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セーヌ河決壊 -再び最上階へ-

「しっかし、いつやむんだ、この雨・・・。

かれこれ十日は降ってるな。」

空を見上げたアンリが呆れたように首を振った。

年が明けて一月の半ば過ぎからパリでは雨が降り続いていた。

「この時期って、こんなに雨多いんですか?」

康之もカウンターから出てアンリと並んで雨に煙る通りに目を向ける。

「いや、こんなの珍しいよ。まったくこの降りじゃ商売あがったりだ。」

通りから客のまばらな店の中に視線を移してアンリが康之にボヤいていると、カロリーヌが不安げな表情を浮かべて店に下り来た。

足早に入口まで行くと心配そうに外の通りを見つめる。

「どうした、カロリーヌ?」

アンリに声をかけられて振り返ったカロリーヌは、祈るように両手を胸の前で握っていた。

「ロジェがまだ学校から帰ってないのよ。普段なら、もうとっくに戻ってる時間なのに・・・」

壁掛時計を見ると、もう既に夕方に近い時間になっている。

「雨足が強くなってきたから、きっとどっかで雨宿りでもしてるんだろうよ。

そう心配しなくても大丈夫だ。」

「・・・それならいいんだけど。」

カロリーヌはそう言って、再びロジェの姿を探すかのように外の通りに目を向けた。

「店もひまだし、俺、ちょっと様子見てきますよ。」

店内を見回した康之は二人に声をかけると傘をつかんで通りに飛び出した。


ロジェが通う学校はセーヌを渡った向こう右岸にある。

シテ島へ渡る橋のたもとで流れを見下ろした康之は水位の高さと水の流れの勢いに目を見張った。

セーヌに浮かぶサン・ルイ島とシテ島の二つの島が流れを二つに分け、水流をきつくするのだろう。

唖然として流れを見つめていた康之が顔を上げると、血相を変えたロジェが橋を渡って走って来るのが目に入った。

「ロジェーっ! どうしたんだ、傘もささないで?」

康之が大声をあげる。

「あっ、お兄ちゃん!」

ロジェはセーヌの対岸を指差すと康之に叫んだ。

「お兄ちゃん、友達が、ロランがセーヌに落ちて流されてるんだ!」

「な、なにーっ!」

「傘が風で飛ばされて・・・それを取りに河川敷に下りたんだ。そしたら・・・」

ロジェが康之に飛び付いて顔を見上げてくる。

「どっちだ!」

降り続ける雨の中、二人はノートルダム大聖堂の前を突っ切りセーヌの右岸に向けて走った。

〝こんな真冬に河に落ちたんじゃ溺れる前に凍えちまうぞ・・・〟

右岸に出た二人は左に折れて下流に向かう。

「あっ、いた! あそこ。」

ロジェが指差す先に目を凝らすと、確かに浮き沈みを繰り返しながら、危険なほど増水したセーヌを流されていく人影のようなものが目に入った。

「長い棒かなんかないかな・・・」

雨の中を走りながらロジェがあたりを見回し、河川敷に降りようとする。

「だめだ、ロジェ! 危ない。降りるんじゃない。」

康之がセーヌに流されていくロランから目を離さずにロジェに叫ぶ。

必死で雨の中を走り、流されているロランを追い抜いた時、康之が再びロジェに叫んだ。

「ロジェ、俺が飛び込んで岸に引きずり上げる。お前はこのまま走って俺たちについて来てくれ。

もし、誰か大人がいたら手を貸してくれるように頼むんだ。」

「だって、お兄ちゃん、誰もいないよ!」

降りしきる雨に目を瞬かせながらロジェが康之に叫ぶ。

確かにロジェの言うとおり、土砂降りの雨の中、人の姿は見当たらなかった。

