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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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64-1 「あゝ無常」(前編)

 映画(小説もかな?)「レ・ミゼラブル」のネタバレっぽい描写があります。被弾したくない方はリターンしてね。

 今夜は早く帰れると連絡したけれど、結局帰宅できたのは日付が変わってからだった。

 さすがに寝ているだろうと、音を立てないようにキーを回す。

 誰も迎えに来る様子はない。皆、寝静まっているようだ。

 リビングへ続く廊下を静かに歩きながら、安堵半分、落胆半分で、そんなことを思う自分は勝手だな……と、扉を開けると驚いたことに煌々と灯りが点いていた。


「お帰りなさい」

 不機嫌な顔をしたゆかりさんが、不機嫌な声で言う。


 思わずおおっと、声を出しそうになり、意志の力で抑え込む。

 余計な一言が、余計な炎上を招くことは経験済みなので。


 足元には眠っているブランを従え、パジャマの上にカーディガンという、とことんくつろいだ格好でソファに深く座り込み、テーブルにはポップコーンにポテトチップスが広げられ、手に持っているのは缶ビール……やさぐれ女の一人映画鑑賞会といったところか。


「ただいま……遅くなってごめん。寝ていて良かったのに」

「あら。和樹さんを待っていたんじゃないんですけど。ビデオ、延滞しちゃうから観てただけ」

「ああ……そう」


 画面ではジャン・バルジャンが司祭によって自分の過ちに気付き、新たな人生を始める決意を歌っている――うわ、まだ序盤じゃないか。


「えーと……シャワー浴びてくる。遅いからもう、寝なさい」

 思わず保護者のような口調で言うと、彼女は画面から目を離さずにさらりと返してくる。

「明日、お休みだもん。映画観るから」

 だから意地でも寝ないと言外に宣言され,冷や汗をかく。


 いや、これは、かなり怒ってるぞ。

 普段であれば、帰宅が遅いくらいで彼女は怒ったりしない。

 それどころか、何日も帰らず、連絡もつかず、月単位で放っておかれても、尖った気持ちを抱えたままボロボロになって帰宅しても、暖かく『お帰りなさい』と微笑んでくれる大和撫子を地で行く妻なのだ――が。

 今回は拙かったかも…しれない。


 先月から、毎晩、今夜は帰れる、帰れると言い続け、そのたびに突発事態に計画変更、無能な上役のマウント合戦に巻き込まれ、無意味で冗長な会議に次ぐ会議、部下の暴走を叱責、責任回避策協議、お詫び行脚の出張までねじ込まれ、ごめん、やっぱり無理だとメッセージを送り続けた。

 自惚れじゃなく、自分じゃなければ潰れている毎日を過ごしていたのだが、ゆかりだって毎日、夫からのメッセージを信じ夕食を作り、洗濯をし、掃除をして家を整えて、帰宅を今か今か待っていたのだろう。

 ようやく本当に帰って来た裏切り者(遊んでたわけじゃないけど!)の自分を手放しで歓迎(いや、自宅に帰って歓迎もないけれど)するには、心が追いつかないに違いない。


 さっさとバスルームから出るつもりだったけれど、ゆかりさんと顔を合わせるのも気まずくてゆっくり浴槽に浸かってしまう。すると、自分が体の芯まで疲れていて、心身ともにガチガチになっていたことに気付いた。暖かな湯が全身を揉み解してくれる。眠気と汗を落とすだけのために浴びるシャワーとは、根本的に違う。これは、癒しだ。

思わず「……あー」と親父臭い声も出る。

 自宅の風呂はいいなとしみじみ思い、こうして真夜中に風呂を使えるのも、結局はゆかりさんが準備していてくれるからだと思い至る。

 手早く体を洗い、頭も適当に洗ってバスルームを出た。


 リビングでは、先ほどとほぼ変わらない格好のゆかりさんが、睨みつけるようにまだテレビを観ている。画面ではファンテーヌが切々と自分の運命を嘆く歌を歌っている。

 テーブルの上のジャンクフードは減っていないし、缶ビールは空なのか既に置かれている。

 これは……と思い、ガシガシ頭を拭きながら冷蔵庫を開ける。


 あった、あったと食材を取り出し、小鍋に水を張り、コンソメを入れて火にかける。

 ゆかりさんがこちらを気にする素振りを見せたが、意地になってなのか、映画に夢中なのか何も言わない。湯が沸く間に、自分も缶ビールを空ける。

 行儀悪くそのまま飲むと「美味い」と素直な感想が出た。

 どんどん素に戻っている。

 指先にまで『私』が、石川和樹が戻ってきている。


 沸騰した鍋に、マッシュルームと舞茸を適当に切ってひと煮立ちさせ、塩コショウ、最後に溶き卵を垂らしてできあがり。とろけるチーズを入れるか迷ったけれど、おそらくゆかりさんのお腹はジャンクフードでいっぱい、ボリュームのあるものは不要だと判断した。


