仲間たち
康之が初めての休暇を取った日の朝、ロジェは具合が悪いと言って朝食に降りてこなかった。
「熱があるわけでもないのに、なんだか起きられないって言うのよ。」
ロジェの様子を見に行ったカロリーヌが困惑した顔でつぶやく。
「そう心配しなくても大丈夫だろ。疲れが出たんだよ。
あいつ、ここんとこずいぶんがんばって店の手伝いしてたからな。
今日は学校休ませて、一日寝かしときな。すぐ元気になるさ。」
アンリは、あっさりそう言うと新聞に目を落とした。
〝あちゃ~っ。あいつホントに学校休む気なの・・・
昨日の晩、俺の部屋に来て、俺が明日休みなら、僕も学校休むって言ってたけど・・・
ホントに実行しちゃうわけ。
それ、まずいんじゃないの・・・?〟
康之は後で様子を見に行ってみようと思いながらカフェ・オ・レのカップに手を伸ばした。
「おい、ロジェ。どうした? 具合が悪いんだって?」
ロジェの部屋に康之が入って行くと、ベッドにはね起きたロジェは元気バリバリの笑顔を浮かべた。
十二月には珍しい晴れた青空が広がり、ロジェのベッドには明るい光が溢れている。
「あらっ、お前、具合は・・・?」
「なに言ってんのさ、具合なんて悪いわけないじゃない。
ああいう風にでも言わなきゃ、学校休めないよ。
今日は一緒に遊びに行こうって、昨日約束したじゃない。」
「ええーっ、約束・・・したっけ?」
「したじゃないか。ヤンはパリが初めてだから僕が案内してあげるって。」
「いや、それはうれしいんだけど・・・なにも学校まで休まなくっても・・・」
「お兄ちゃんね、パリは広いんだよ。学校に行ってたら出発するの遅くなっちゃうよ。
お兄ちゃんは、ここの近所しか知らないでしょ。
でも行っておいた方がいいことって結構あるからね。」
「あ、ああ・・・それはどうも・・・。」
「でも、もう少し待ってて。あんまり早く下に降りると、学校行きなさいって言われそうだから。」
「あら、ロジェ・・・寝てなくちゃダメじゃない。」
学校の始業時間が充分に過ぎた頃を見計らってロジェが下へ降りていくと、台所ではカロリーヌが朝食の後かたづけをしていた。
「う、うん、ずいぶん良くなったみたいなんだ・・・。
ねえ、お母さん。もう少し良くなったら、ヤンと二人で散歩に行ってもいい・・・?」
「なに言ってるのよ。学校だって休んだんだから今日は家で大人しくしてなさい。」
「う、うん・・・でも、今日はすっごくいいお天気だから、あの・・・
そっ、そうだ、先生もお日様にあたると、じょうぶな身体になるって言ってたし。
それに・・・今日はヤンだってお休みなんでしょ?」
ロジェの言葉を聞いて、カロリーヌが片眉を吊り上げる。
「あなた、ひょっとしてズル休み?」
「あっ、いやっ、あの・・・決して、そういうわけじゃなくて・・・なんて言うか・・・」
口元を引きつらせてシドロモドロになったロジェの声が静かな台所に虚しく響いた。
カロリーヌが能面のような顔をロジェに向ける。
「図星でしょ?」
「いや、だから・・・あの・・・」
急に笑い声があがった。
「それなら、初めっからそう言えばいいのに。ちゃんとお父さんに断ってから行くのよ。それから暖かくして行きなさい。晴れてるって言っても外はもう寒いんだからね。
本当に風邪ひいちゃうよ。」
カロリーヌは笑いながらそう言ってロジェの額を指でつついた。
「お兄ちゃん、こっちだよ。」
二人はセーヌに浮かぶシテ島を横断し、パリの右岸、現在の1区に入って行った。
「あれが、レ・アール。中央市場さ。」
ロジェが指差す先には、鉄とガラスでできた二階建てのデカい建物が二つ、あいだをガラス屋根のアーケードで連結されるようにして建っていた。
周辺にはレストランなどが立ち並び、市場の関係者らしい人々で溢れている。
「すごいでしょ? 食べるものはここでなんでもそろうんだ。」
「へえ~、すごいな。中央市場って、こんなパリのど真ん中にあったんだ・・・。」
「えっ、あったんだって・・・なにが?」
ぽかんとした顔で見上げられて、康之は惚けて話しを変えた。
「い、いや、すごい活気だな。あんなに大勢の人がいるんだ。」
「そうでしょ。ここは真夜中でもやってるんだよ。」
ロジェが自分のことのように胸を張る。
