」よ。バックヤードに行くくらい、その格好でもできるのに。私はカウンターの中でひたすらキッチン仕事。自分ばっかりホールでお客さまと触れ合って、楽しそうで、まんざらでもなさそうな顔しちゃって。
「……わかりました」
梢はぐ、と様々なものを飲み込んで、バックヤードに姿を消した。だって私は大人だもの。社会に出たらこういう理不尽なことだってたくさんあるわ。これも仕事。お給料のため。がまん、がまん。
梢はそう自分に言い聞かせると、そっと後ろ手に扉を閉めた。はあ、と肩を落とすと、モヤモヤした気持ちを持て余したままバックヤードを見回す。
「えっと……ペーパーナプキンは……あっ!」
ゴソゴソとペーパーナプキンの在庫を探していた梢は、背後にあったハロウィングッズの余分が入った箱を派手に倒してしまった。整理されていなかったそれらは、バラバラと床に散っていく。
統一性の無い、結局日の目を見ることのなかった役立たずのそれらに、梢は目を細めた。
使わなかった気味の悪い色のモールの飾りは、マスターが選んだ物だ。あまりにもセンスの無い色に、顔を歪めて却下したっけ。バックヤードの隅に転がっていったのは、マスターと一緒にふざけて被せ合ったジャック・オ・ランタンの被り物。マスターに「こんな物でも似合うんですね」と真顔で言った時は、らしくなく大笑いしていた。そして何かに使えるかもと自信満々にマスターが自宅から持ってきた、真っ白い大きな布──
「皆で準備してた時は、あんなに楽しかったのにな……」
買い出しの瞬間や閉店後にハロウィンナイトの計画を立てていた時のことが、古い映画のように梢の頭の中に流れていく。
今日だって、いつもと違う雰囲気の店内、普段着る事の無い衣装、賑わう客たち。梢の心を踊らせる要素は充分に揃っているはずだった。
その喜びに影を落とす存在。それがマスターだった。
マスターとはハロウィンナイトが始まってから、ホールとカウンターに分かれていたこともあり、ほとんど会話をしていない。普段ならホールに接客をしにいっても、掃除のために外を掃きに出ても、まるでそこが帰る場所であるかのように、いつしかカウンターの中で隣り合う位置関係が当たり前になっていた。
彼が隣にいないことで、こんなにも心細くつまらなく感じるようになるなんて、思ってもみなかった。
(ばかみたい……勝手に特別な関係だなんて思ったら、石川さんに迷惑よね)
梢は一瞬だけ目を閉じると、散らばったハロウィングッズを静かに片付けた。それから何かを決意したように、バックヤードの壁に掛けられた古い鏡を覗き込む。無理矢理に笑顔を作ってからペーパーナプキンを両手いっぱいに持つと、梢はバックヤードを後にした。
「ありがとうございましたー!」
最後の客の見送りが終わり、梢はふう、と息を吐いた。日没後から閉店まで、ハロウィンナイトは終始大盛況だった。
悔しいがマスターによる集客効果は大したもので、ドラキュラが給仕に来るのを目当てに、わざと注文を小分けにする女性客もいたほどだった。
バックヤードで決意を固めたはずの梢だったが、マスターがマントをはためかせながらうやうやしく女性たちに運ぶ特別メニューを見るたびに、小さな胸を痛めた。どれも彼とふたりで、苦労して一緒に考案したものだ。
更には気もそぞろでいたためか、梢はカウンター席で話しかけてくれた常連客や学生に対しても、つっけんどんな態度を取ってしまった。プロ失格だ。
お客様が喜んでくれて、石川さんも楽しそうで。それでいいはずなのに。なんだか私、ずっと嫌な感じだったに違いないわ。
ハロウィンナイトも幕を閉じた閉店後の喫茶いしかわ。モップで床を磨きながら、梢は何度目か分からないため息を吐いた。コスチュームを着たままフロアに出るのは今日初めてだ、と自嘲を浮かべる。楽しみにしていたはずのハロウィン。私は一体何をやっているのだろう。
梢がモップを洗い終えた一方で、マスターは脚立を使い、壁や天井の飾りを外していた。それがすべて終われば、本日の業務は終了だ。
「梢さん、後は僕がやっておきますから……先に帰っていてください。今日はいつもより長く営業していたから、夜も遅いですし」
相変わらずむき出しのキバを見せながら、マスターはにっこり微笑んだ。片付けをするヴァンパイア。なんとも滑稽な光景だ。
いつもなら「私も手伝います」と申し出るところだが、梢は素直に従うことにした。一刻も早く、喫茶いしかわから離れたかったのだ。いろいろな感情が入り混じって、身も心もヘトヘトだった。
「はい……では……」
マスターにそっけなく挨拶をした梢は、私服に着替えるためバックヤードに戻ると、すぐその場に座り込んだ。じわりと、目に涙が浮かんでいく。
ああ、またやってしまった。
察しのいいマスターのことだ、梢の様子がおかしいことに気づいているかもしれない。きっと梢に、がっかりしたことだろう。どうしてあんな態度を取ってしまうのだろうか。何が大人? ばかみたい、勝手にいじけて不機嫌になって、きっと心配もかけて、本当は、本当はただ……。
梢の視界に、ふと先程倒してしまった余り物の箱が目に入る。ある物に焦点を当てた梢は、目を輝かせた。これだ……!