「おまたせしました」

 ゆかりさんの前にカップに入れた茸スープを置くと、自分を無視してテレビに張り付いている視線が、一瞬カップに向けられた。

 基本、美味しいものを食べるのが好きな彼女のこと、無視できるはずはない。


「――お腹空いてないけど」

 と、精一杯の強がりだ。

「うん。でも、ビールでお腹冷えているだろうから、眠る前にどうぞ。あったまるよ」

 答えはない。

 ふたりの間では、陽気な悪人達が乱痴気騒ぎを繰り広げていて、その能天気に明るい歌声がゆかりさんの沈黙を際立たせている。寝ぼけているブランを避け、起こさないようにゆかりさんの隣にごそごそ座ると「この二人、面白かったよね」と思わず感想を言う。

 「嘘つきのコソ泥、極悪人夫婦よ」と、辛辣な言葉が返って来たが、ゆかりさんがゆっくりカップを手に取る様子を、目の端で捕らえた。

 よし、と内心ガッツポーズだ。


 暖かな湯気が立ち上り、茸の良いにおいが辺りに広がる。

 スープの出来は上々で、我ながら美味いと満足だ。

 しばらくふたりで映画を観続ける。

 ジャベールが自分の信じる道を歌いだした時、さすがに眠くなり欠伸を連発(ジャベールの名誉のために言っておくと、このシーンが退屈なわけじゃない。自分のここ約三日の睡眠時間が異常に少ないのが原因だ)してしまった。

「ゆかりさーん……これ、最後まで観るの?」

「もちろんよ」

「だって……まだ半分も観てない」

「和樹さんはもう、寝てちょうだい。明日も早いんでしょ?」

「ぶー。一か月ぶりに明日は休みでした」

 ゆかりさんの口元が少し緩んだ気がする。


 けれど口からでたのは「最後まで観る」という、強情な言葉だ。

 さすがにむっとし、先に寝ようと立ち上がると、ブランの耳がぴくりと動いた……気がする。

 彼女の肩の線も、きゅうっと強張った……気がする。


 アラーム音が脳内に響いた。

 慌てて、もう一度座り込む。

 途端に、ブランから力が抜けた。

 ゆかりさんの眉間の皺も、なくなったかもしれない。

「いいから、寝てちょうだい」

 強情にゆかりさんが言うけれど、その声に泣きそうな色が載っていて、これで正解だとほっとした。


「大丈夫。最後まで付き合うよ」

「無理しないで」

「無理じゃないって…三徹くらい平気だから」

 その言葉にゆかりさんが驚いたように反応したのを無視して、「あ、ほら、コゼットだよ」と画面を指す。

 映画は進み、幼かったコゼットが美しく成長し、初めての恋に揺れる心を歌っていた。


「――コゼット…」

「ん?」

「この子ね、和樹さんに似てるって思ったの」

「え? この子、女の子じゃないか」

「ううん。顔じゃなくって、髪が。つやつやで、とてもきれいで……まつげも長くて、目がけぶって見えるの。宝石みたいにきらきらしてて……似てる」

「そうかな?」

 ピンと来なくて、改めて愛らしいコゼットを見つめる。

 いや、どう見ても、どう考えても似ていない。

 無理がある。


 と、肩口にとんと何かが当たる。

 見下ろすと、相変わらず仏頂面の奥さんが、体を固くしたまま、もたれ掛かって来ていた。

「…ゆかりさん?」

「似てるもん」

「――そっか」

「すっごく似てる」

「うん」


「――和樹さん」

「ん?」

「お帰りなさい」

 遅ればせながら、ようやく許されたことに気付く。

 さっき飲んだスープよりもずっと暖かなものが、全身に流れ出す。

 ちっとも急激なものじゃないけれど、ゆったりと、でも、確実に体を巡って行く。


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