「ホラ、うちも一応、お料理とか出すじゃない。こういう所も一度は見ておいた方がいいと思ってさ。」
「ああ、そうだな。でも、店で使う材料の買出しって、いつもロジェが来るんだろう?」
「だからさ、僕がどおーしても来れない時だってあるかも知れないじゃない?」
「ちょっと待てよ。お前、自分の仕事、俺に振るつもり?」
「はいっ、じゃ、次のとこ行こう!」
聞こえなかったふりをして、ロジェが康之の手を引く。
「えっ、今度はどこ行くんだ?」
康之はロジェに引きずられるようにして歩き出した。
その後、二人は凱旋門とエッフェル塔を廻った。
中央市場以外、ロジェはどうやら自分が行ってみたかった所へ康之を連れて行っているようだ。
凱旋門を見上げてはため息をつき、エッフェル塔では〝世界で一番高いんだよ。〟と言ってはしゃぎ廻ったロジェも、さすがに帰り道では歩き疲れたような表情を浮かべていた。
店を出てからの二人は歩きづめだった。
硬い石畳の舗道は長時間歩き続けると、意外に脚にくることを康之は初めて知った。
「おい、ロジェ、大丈夫か?」
幽霊のように歩くロジェを気遣って康之が声をかけると、ロジェは康之を見上げて蚊の鳴くような声で言った。
「お兄ちゃん、僕、お腹へった・・・。」
ロジェは夢中になって、自分が空腹なのをすっかり忘れていたようだ。
康之がロジェに見つからないようにこっそり腕時計をのぞき込む。
時計の針は午後一時半を回ったところだった。
「そうだな、俺も腹へった。
あーっ、そう言えば、お前、朝ごはん食べてないだろ!
早くどっかでなにか食べよう。」
「うん、そうだね! お兄ちゃんはなにがいい?」
ロジェがそれまでとは打って変わった陽気な声をあげる。
「俺はなんでも・・・ロジェの好きなもんでいいぜ。」
「それならさ、店の近くにあるベルニエ・パン店のパンにしない?
あそこのブリオッシュ、最高なんだ!」
赤い庇屋根が突き出した大きなガラス窓から中をのぞくと、そこにはいろいろな種類のパンが棚に並んだり、カゴに入れられたりして店内にあふれていた。
「店で出すパンもここで焼いてもらってるんだ。」
「すごい種類だな。みんなうまそう!」
ロジェが何かを探すような素振りで、窓にピタリと顔を寄せている。
康之はそんなロジェの様子に気付かず、窓越しに店内のパンを物色していた。
「あっ、いた!」
小さな声でつぶやいたロジェが康之の手を引いて店のドアを開く。
店に入った二人を焼きたてのパンの香ばしい香りが包み込んだ。
「う~ん、いい匂いだなあ~。ロジェ、どれにする・・・お勧めはあるの?」
「僕はこのブリオッシュ!」すかさずロジェが答える。
康之の目がカス・クルットのサンドイッチにとまった。
〝ああ、あった、これこれ。〟
「俺はこれにしよう。ロジェもこれ食べるだろう?」
そう言ってサンドイッチを二つ取り上げた康之がロジェに目を向けると、ロジェは意味ありげな目つきで康之を見上げていた。
「なに、どうしたの・・・?」
「ねえねえ、お兄ちゃん。あのお姉ちゃん、キレイだと思わない?」
何気なくロジェの視線を追った康之は思わず目を瞠った。
〝おおっ、可愛い子だな・・・〟
そして自分を見上げるロジェに気付いて、照れ隠しの咳払いを一つ落とした。
「ロジェ。お前ねえ、なにマセたこと言ってんの。」
「あのお姉ちゃんね、たまにうちの店に来るんだよ。」
「へえ、そうなんだ・・・」
「この前、カウンターのところでジーッとお兄ちゃんのこと見てたんだ。
気が付かなかった?」
「えっ、そうなの! 全然気が付かなかった・・・」
「僕、思うんだけどね、あのお姉ちゃん、お兄ちゃんのこと好きなんじゃないのかな・・・」
ロジェが上目遣いで康之を見上げる。
「んなわけないだろ。」
「じゃ、試してみよう!」
ロジェは康之の手を引いてカウンターに近づくと、そこにいる女の子にパンを差し出した。
「くださいな、これ!」
「いらっしゃいませ。」
パンを受け取った女の子がロジェに笑顔を向ける。
そして、その後ろに立つ康之に気付くとハッと息を呑んで慌てて顔を伏せた。
店を出た二人は近くの公園のベンチに座っていた。
大きなカス・クルットサンドを頬張りながら、ロジェが隣に座る康之を見上げる。
「ねっ、僕の思った通りだ。お兄ちゃんを見てあのお姉ちゃん、ポッと赤くなったでしょ?
