例えるなら、真空の檻で耳を塞いでいるような
彼女のそれを見た時、涙のダムが決壊したように泣き喚いた。全身の力が抜けてみっともない態勢で、彼女を見ていた。痛いということを痛いと認識すること、苦しいということを苦しいとして対処できることが当たり前ではないことを知った。
家庭教師のバイトを始めた。大学に入ってすぐだった。何とか目標の大学に滑り込むことができたものの、そこまで裕福な家庭ではなくだが奨学金を借りるのは嫌だった。借金に変わらない、未来を縛るものを作りたくなかった。
1人の生徒を週2で教えていくことになった。大学受験を控えているらしかった。研修を終えて初日、それはもう緊張した。その子の家は、ものすごく裕福に見えた。門の奥に広い庭(枯山水庭園のような)があってずっと進むと玄関が見えた。チャイムを押すとスーツを着た男性が出てきて、離れまで案内された。家の裏に位置するその離れの周りは庭の手入れがされていないようだった。離れに入る前にその男性は引き返していき、その離れの扉をノックした時、異臭に倒れかけた。逃げてしまいたくなった。嗅ぎなれない臭いが、微かにした。少しだけとわかるのに、それでも眩暈に襲われた。その時の僕は、何か自信があったのだろう。それは変な自信だった、どうにかなるとかそういった類の根拠のない自信だ。ドアを開けて息を止めて進んだ。生徒に会えば、何とかなると思った。5歩ほど廊下を進む、気が付いたのか奥から物音がして、廊下の先にあったその扉を開けた。
変な声が出た。その時の記憶は今も鮮明に残っている。
畳が赤黒く染まっていた。全面ではなく、少女がいるその周りだけ。いや、端までではないというだけでほとんどの畳が赤黒く汚れていた。それが異臭の原因であることを僕はすぐに理解した。血生臭い酷いにおいが、息を止めなくなった僕を襲った。
ぐちゃぐちゃの机の横で、体を投げ出したように倒れた少女に何とか声をかけた。長ズボンの裾、その奥から血が垂れて足を汚していた。
気が付いた彼女は大丈夫です貧血です、と言った。
異質すぎた。他の誰も呼ばなくていいという彼女は周囲の血塗れたタオルや包帯をどけ、大量の抹茶の飴ちゃんのゴミを片づけると、座布団を敷いた。
今日からよろしくお願いします、という彼女の声に頷くのに1分以上かかってしまった気がする。
見渡せる、認識できるそのすべてが理解の外だった。
僕は少女にそのまま、数学と英語を1時間ずつ教えた。正気ではなかったと思う。ただ、逃げだすこともできなかった。それは、理由のない自信のせいとも言えた。好奇心故でもあった。
終わった後、彼女はやっとその時には止まっていた血を汚れたタオルで拭った。うまく取れなかったらしく、お茶のペットボトルを傾けタオルに零し、足をまた拭った。
痛くないのと聞くと、彼女は痛くないよと答えた。不快になるかと聞かれて、心配になると返した。その時の彼女の表情は、きらきらとしていた。
離れを出る時やはり両親に話を伺わないといけない、そう正気を取り戻した僕は彼女に肩を叩かれた。
お母さんとお父さんのところには行かないで、と彼女は言った。
彼女の表情を見て、どうにもできなくなった僕は頷いた。そのまま帰宅した。
契約についての説明や書類を渡し忘れた僕は、その次の日に彼女の家を訪れた。前日、僕を案内した男性はそれを聞くと僕から書類を受け取った。仕方なく彼に説明をして、伝えてもらえるようにお願いした。本当はいけない、と思う。
次に彼女に会った時、離れは少しだけ片付いていた。そのせいで、授業中の彼女の何気ない行動に目が行くようになった。
喉を抓る。手首を引っ掻く。爪を猫のように机の角に立てる。
長袖の下に、酷い怪我とその分の包帯があることも察せた。彼女の動きが、仕草が、何かを気にしているようだった。腕まくりをしようとしてやめる。その瞬間、見えてしまう包帯についた血。
事情を知りたくなった。両親にも言えない。業務上、生徒に深く立ち入るのはいけない。それでもこれは異常だ。
彼女が学校に通っていないせいで勉強が遅れていることは初日に分かった。もちろんそんな状況で学校に行っているわけがない、というのもあるが彼女のことを教えてそれを勘づいたというのも大きかった。
彼女は別に勉強ができないわけではなかった。
その日は授業が終わってから離れで彼女と30分も話をした。世間話だった。聞かれることに答える、それに付随することを聞く。その繰り返しだった。
授業を繰り返す度にその異質な彼女との距離は縮まった。それは、変な距離の縮め方をしてしまった。僕は、彼女自身に興味がわいていた。
彼女は育児放棄をされているそんな状況だった。食事だけは父親の部下が持ってくる、お風呂やキッチン、洗濯機なんかは離れにもあって、一人暮らしの状態だった。
