67-1 招かれざる客入るべからず(前編)
お付き合いを始める前のゆかりさんと和樹さん。
いつもよりちょっと長めです。
微ホラーテイストなので、苦手な方はリターンでお願いします。
「パンプキンシフォン、大人気でしたねえ」
黒とオレンジの二色を基調にして、少しの間だけ普段と装いを変えた店内も今日で見納めだ。壁に張られた色鮮やかな装飾を剥がしながら、ゆかりが何ともなしに口にした言葉にはすぐにレスポンスが返ってきた。
「クッキーの詰め合わせも全部売れてよかったですね」
「いやー、和樹さんのレシピが美味しいからですよ! ハロウィン期間だけの商品だなんて、もったいないなあ」
「通常のメニューに取り入れるには少し手間がかかりますからね。それに期間限定、という響きでほしくなるお客さんも一定数いると思いますし」
「それはわかってるんですけど……」
もったいないなあ、ともう一度ゆかりは呟く。ぼやくと言う方が近かったのかもしれない。
プレーン、チョコ、パンプキンと三種類の味が用意された詰め合わせのクッキー。ハロウィン仕様に型抜かれただけのシンプルさも、甘すぎないバターの風味も、口の中でほろりと崩れるような絶妙な硬さも気に入っていたのに。
パンプキンシフォンだってそうだ。生地がきめ細かくてしっかりしているのに口当たりは軽くて、そのまま食べても生クリームを添えても美味しいという、どれだけ食べても飽きないような味だった。
煮え切らない返事をするゆかりに、手伝いを申し出てコーヒーメーカーの洗浄をしていた和樹はやや苦笑しながら、けれど嬉しそうに口元を緩める。
「そこまで気に入ってくれたのなら僕もレシピを提供した甲斐がありました。別に、ゆかりさんにはリクエストをいただければ作ってきますよ?」
「えっ、それは嬉しいですけど、なんだかこう、私だけ作ってもらえるのは悪いような……」
「僕とゆかりさんの仲じゃないですか」
「誤解を招く言い方はやめてください!」
マスターの趣味だという洋楽が流れる中で、気安い会話の応酬が重ねられるのと並行して閉店作業が進められていく。
店内を着飾らせていたハロウィン仕様の装飾品をすべて外し終えて、ゆかりはひとつ息をついた。せっかく飾っていたものを十月三十一日を境に取り払ってしまうのは少し寂しいが、通常のポアロの空間も懐かしくてほっとする。それにハロウィンが終わったとしても、すぐにクリスマス仕様の飾り付けが待っている。
装飾品をバックヤードに仕舞い、さてレジ締めでもしようとカウンターに戻ってきたときだった。
カラン。
穏やかな店内に波紋を広げるように鈴の音が鳴って、ゆかりは視線を緩やかに動かした。ガラス張りの扉の向こうに、夜を背負うようにしてひとりの男が立っていた。「入っても、いいですか」少し老いたような声音が、不思議なほどすんなりと空気を震わせる。
あれ? と声がこぼれて、ゆかりは同じくカウンターの内側で棚上を整理している和樹を仰ぎ見た。
「もしかして、まだ開いてると勘違いしていらっしゃるんでしょうか」
「そう、ですね。外の看板を端に寄せてはいますが、店内は明かりがついたままですし……」
「何にせよ、ちゃんと伝えないとですよね」
ぱたぱたと軽い足取りでゆかりはカウンターの外に出る。そう距離はない扉に辿り着く前に、一声掛けながら。
「すみません、もう営業時間は終わってるんですよー」
扉越しに男が揺らいだような気配がする。けれど次に聞こえたのは、ゆかりの声に対する反応ではなく、先程の言葉をそっくり映し取ったような響きだった。
「入っても、いいですか」
聞こえなかったかな、とゆかりは目を瞬かせる。大声を出したわけでもないから、わかりにくかったかもしれない。どちらにしても、ちゃんと扉を開けて応対した方が確実だろう。もともと、そのつもりではあったのだから。
しかし、扉に手を掛けようとしたところで、腕をぐっと引っ張られてゆかりは一歩後ろに下がった。
振り返ると、いつの間にかゆかりの真後ろに和樹がいた。
「和樹さん? あの、私一人でも……」
「やっぱり、僕が対応します」
「え? や、別にそんな、これくらい」
「だめですよ」
柔らかい声だった。特別低いわけでも、平坦な響きをしていたわけでもない。でもなぜだか、浮かんだ疑問すら喉の奥に押し込まれてしまうような錯覚に、ゆかりは開きかけた口を閉じる。もしかして知り合いなんだろうかと、ちらりと視線だけを扉に戻して、そこでゆかりは困惑した声を上げた。
「あ、あれ?」
振り返った扉の先には、見慣れた大通りが広がるばかりだった。少しずつ白く染まり始めた季節の中を行き交う人々。夜に浮かび上がる車のヘッドライト。立ち止まる人は誰もいないガラス張りの扉の向こうで、花壇の葉が所在なさげに揺れている。
頭に疑問符を浮かべるゆかりを置いて、和樹の反応は全くの平常だった。
「ああ、閉店だと気づいたんでしょうかね。じゃあ、残りの作業を終わらせちゃいましょう」
「あ、はい、……ええ?」
何となく腑に落ちなくて、カウンターに戻る和樹の後ろでゆかりはもう一度外を眺める。最初から男性なんていなかったような、いつもの日常風景が夜に息づいていた。
「そういえば、あのお客さんはまるで吸血鬼みたいでしたね」
こつりこつりと、アスファルトを軽やかに叩く靴音が夜風に溶けている。穏やかな静寂を破った和樹の声はいつものように柔らかく、ゆかりは満月の光が作る影を追うのを止めて隣を見上げた。首を傾げる。