あれ、絶対まちがいないよ!」
ロジェはサンドイッチを食べている最中も店での話しに夢中だ。
そして、聞こえないフリをして食事をする康之にしつこく絡んでくる。
「あらっ、お兄ちゃん。ひょっとして照れてんの?」
ふと目を向けると、ロジェが不思議の国のアリスに出てくるチェシャ・キャットのような顔をして康之を見上げている。
それを見た康之は思わず吹き出して笑いながらロジェの頭に手をのせた。
「お前ね、大人をからかうんじゃないの。いいから早く食べろよ。」
「は~い。」
ロジェはうれしそうな顔でカス・クルットサンドにかじり付いた。
「おいしいね、これ。」
「うん、うまい。でもこれ、冬場は空気が乾燥してるから外側がすぐに硬くなっちゃうな。唇が切れそうだ。」
「うん、でも硬いこの皮のところがおいしいんじゃないさ。」
「まあ言えてるな。でもイギリス式のサンドイッチもうまいぞ。」
「イギリス式・・・それってどんなサンドイッチなの?」
「ああ、これは一本のパンに縦に切れ目を入れて、そこにハムやチーズがはさんであるだろ?
イギリス式のは、パンをこういうふうに横に薄く切って、そのあいだにはさむんだ。」
康之が手に持ったカス・クルットを、もう片方の手で切る素ぶりを交えながらロジェに説明する。
「へえー。それ、食べやすそうだね。
そうだ、うち店でもそのサンドイッチ出してみたら?」
「そうだな・・・でも、パリのサンイッチっていうと、やっぱこっちのような気もするんだけどなあ?」
そう言って康之が手にしたカス・クルットサンドをまじまじと眺める。
「そうかな・・・でも、そういう変わったサンドイッチって人気出ると思うけどな。」
「それなら一度お父さんに相談してみるか・・・でも、それに使うパン、手に入るのかな?」
「大丈夫だよ、さっきのお姉ちゃんのパン屋さんに頼んで、焼いてもらえばいいじゃない?」
肘で康之をつつくロジェの顔はまたチェシャ・キャットになっていた。
店でカウンターに入っていた康之は自分を見つめる視線を感じて顔を上げた。
朝の店内は仕事に出かける前に軽く腹ごしらえをしたり、新聞を広げてコーヒーを飲む客で混雑していた。
ふと店のテラス席に顔を向けた康之の目に映ったのは、ド派手なネックレスを首からぶら下げた自分より少し年上に見える東洋人の姿だった。
男はしばらくカウンターの様子をうかがっていたかと思うと、客が途切れた隙をついて康之に近づいてきた。
カウンターに片肘をついて男が康之に顔を向ける。
そしてジッと康之を見つめると「ツナマヨのおにぎりとカレーヌードル。」と日本語でつぶやいた。
男が首からぶら下げていたのは、派手にデコレーションされたスマホであった。
「ヤンっていうのは、あんたかい?」
唖然として頷く康之に男が言った。
「二人だけで話しがしたいんだけど・・・。」
目を瞠った康之がコクコクと小刻みに頷く。
「・・・十分、いや五分待ってもらえます?」
男はそれに頷くと、スっとカウンターの隅に移動した。
〝あれ、絶対スマホだよな・・・ってことはあいつ、俺と同じ時代の人間ってこと?〟
康之は男から注文された料理を作りながら、静かに動揺していた。
料理ができ上がり、男に目配せをした康之がアンリに声をかける。
「アンリ。ちょっと休憩もらってもいいかな?」
「おおっ、分かった。じゃカウンターには俺が入るよ。」
料理の皿を手にした男は人のいないテラス席へ向かった。
康之も男を追って外へ出る。
雪でも降ってきそうな厚い雲が垂れ込め、身を切るような冷たい風が吹き抜けていった。
テラス席に出た二人はお互いに舗道を眺めるようなかたちで椅子に座る。
男は静かにツナマヨのおにぎりを一口かじり取るとカレーヌードルをすすり込んだ。
そして康之を横目で見ると、満面に笑みを浮かべてつぶやいた。
「ウマいっ! これが食べたかったんだ。」
その男は荒川恭一だと自分の名を告げた。
恭一は康之より三歳年上であった。