「だから、もし、誰かいたらでいい! いいか、ロジェ、頼んだぞ。」

そう言って康之は河川敷に飛び降り、上半身裸になると、意を決して一月末の凍るような水に飛び込んだ。

その時、セーヌの対岸から水が街に溢れ出した。


街に溢れ出した水が完全に引くまでには、それから三十五日を要した。

十日以上も降り続いた雨がセーヌ河上流のダムを決壊させ、その水が辺りの村々を飲み込みながらパリにまで押し寄せたのが原因だった。

康之にセーヌから助け出されたロランは、康之とロジェによってひとまず〈アンリの店〉に担ぎ込まれた。

駆けつけた医師による診察が行われた結果、わずかに外傷がある程度で身体に異常はないとの診断が下された。

セーヌ河岸にロランを引きずり上げた直後に康之が施した人工呼吸などの処置が功を奏したのだった。

とにかく身体を暖めろという医師の指示でカロリーヌがバスタブに湯を張る。

ぐったりしているロランに康之とアンリが二人がかりでバスを使わせ、その間にロジェがロランの家に報せに走った。

報せを聞いて駆けつけた母親は真っ青な顔で若い家政婦にだき抱えられるようにしながも、康之の手を握りしめて何度も何度も礼を言った。

そしてロランが横になっている康之の部屋へ様子を見に行って戻ると、少しだけ安心した表情を取り戻して再び康之の手を取った。

「息子の命を救っていただいて、なんとお礼を申し上げていいのか分かりません。

本当にありがとうございました。

その上、できるだけ安静にというお医者様のご指示があったとは言え、お部屋のベッドまで占領してしまうことになり、重ね重ねご迷惑をおかけすることになってしまいました。

本当に申し訳ありません。

明日の朝迎えに参りますので今晩一晩、どうかよろしくお願いいたします。

今、主人が仕事で外国に出ておりますので、すぐに連絡をして、戻りましたら改めてお礼に参ります。本当にありがとうございました。」

母親は康之にそう言って深々と頭を下げた。

「ソフィー、本当に良かった・・・ロランが無事で・・・」

カロリーヌがロランの母親に声をかける。

「ああ、カロリーヌ。ありがとう、本当にありがとう。あの子までいなくなってしまったら、私・・・」

ソフィーはカロリーヌに抱きつくと、顔を埋めて嗚咽を漏らした。


「なあ、ロジェ。聞きたいとこがあるんだけどさ・・・。」

その晩、康之はロジェの部屋で床に敷いたラグマットの上で毛布にくるまっていた。

「う~んzzz…、聞きたいことって・・・?」

ベッドの上から眠たそうなロジェの声が返ってくる。

「ロランってさ、どこの子なんだ? 兄弟とかいるのかな?」

「○¥■△@・・?♯〒※・・/zz(-_-)゜zzz….」

〝だめだ、なに言ってんだか分かんねえ・・・寝ちまったか。

しかし、誰だったっけ・・・ロランとそっくりな坊主、どっかで会ってるんだよなあ~〟しばらくの間、首を捻っていた康之も疲れが出たのか、そのままコトンと眠りに落ちた。


ロランの家の使用人に案内されて着いたのは、康之たちがこの時代にタイムスリップしてきた建物だった。

一階の本屋はここの主人が知人に頼まれて貸しているのだと案内してきた使用人は言った。

唖然として建物を見上げる康之を促して、使用人は康之たちを中に案内した。

大雨で増水したセーヌから息子が康之によって救出されたとの報せを受けたロランの父親は急遽仕事先から帰国、康之とアンリ家の家族にお礼をと、自宅での晩餐に招待したのだった。