「吸血鬼?」
「入っていいですか、って言ってたでしょう。諸説ありますが、吸血鬼などは招かれないと他人の敷居を跨ぐことができないそうなので」
「へええ」
「おとぎ話染みてますが、なにせ今日はハロウィンですからね」
低く唸るような車の走行音がときおり二人の横を過ぎる。街灯が街並みを淡く滲ませている。ゆかりが遅番のとき、和樹がゆかりを家まで送ってくれるのは馴染んでしまった光景だった。喫茶いしかわの様子、お客さんの情報、近所であった出来事、紙面を飾った遠い世界のニュース。二人の間を飛び交う会話は日によって変わるものだったが、今夜の話題は閉店間際の客に関連しているらしい。
「普段は人に紛れた人ならざる者が、ハロウィンの夜は本来の性質を取り戻すっていうのは中々有り得そうじゃないですか」
もしそうだったらどうします? と和樹の瞳が、少しだけ悪戯心を潜ませるように細まった。きょとんと瞬いたゆかりは、次には弾んだ笑い声を転がした。
「和樹さん、なかなかロマンチックな考え方をするんですね」
ふふ、と笑い声を滲ませながら、「もしかして私を怖がらせようとしたんですか?」と続ける。今度は和樹が少し虚を突かれたような顔をして、それから困ったように肩を竦めた。
「あはは、ばれました?」
「確かにちょっと不思議な人でしたけど、お店が開いてると勘違いしただけでしょうし、私が和樹さんの方を向いたときに帰っちゃったんでしょう? さすがにそんな話で怖がる歳じゃないですってば」
「いやあ、ゆかりさんだったら素直に怖がってくれるかなと思ったんですけどね」
残念です、とわざとらしく気落ちしたような声が返ってきてゆかりはまた笑った。
喫茶いしかわに来てくれる小さなお客さんたちが聞けば喜びそうな話だとは思う。
けれどゆかりにしても、豊富な知識の引き出しを持つ同僚が語るものを面白がりはしても、真に受けてしまうほどでもない。和樹の口調は相変わらず穏やかであったし、人を怖がらせようとするには、その雰囲気があまりにも平和的だった。
「まあ、でも」
和樹が思い出したようにその言葉を紡いだのは、ゆかりが住むマンションのエントランスの目の前だった。別れの挨拶を交わした後、すぐに立ち去ることなく終わった会話の裾を引っ張った和樹がゆかりに視線を合わせる。
「吸血鬼だとかは置いておいて、こういうイベント日は騒ぎが起きやすいものでもありますし。戸締りなどはしっかりしてくださいね」
「はあい」
なんだかお兄ちゃん、というよりお父さんみたいだと思う。声に少しだけおかしさが滲んでしまったのか、和樹の形の良い眉がほんのわずかに顰められたので、「ちゃんとしますよ、本当です」と慌てて返事を上乗せする。
「和樹さんも、気を付けて帰ってくださいね」
ゆかりがそう調子よく笑うと、和樹は仕方ないと言いたげに肩を竦めて、そうしますと微笑んだ。
玄関の戸を開け、ただいまと言いながら明かりをつけ、和樹に注意されたように戸締りをしつつ靴を脱いだ。明日は遅番だから、いつもよりゆっくり眠れるはずだ。そういえばお店の忙しさでメッセージが届いてないかケータイチェックを忘れていた。ケータイケータイ……と鞄を探った手に、馴染んだ金属の感触が届いた。
「……?」
はて、とゆかりは瞬く。掴んだものを鞄から出すと、どうみても鍵だった。ゆかりのではなく、喫茶いしかわの。
夕方、業務用オーブンの調子が悪くなり和樹に話したところ、知り合いの業者に明日の朝イチで来てもらえるよう頼んでくれて。知り合いなので僕が立ち会いますよと言われたので、マスターの許可をもらって和樹に渡したはずの鍵だった。首を傾げて。
「……あっ!」
唐突に立ち上がったゆかりは内心頭を抱えた。
閉店作業を終えて二人して外に出たとき、鍵を持っていたゆかりが喫茶いしかわの施錠をしたのだ。そのときには当然、ゆかりは鍵を渡すことを覚えていたし、施錠を終えてすぐに鍵を渡そうとしたのだ。
だがちょうどそのタイミングで和樹の携帯に電話が掛かってきて、ちょっとすみません、という一言の後に和樹は少し離れてしまった。通話は五分も満たなかったが、和樹を待つ他ない時間にケータイで暇を潰していて、つい癖で鍵を鞄のなかに落としたのだ。和樹が通話を終える頃には、ゆかりはすっかりそのことを失念していた。
「やっちゃった……」
和樹さん困るよね、でも和樹さんも気づかなかったし、いやいや悪いのは私、とぐるぐる回った思考は、はあ、と零れたため息に凝縮されている。
ひとまず電話しよう、とゆかりは今度こそケータイを手に取った。まだそう距離は離れてないはずだから、電話してその場で待ってもらって、ゆかりが届けにいけばいい。
そんな風に思考に浸っていたから、そばで響いたインターホンの音にゆかりは肩を跳ねさせた。ぴんぽーん、と些か気の抜けた音が玄関に霧散する。
「……和樹さん?」
宅急便を頼んだ覚えはないから、もしかすると、ゆかりが気づくよりも早くに気がついた和樹が道を引き返してくれたのだろうか。申し訳なさが浮かんだとき、またぴんぽーんと音が鳴って、ゆかりは首を振った。想像を巡らせるより、まずは扉を開けるのが先だ。ゆかりは脱いだ靴をまた履いて、玄関の向こうに返事をしようと口を開いて。
『入っても、いいですか』