彼女が受験を迎える頃には僕はもう彼女が好きだったと思う。彼女がそうして、自分を傷つけることの理由だけは知らなくても、僕も彼女も週に2回の少しの時間で分かりあっていった。歪な関係だろう。
人は自分にないものを持つ人に惹かれる。
大学にはやっぱりそんな人はいなかった。彼女だけが僕にはないものをはっきりとして持っていた。それは探求心だったりするのかもしれない。
それでもその頃には彼女のことを生徒以上に見ていた。
それは、僕が家庭教師のバイトが初めてだったり、恋愛経験が1度くらいしかなかったりしたせいもあるかもしれない。近くにいる人を好きになりやすい傾向を知って、それでも僕は彼女が好きであると言い切れた。彼女を知って、救いたくなっていた。
その自傷のループから連れ出して、離れの外の世界を見せたくなった。
彼女は通信制の大学を受験、合格した。元々、僕は今まで遅れていた分を手助けするということだった。別に難しくなかった、合格すると思っていた。けれど嬉しかった。嬉しくてたまらなかった。
大学2年になった僕は、彼女の先生ではなくなったと同時にバイトを辞めた。彼女とはそれでも連絡を取っていた。彼女に自分の気持ちを伝えようとは思わなかった。彼女がこれから少しでも何かを見ていってくれるならいいと思えた。
彼女にもう一度会ったのは、大学3年の秋だった。まだ夏休みが終わらない間に、彼女からの連絡が1ヵ月途絶え、心配した僕は一度もかけたことのなかった彼女の携帯に電話をかけた。それまでの文の中の彼女は、とても楽しそうだった。だから余計に心配だった。通信制の大学に通いつつ、たまに外に出ているらしい彼女に何かあったなんてことは考えにくいのに、どうしてもその不安は募るばかりだった。
電話に出た彼女は、何も言わず僕の電話を切った。その1分後、メールが届いた。ホテルの場所、らしかった。
何も知らない、彼女の大事な部分を知らない僕は、それでも急いでホテルに向かった。大事なものを知らなくても、それ以外を知っていればそれは8割彼女を知っているのと同じだと認識していた。
踏み込むのがいつしか、怖くなっていたことは否定できない。
小さなビジネスホテルのフロントには電話があったらしく、僕は用事の為に部屋に呼ばれたことになっていた。部屋をノックする。ガチャリと空いて、彼女の顔を見る。
酷い顔色をしていた。
ホテルのその1室はあの離れのようにはなっていなかった。その代わり、彼女の首には縄の後がついていた。
部屋のドアが閉まると同時に僕の体から力が抜けた。訳も分からず、ひたすらに泣いた。迷惑かもしれないくらいに泣いた。止まらなかった。泣くことしかできなかった。泣くことでしか今の現実に抗議する術を持っていなかった。心臓が壊れたようだった。それは初めて彼女に会った日に見たあの赤黒いものと混ざって見えてきて、彼女が生きていることを認識したくてたまらなくなった。無理やり水の中に沈められたようだった。足をばたつかせるように彼女にしがみついた。彼女は僕を抱きしめて、痛いのかと聞いた。痛そうなのは彼女の方だった。呼吸がままならない僕を僕より苦しそうな彼女は抱きしめて、先生ありがとうと言った。
彼女は、彼女の父親の子を孕んでいた。
その性暴力は中学受験に失敗した時から続いていると彼女は言った。今まで2回も子供を下ろしているとも言った。最初は、体が傷だらけになれば父親も手を出してこなくなるのではと思ったらしい。
でもお構いなし、だった。
彼女の自傷はエスカレート、感覚を失くしていった彼女はその行為自体に依存するようになった。
撫でて、という彼女の頭を撫でながら僕は聞いた。彼女の話、その彼女の大事な部分を知った。彼女は、死にたいという感情を持ち合わせることすら許されず、依存したままに自傷を繰り返す。
彼女は何度かトイレに駆け込み、吐いた。妊娠初期の症状だろうと見て取れた。
誰かに言わないと、何とかしないと、そう僕は彼女に訴えた。彼女にはまるで聞こえていないようだった。異常だ、それを受け入れてはいけないと言っても、彼女は理解できないというような顔をした。
先生に会いたくておでかけしたのと彼女は笑った。明日には帰るの、と。
彼女の首の跡は、何のためについたのだろう。最初、感じた異常は大きなものだった。僕は未知のものに取り込まれるように、恐怖を知ろうとするように、飲み込まれていただけだった。
好きだとかそういう気持ちをどうしていいかわからなかった。それから何を言っても、彼女は同意を示さなかった。先生とメールができるだけで、いいと言った。
彼女は欠けすぎていた。望むことすら、普通すら、当たり前すら。
それから彼女は耳を塞ぐような態勢で眠った。
僕の手は彼女に、触れられなかった。声すらも届かない。空気がなくて息ができないような彼女に、僕がまるで何もできないように。