康之たちが居間に通されると、既にロランの家族はそこで康之たちを待っていた。

ロランの父親は康之を一目みるなり、康之の前に歩み出て深々と頭を下げた。

そして両手で康之の手を握ると、ロランを命懸けで助けてくれた事、また今日の招待に応じてくれた事に対して礼を言った。

彼は康之にヴィクトル・ブノアと自ら名を名乗り、貿易商をしているのだと自己紹介をした。

その後、顔見知りであるらしいアンリ家の家族に丁寧に礼を言って廻る。

ロランの家はアンリ家と同じ夫婦と息子一人の三人家族のようだった。

晩餐が進んでくるとアンリとヴィクトルは、このところ、きな臭くなってきているバルカン半島の情勢やそれがフランスにどんな影響を及ぼす事になるのかなど、自国を取り巻く国際情勢の話に余念がない。

〝そうか、バルカン半島・・・ヨーロッパの火薬庫だ。

いま、オーストリアとセルビアがもめてる真っ最中か・・・

えっ、ちょっと待て! 第一次世界大戦って1914年に始まるんだよな・・・。

それが終わると今度は1939年から第二次世界大戦だ。

・・・これからそれが始まるんだ。〟

その時、康之の脳裏には笑顔で微笑むシモーヌの姿が浮かでいた。


「ソフィー、心配だろうけど気を落としちゃだめよ。

・・・きっと戻って来るわよ。」

「・・・ありがとう、カロリーヌ。」

ロランの母親のすすり泣く声が康之の思考を中断させた。

〝きっと戻って来るって、なんの話・・・?〟

康之はカロリーヌとソフィーの会話にこっそりと聞き耳を立てた。

「でも、ジュリアンがいなくなってから、もう四ケ月も経つの・・・ああっ・・・あの子、いったいどこにいるのかしら・・・」

ソフィーはそう言うと、下を向いてハンカチで目頭を押さえた。

妻の様子に気付いたヴィクトルが彼女の背後に廻り、いたわるように背中をさする。

そして康之たちに顔を向けると静かに話を始めた。

「・・・ジュリアンが十月に行方不明になった時、私たちは誘拐されたのではないかと思いました。

しかし、それならそれで犯人から何らかの連絡があるはずなんですが、未だにそれがない・・・。

もちろん警察をはじめ、いろいろな方面に捜索をお願いしました。

セーヌを捜索してもらったり、子供が入り込みそうな様々な場所・・・

学校や教会の周辺、建物の地下や床下、果ては地下の排水口まで捜索してもらったんです。

・・・しかし息子は見つからなかった。

あの日、息子はこの家からこつ然と消えた。

・・・四ヶ月経ちます・・・でも、私は信じています・・・必ず息子は帰って来ると・・・」

ヴイクトルはそう言うと、自分を下から見上げる妻にそっと頷いた。

〝四ヶ月前って、俺がこっちに来る少し前ってこと・・・ジュリアンってロランの兄弟?

この家からこつ然と消えた・・・?〟

康之が隣に座ったロジェに目を向けると、それに気付いたロジェがそっと康之の耳に顔を寄せる。

「ジュリアンってロランのお兄ちゃん。ロランたちは双子の兄弟なんだ。」

「ロランって双子なのか・・・」

正面のロランに目を向けると、顔を上げたロランとまともに視線がぶつかって、康之は息を呑んだ。

〝あっ、あいつだ。あいつに似てるんだ! 

タイムスリップする前にホテルで・・・ってか、ここの最上階であったあの坊主!

じっと自分を見つめる康之に気付いてロランがうろたえたように目を泳がせた。

〝んっ・・・ひょっとして、なにか知ってる・・・?〟

突然、ヴィクトルが場の空気を変えようと陽気な声を上げた。

「あっ、いや・・・申し訳ありません。

ご招待しておきながら、このような席で身内の話になってしまいました。

ロランを助けてもらったお礼の席にも関わらず・・・大変失礼しました。

さあ、皆さんチーズはいかがですか。それともデザートになさいますか? 

