綺麗な君にほど遠い
「ごめん、これも消毒しとくね」
小さく震える背中を抱き寄せることすらできない。彼女は違うと分かっているのに、体は酷く我儘に反応する。彼女の髪の毛や肌は平気でも、その服についた見えない汚れは許容できない。
潔癖症の原因は中学時代のいじめだった。今はもうほとんど克服しているはずなのに、治る気配はない。親の趣味がサッカーだった俺は、その影響で小さい頃からサッカークラブに通っていた。クラブは小学校を卒業するときにやめてしまったが、俺はそのまま何となくサッカー部を選んだ。
最初は人気者だった。1年生の中で誰よりも俺はサッカーがうまかった。それも束の間、梅雨の時期に差し掛かる頃に俺は先輩に目を付けられた。雨の日はグラウンドが使えない。だから練習時間の殆どがトレーニングメニューに充てられる。階段ダッシュを繰り返す中、ベンチの先輩に背中を押された。雨で少し湿った下りの階段、開けられた空間。
幸いそこまでの怪我にはならなかったが、俺は足を骨折した。
練習に参加できなくなった俺を顧問の先生は励ました。きっとお前なら大丈夫だと、言ってくれた。その優しさはどんな生徒にでもあるわけではなく、成績優秀で有望な俺に対してだけだった。
いじめが始まったのはそれからだった。
友人は止めに入ってはくれなかった。どんどん内容はエスカレートしていった。無視から始まって、それから靴を隠されるようになった。制服を溝に捨てられたこともあった。殴られて顔を足蹴にされたこともあった。
ある日、体を抑えつけられた俺は口に虫の死骸をねじ込まれた。飲み込んではまた次のものを口に入れられ、吐くと地面の土ごと食べさせられた。
その日からだった。
同級生が笑い話をするときに出る唾、すれ違って当たる他人の肩、先生が触ったノートやプリント。何もかもが触れなくなった。体が震えて、やがて嘔吐するようになった。
両親の反対を押し切って高校卒業後すぐに一人暮らしをはじめた。大学にはもちろん進学しなかった。通信制高校を選んだのに、それでも1年留年した。必要なテストに出席することすら俺はまともにできなくなっていた。
会社ではアルコールを小分けにしたものを持参、帰ってきたらすぐに服は洗濯、できるだけ家に物を持ち帰らないようにすることでなんとか耐え忍んだ。
もう、まともに生きていけないことはずっと前から悟っていた。
「すきです」
人に不快感を与え、自分を守ることだけに日々尽力してきた俺に提携会社の受付の女性はそう言った。
断れなかった。すごく、いい人だなと思っていたから。
それなのに握手すらできなかった。
付き合って半年もすれば、普通のカップルはもういろんなイベントを済ませてしまうだろう。それほどに親密になれる時間で、俺たちは未だまともに手をつないだことすらない。
彼女はデートのたびにビニール手袋を持参した。清潔感のある服装と髪型で、香水はつけない。俺の持ち物にはできるだけ触れないようにしていた。
俺のどこがいいんだと、何度も問い詰めたくなった。過去にハグすらもできないことを詫びた時、彼女はレイプ経験があってきっと自分が綺麗じゃないからいけないのだと言った。誤魔化すように笑う笑顔が、俺の心臓を苦しくさせた。
本当は先月から彼女の私物に触れるのは平気だった。本当は彼女の髪にも少しなら触れる。眠っている時に頭を撫でたときは本当に平気だった。
ただ、それ以上はできない。俺は彼女との不意な接触の度に嘔吐した。
せっかく同じ部屋で過ごせるようになっても、俺と彼女の距離は縮まらない。
俺が不快にならない1メートルを保って、彼女はずっと遠くに居る。
きっと俺の方が汚いのだと、心の中では思っていた。彼女はどうしても綺麗な人だと行動で伝えたかった。
俺の家へ来るたびに持参する座布団とゴミ袋、アルコールで荒れた手、数種類の消毒液と雑巾。
「じゃあまた来るね、おやすみ」
俺なんて、綺麗な君にほど遠い。