5 夏の定番おかず・トマト肉じゃが(和樹視点)
玄関先でネクタイを緩めながら声をかける。
「ただいま」
靴を脱ぐBGMは、ドタバタとこちらに向かう足音ふたつ。
「おかえりなさーい!」
「間に合ったね。今からごはんだよ」
「うん」
飛び付いてぎゅーっとしがみついてくる子供たちを抱きしめ返す。
「着替えてくるから、お母さんのお手伝いは頼んでもいいかな?」
「はーい!」
「まかせて!」
きゃっきゃと楽しそうに台所へ向かう子供たちを見送ると、
「ストップ! お手伝いの前に手を洗って!」
慌てたようなゆかりさんの声がした。思わずくすりと笑ってしまう。
僕もまずは手洗いうがいだな……と、いつもより酸味強めの出汁の香りで肺を満たすように息を吸い込みながら洗面所に向かった。
ダイニングに顔を出すと、すっかり夕飯の支度が整っていた。
ゆかりがさんが僕の疲れを溶かす笑顔を向けてくれる。
「おかえりなさい。お仕事お疲れさまでした。今日は和樹さんの好きなおかずですよ」
「知ってるよ。トマト肉じゃがでしょう? 玄関の外まで出汁とトマトの酸味の香りが漂ってたからね」
「というか、“今日は”じゃなくて“今日も”お父さんの好きなおかず、だよね? まぁ、私も好きだけど」
「お父さんってお母さんの作るごはん全部好きだけど、トマト肉じゃがのときはいつもより食べるの早いよね。もしかして特別なお料理なの?」
子供たちにそこまで言われると、ゆかりさんは照れの混じるなんとも言えない微妙な顔をする。可愛いなあとその表情をひとしきり堪能して子供たちに目を向けると、キラキラと興味深そうな瞳。これは話さないといけないかな。苦笑しつつ答える。
「そうだね。トマト肉じゃがを初めて食べたとき、とても嬉しくてすごく感動して。絶対ゆかりさんと結婚する! って決めたんだ」
ビックリした表情でこちらを見ているゆかりさんがポツリ。
「……それ、初めて聞きました」
「僕も初めて言いました。ふふっ。続きは食べながらにしようか。いただきます」
「いただきます」
トマトとじゃがいもをまとめてばくり、と大きな一口で食べ、そのまま白飯も掻きこむ。ゆかりさんの料理は幸せの味だ。
最初の一口をじっくりと堪能してから、昔の話を始めた。
◇ ◇ ◇
「ん?」
ゆかりさんに会いたくて、なんとか時間を作った外回りの合間、午後になって顔を出した喫茶いしかわの店内はマダムで溢れかえっていた。
「あ! いらっしゃいませ、和樹さん」
「こんにちは、ゆかりさん。あの、いったいどうしたんですか? ずいぶんと出汁のいい香りがしますけど」
マダムが一際多い喫茶いしかわには、香水ではなく醤油出汁のいい香りが漂っている。
「あぁ、これですか。ちょっとお客様に美味しいおかずについて聞かれまして。香りの正体はこの、トマト肉じゃがです!」
小鉢に盛られたそれは、喫茶店で出すものとしては不自然極まりないものだ。本来ならそのことを突っ込むべきなのだろう。
しかし、ここは喫茶いしかわ。そのくらい普通の範疇に収まってしまいそうだ。しかも僕は生粋の和食好きである。出汁の効いた美味しそうなそれを見て、ゴクリと唾液を飲む。
「良かったら和樹さんもひと口どうですか?」
待ってました! ゆかりさんのひと声に飛びつきそうになるが、あくまで紳士的に……と注意を払い、にこりと笑って「いただきます」と答える。
「あ……美味い。ゆかりさん、これすごく美味しいです!」
思わず漏れた一言目をかき消すように、できるだけ穏やかにニコリとゆかりさんに微笑んで感想を伝えた。ああもう、この一言でパッと表情を華やがせるゆかりさんが可愛すぎる!
「本当ですか!? 嬉しいです。これ、私の夏の定番メニューなんです。普通に肉じゃがを作るまでは一緒なんですけどね、煮込む段階でトマトを乗せると、ほら! 洋風肉じゃがになるんですよ! トマトは美肌効果や夏バテ効果もありますし、夏にオススメの逸品です」
「なるほど。ゆかりさんって和食も得意なんですね」
「はい。あれ、和樹さんには言ってなかったですか? 私、大学で管理栄養士の資格を取ってるんですよ。料理の実習もあったので、料理はひと通り得意です。でも栄養学的に一汁三菜は基本なので、やっぱり和食が得意になってしまいました」
なんだと! 栄養士。一汁三菜。和食。素晴らしすぎる三拍子が揃っているじゃないか。
作りすぎたおかずをお裾分けと称してゆかりさんに食べてもらうことが何度もあった。食べているときの満足そうな顔がたまらなく可愛くて、何度でも見たかったから。
そして、『もう、和樹さんの作る料理が美味しすぎて、胃袋掴まれちゃいます! どうしてくれるんですか!?』と責められたことも何度もあった。あの美味しい顔が存分に見られるなら、胃袋を掴みたいと思ったこともある。
しかし、今は僕がゆかりさんに、胃袋どころか心を掴まれていた。出来ることなら僕の食生活を一生管理してほしい、そのためならばと決意を固めるくらいに。
「そうなんですね。やっぱりゆかりさんはいいお嫁さんになると思います」
「もう! そういうセリフは私なんかじゃなく彼女さんに言ってあげてください」
以前、褒め言葉としてゆかりさんに伝えた言葉。その時とはほんの少しだけ違った気持ちで言った言葉。苦笑混じりのゆかりさんの反応は、僕の心の中で小さな霞を生んだ。
まずは僕の気持ちを知ってもらうところからか。
長い道のりだが、負けてやる気はひとつもなかった。
はい。そうです。
お察しのとおり、回想でのこのふたりはまだ付き合ってすらおりません。この頃の和樹さんは、ようやく常連扱いされ始めたただのお客さんです。
おそらく本人の自覚より先に好意が駄々もれしてて、あまりの駄々もれ具合にノリの良すぎる常連の皆さまによって「見守り隊」「応援し隊」が既に結成されているパティーン(笑)