アンリ、ヤン。とっておきのコニャックがあるんだ。試してみるだろう?」

デザートが準備される間、康之とアンリはヴィクトルに誘われてスモーキング・ルームに移った。

カードゲーム用のテーブルを囲むように、落ち着いた調度が並んだその部屋で三人がヴィクトルが準備した葉巻を手にコニャックを味わう。

しかし康之はロランと現在行方不明だというジュリアンのことが気になって会話すら上の空だった。

「ヤンは日本からきた学生なんだってね。家内から聞いたよ。

どんな学問を専攻しているんだい?」

「えっ? ああっ、建築を勉強しています。西洋建築です。

日本にも、この館のような立派な建物を建ててみたいと思っています。」

この建物を調べる口実を探していた康之はヴイクトルの質問に咄嗟にそう答えた。

「おおっ、素晴らしい。僕もね十年前にここで開かれた万国博覧会に行って日本のパビリオンを見てきたんだ。五重の塔・・・あれには感動したよ。

ああいう建物を建てる日本人がこの国の建物に興味を持ってくれるなんて本当に光栄だね。」

それを聞いた康之がすかさず口を開く。

「実は、お願いがあります。この建物を調べさせて頂きたいんです。

躯体構造の特長などを是非調べてみたいんです。」

「なんだ、お安い御用だよ。

実は息子の命を救ってもらったお礼と言っちゃなんだけど、君がこの国にいるあいだ、私にできることなら、なんでもお手伝いさせてもらうつもりでいたんだ。

遠慮しないで好きな時に来て思う存分調べていいよ。

他にも、なにかあったら遠慮しないで言ってくれよ。」

「ありがとうございます。お言葉に甘えてまたお邪魔させて頂きます。」

康之は笑顔を浮かべてヴィクトルの手を握った。


翌日の朝、康之はベルニエ・パン店にとんで行った。

自分たちがタイムスリップした建物を調べることができるようになったという報せをシモーヌに一刻も早く届けたかったのだ。

康之の話を聞いたシモーヌはちょっとだけ寂しそうな表情を浮かべたが、それを振り払うように康之に飛びつくと、両方の手のひらで康之の顔をはさむようにして口づけをした。

「よかった、本当によかった。ヤンなら絶対にあの建物の秘密を見つけられると思う。

私にもお手伝いさせて。」

少しだけ涙に潤んだ目で康之を見つめると、シモーヌは花が咲いたような笑顔を浮かべた。「ああ、もちろんだよシモーヌ。がんばって秘密を解明しよう。僕の仲間たちのためにも。」康之は力一杯シモーヌを抱きしめた。

しかしその時、康之の頭をよぎったのは、昨日アンリとヴィクトルの話を聞いて脳裏に浮かんだ二つの世界大戦とシモーヌの笑顔だった。


「アラン、ちょっといいかな?」

恭一は康之に頷くと康之を促して足早に売り場を離れた。

「どうした、そんなに息切らして。なにかあったのかい?」

「ええ、荒川さんに早く報告したかったもんだから。」

康之はそう切り出すと、勢い込んで話を始めた。

「僕たちがタイムスリップした建物、いまはホテルじゃないから調べようにも手が出せなかったじゃないですか。あそこ、入り込めるようになりましたよ!」

「えっ、本当かい!」

「ええっ。実は・・・」

康之はこうなった経緯を恭一に伝えた。

「そりゃビッグニュースだ。

・・・それにしても、あの日セーヌに飛び込んだのかい・・・すごいな、君は!」

しきりに感心していた恭一が突然思案げに腕を組む。

「しかしなあ・・・建物の研究か・・・そういう話の展開だと、僕たち全員で押しかけるってわけにもいかないだろうな・・・」

「僕もそう思います。初めのうちは僕が調べて、状況はその都度荒川さんに報告します。

そしてなにか手掛かりがつかめたら、みんなで行ってみるってことでどうでしょう?

それでその時、荒川さんが教官で、ギルとクラウスは同級生だってことで先方に紹介しちぇばいいんじゃないかな。」

「そうだな、そうしよう。ギルとクラウスにもすぐに伝えておくよ。彼ら、きっと喜ぶぞ!」


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