セレナーデを錆びた弦でしか弾けない
ただ今日という1日を始める気がどうしても起きないまま、ベッドに引きこもっていた。気づけば窓の奥が真っ黒な幕を下ろしている。
彼女との恋愛がうまくいかなかったのは、彼女のせいでは一切ない。俺が別れを告げたわけだけれども。それでも、彼女の非はきっとほとんどない。
それでもこの終わりに納得できているから、こんなにやるせない気持ちになっている。
音楽で飯を食っていきたいと言いながら、去年バンドが解散してからは何もしていない。曲も作っていないし、ギターさえ半年は触っていないと思う。苦味ばかりしか感じられない味覚に喘いで、感性を磨いているフリで自分を誤魔化している。
彼女はそれには気づいていなかったようだった。
しかし、同棲していれば相手の時間の使い方の変化には気が付いてしまう。それを見なかったことにできないくらいには彼女にとって俺は特別で、俺は自己愛の方が深かった。
ここまで来て、自覚もできてきた。
ガキが語るような浅いばかりの夢を、父に蔑まれ否定され、母に半ば道楽にされてきた。当たり前とか執着だとか言われれば噛みつくことしかできない。縋るようにではなく形だけでも音楽に純粋に向き合おうとできた頃にはもう大人になっていた。それを、勝手に恨んで勝手に根に持って、勝手に許していた。
そうして許せなくなっていって、両親とは疎遠になった。ついでに弟とも。
その流れで音楽とは関係ない友人とも、疎遠になった。今までの恋愛も、そういう風に壊れていった。
今回は、違った。俺の琴線に触れるようなことはしない人だった。2つ下なのに今まで付き合ったどんな女よりも固まった価値観をしていた。凝り固まったという意味ではなく、形作り固めたような価値観だった。
居心地がよかった。楽だった。
けれど、感性が合わなかった。彼女はどこまでも、合理的だった。俺みたいな雨の日の後に残った水溜まりのような感性ではなく、雨の日の後に何もなかったように乾くコンクリートのようなソレだった。
俺と彼女の感性の違いは彼女も感じていたようで、俺たちは映画やアニメ、小説や漫画の話を共有することはなかった。もちろん、音楽もそうだった。
稀に、俺の作った音楽を聴いて俺のライブに来てくれた。彼女はいつでも一言だけで俺の音楽を褒めてくれた。
拗らせているのはわかっている。思い知るような瞬間がここまで生きてきてたくさんあったから。口の中に苦味が残っている。
いい音楽よりも嫌な言葉の方を耳に残す自分が本当に嫌だった。
ベランダに出ると小雨が降っていた。部屋には戻らず、やめられなくなったタバコに火をつける。
煙が揺れる。
あんなにも愛されていて、彼女との生活は穏やかで、心地よかった。
記念日に訪れたレストラン。そこに来るのは2度目だった。ただ1度目との違いがそこにあった。
「ねぇ、こんな日だから言うんだけど」
こんな日だから言わないでほしかった。
「結婚って考えてる? 就職とか、さ。今、生活費の割り勘だってそっちはギリギリでしょ?」
食後に追加注文したケーキはすでに食べきってしまっていた。カッコつけて頼んだワインも飲み干してしまっていた。酔いは回っていなかった。
「考えてない。今のところ、就職も結婚も」
「それは、私との結婚をって意味?」
「違う、誰とも結婚する気はない」
「今のところ?」
「今のところ、でもこの考えが変わる気はしない」
「就職もしないの? あの居酒屋でバイトしてるだけじゃしんどいでしょ」
「たまにライブのヘルプも行ってる、友達のブランドのモデルもたまにやってる」
「たまにでしょ」
彼女はその現状に満足してはないのだろう、と諭している。わかっている。首を絞めるばかりのこの日々から抜け出して、楽になれと言っている。
「おじさんの会社ちょっと人手が足りないの。和歌山にある」
「あぁ、前言ってた人?」
「そう、私そこに行こうと思う。ヒロも一緒に来てほしいなって思ってる」
率直な言い方がいつも心地よかった。もう付き合って3年になるのか。
「和歌山かあ、東京からそっちまではどれくらいかかるんだろ」
「ヒロ」
逃げるな、と叫ばれている気分だ。伝わっている。それくらいはわかるほど一緒にいたから。
「私はね、結婚して子供がほしいって思ってる。そういうドラマに出てくる表現に遠くない家庭を築きたい。そういう幸せがいいなって思ってる」
「そっか」
「苦しいよ、そうやって生きてると」
「苦しそうに見える?」
「うん、見える。妥協ラインの幸せを手に入れて満足してみない?」
真面目な女だ。母には似ても似つかない。いや、比べるだけで失礼だ。今、付き合っていたのがこの人でよかったなんて、頭の隅で思った。
「ごめん、別れようか」
「何でそうなるの」
「結婚して子供作るのが俺にとって幸せじゃないからかな」
「私を、幸せにしようって思ってくれないの」
「春乃の幸せを俺の幸せにすることは、できないかな」
それは春乃のことを幸せにすることが俺にとって他が要らないほどの幸せというわけではないことを示していた。
「私の幸せを理解してもらえれば、共感してもらえればって思って話した」
「うん」
「そうしたら、ちょっとは楽にしてあげられるんじゃないかって」
伝票を手に取り、席を立つ。
「楽になりたいわけじゃない」
そう言った。自分でも驚くほど、冷たい声音だった。
「帰ろう」
掠れた声だった。彼女への愛情を絞りきってしまったようだった。
家に着いた俺たちは夜な夜な話し合った。彼女は怒ったり泣いたりしたけれど、俺はそのどれもできなかった。彼女の方がきっと大人に分類されて、俺はまだ子供に仕分けられるのだろう。そんなしょうもないことを考えながら、俺は彼女の話のほとんどを聞き流した。
穏便に別れたかった。
俺の態度に観念した彼女は、翌日に荷物をまとめて出て行った。俺の家に彼女が引っ越してきた形ではあったが、1日で終わるなんて思わなかった。
こうなることを想像していなかったわけではないのだろうなと思った。
「音楽を仕事にする夢、もう追ってないくせに!」
話し合いが喧嘩のようになっていく最中、彼女に言われた。その通りだった。言わせてしまったとも思ったし、聞いてしまったとも思った。
「でも追いたいよ、春乃の言う普遍的な幸せよりも」
そう言い放って会話を終わらせた。
普通の幸せなんかを受け入れられないのは彼女にも伝わっていたと思う。きっと、彼女についていったとしたらそれが受け入れられるその日まで、俺の葛藤に付き合ってもくれたのだろう。
一緒にいられたなら、どれだけよかっただろうか。それでも、音楽は俺のすべてだった。俺にとってのすべてにしてしまったから今更、切り離せない。
自分でさえ耳障りでも、呼吸する酸素よりも歌声を震わせる酸素の方を優先してしまう。
別れ際、彼女は言い放った。
「好きじゃなかったの?」
言い返したかったが、飲み込んだ。
タバコを吸い終わると雨が止んだ。雨で少しだけ濡れたベランダから月を見上げる。
「今、無性に作りたい曲はどうしたって失恋ソングなのに」
そう呟きながら部屋にあるギターを弾く自分を想像する。それを見守ってくれていたはずの彼女のこともまだ思い出せた。
けれどきっと、そのギターの弦は錆びたままなのだ。
替えの利かない錆びついた弦で、怪我をする。痛い思いをしながら、それをやめられない。
去年書いたものの上げるのを忘れていたのでUP




