君はきっと僕のことを勘違いしている。
あの頃はよかったのにね、と最後に言った彼女が座っていた椅子だけだった。今やこの家から彼女がいたほかの証拠はすべて逃げていってしまった。彼女が家を出た後の洗面所に一本落ちた長い髪の毛も、風呂場の女性もののシャンプーも、プレゼントしたマグカップさえない。一緒に使っていたお揃いのクッションも、お気に入りだと言っていたブランケットも、この前のゴミの日に捨ててしまった。
「わかんない、それくらいのことじゃん」
僕は僕のこだわりを理解されなかったから怒ったのではなかった。そんなことはどうでもよくなっていた。一緒に悩んで買ったのに、元々あったテーブルにはあまり合わなかった椅子に座り、顔を付き合わせて声を荒げ話し合う。それくらいには重要だった。
今まで我慢していたいくつものことをきっと彼女は気にも留めていない。僕は、一度でいいから僕の我儘を聞いてほしいというそれだけだった。
「あの時はよかったのに、明日の飲み会はどうしてだめなの?」
事の発端は本当にそれだけだった。君曰く、怖いくらいに大人しく犬のように従順な僕が怒ったのは君との4年間の付き合いではじめてだった。
けれど、最初から僕は優先されたかった。
君は僕のことをきっと勘違いしていたのだと、思う。思った。気づいていた。けれど僕が何にも怯えず、ここで何かが言えていてもきっと変わらなかったと思う。
「ねぇ、別にやましいことはないって言ってるし、なんでなの?」
苛立ちを隠さない君にやましいことがあるのかないのかなんてどうでもいい。
「今月、僕らは付き合って4年になるんだよ」
僕が言えたのはそれくらいだった。
「記念日は明日じゃないじゃん、何言ってんの?」
違う、そうじゃない。4年になるのだ、我儘の1つくらい聞いてほしい。それだけなのに。嫉妬の一つだった。ただ、直接的には言えなかった。
ただ、今とは違う形になりたかった。
「はぁ」
そのため息を皮切りに、僕らの溝はずーっと広がっていった。
突然、ルールが変えることはいけないことだろうか。許したわけではなくて言えなかっただけだった。雨の日には車を出して迎えに行ったときはめんどうだったし、デートの日程がズレだって君を内心疑うくらいには怒っていた、変に当てられたときは悲しかったし腹立った、あの日の飲み会も、先月の夜遅くの友達との映画も本当は嫌だった。君はきっと、よく言うことを聞く扱いやすくて優しい男だと思っていただろうな。
君の言うことをすべて聞いていたのは好きだったからだった。
君の言うことの1つくらいを聞きたくなくなったのは、好きになってほしいと思うくらいに好きになったからだった。
女々しいだろう、笑われるかもしれない。性別の前に、人間だから。人間として、君が好きだった。
どんなことも許してあげたかった。優しくしたかった。障害になんてなりたくなかった。そのすべてが、僕もそうしたいと思えるものならよかったのに。
「嫌いになったの」
という君に、僕はもはや何も言えなかった。お前の方だろ、と怒鳴ってしまいそうだった。君の中で僕がいい男でいられたら、それでいいやなんて諦めた。
どんなことも我慢して、君のいうことのすべてを正しいことにして、そうして僕が君に合わせて好かれることは僕が好かれているということではないと知っていたから。
こんなに感情的で、どうしようもない男だと君はきっと知らなかっただろう。そうではない僕を好きだったのだろう。わからないのではない、わかったところで君にはきっと何の得もないからわかろうとしないのだ。
ごめん、僕はそんなにきれいな人間じゃないよ。
嫉妬の一つくらい、したかった。それだけで駄々をこねるくらいに僕らは似た者同士で、それが言える君と言えない僕という違いがここにあった。
お久しぶりです30分短編クッキングで作りました。読んでいただけで幸いです。