生年月日を確かめると、二人はまちがいなく同じ時代からタイムスリップしてきたことが分かった。
「これなら同じ時代の人間にしか分からないだろう?」
恭一はそう言うと、ヤンチャな笑顔を浮かべ、ストラップをつまんで胸に下がったデコレーション・スマホを揺すって見せた。
「でも、よく分かったね。同じ時代の人間だって・・・。」
「そりゃ分かるさ。ツナマヨのにぎり飯にカレーヌードルだぜ。
新聞広告見た時、笑っちゃったよ。疑いようがないじゃんか。
絶対に同じ時代の日本人だと思ったね。」
「ああ、あの広告見たんだ・・・。」
「そっ。で、仲間にその話しをしたら、すぐに確かめに行けってことになったのさ。」
「えっ! 仲間って・・・?」
恭一の話を聞きながら康之は路上から吹き付ける風の冷たさも忘れていた。
康之がタイムスリップしてから二ヶ月が経とうとしていた。
その間、アンリの店で働き、アンリたちからも家族同様に受け入れられた康之は、自分がタイムスリップして、今この時代にいることも、まして帰る方法を探すことすら忘れかけていたのである。
しかし、突然目の前に現れ、自分と同じ時代からやって来たという恭一に康之は言いようのない懐かしさを感じていた。
「実は、他にもいるんだよ。僕たちと同じ時代からタイムスリップしてきた人間が・・・。
それでみんなで相談して、僕が代表でここへ来たってわけ。
まあ、ここに来る前から確信はあったけどね。」
そう言って恭一はうれしそうに笑った。
「彼らには今日のこと、僕の方から話しておくよ。
ところで、浅川君。僕たち、定期的に集まって会合を開いてるんだ 。
どうしたら元の時代に帰れるかを考えるためにね。
どうだろう、次回から君も参加してみないか?」
「もちろんです! その仲間って何人いるんです?」
「僕を入れて三人。だから君を加えると四人ってことになる。」
「それで、みんな日本人なんですか?」
「いや、日本人は君と僕の二人。あとはイギリス人とドイツ人。
二人とも学生で歳も君と同じくらいだ。」
「みんな、長いあいだこっちにいるんですか?」
「一番長いのはイギリス人かな。もうかれこれ三年くらいになるらしい。
その次が僕。
僕はこっちにきてからほぼ二年になる。
ドイツ人の方は一年半くらいじゃないかな。
君はどのくらい経つんだい?」
「僕はだいたい二ヶ月になります。」
「じゃ、君が一番短いんだ・・・初めのうちは大変だったろう?」
「ええ。でも、タイムスリップした翌日から、今いる店で住み込みで働かせてもらえるようになったんで・・・」
「へえー、そりゃ運がよかったな。
僕たち三人はこっちにきた当初はもう・・・聞くも涙、語るも涙の物語だよ。」
「・・・みんな、苦労したんですね。」
「まあ、それなりにね・・・そうだ、忘れてた。浅川君はこっちのお金、持ってるのか?」
「ええ、少しは・・・でも住み込みで食事も付けてもらってるんで、ほとんどお金かかんないんです。」
「そうか。でも、なにかの時のためにこれ持ってな。」
恭一はそう言うと、上着から財布を取り出して財布ごと康之に渡した。
「みんなで少しずつ出し合ったんだ。遠慮しなくていいから。」
「あ、ありがとうございます。」
「いいからいいから。彼らにしても、まったく違う時代に放り込まれた当時、大変な思いをしたのが忘れられないんだよ。
君がほんとにタイムスリップしてきたんだったら、是非渡してくれって。
それから次の会合なんだけど・・・」
恭一は康之に次の会合の日取りと合流場所を伝えた。
「休みは取れそうかい?」
「ええ、大丈夫だと思います。」
「そうか。それじゃ、その時にまた。」
恭一はそう言って立ち上がると康之に右手を差し出した。
康之も立ち上がってその手を握る。
「あっ、そうだ。それまでに何かあったら僕のところに来てくれ。
僕は普段レ・アールの精肉市場にいる。
そこでアランと言ってくれれば分かるはずだ。」