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アンリの店

冷たくなってきた秋の風が木々の枝を揺らして吹き抜けていく。

康之は公園のベンチに座って暗くなっていく空を見上げた。

〝いったいどうすりゃいい・・・

大使館に行ったところで相手にされないだろうし、だいたい身分証明書だって、いま持ってるパスポートじゃどうにもならんだろう。〟

当然のことながらスマホはなんの役にも立たない。

未練がましく本屋の中をひと廻りしてみたが、フロントがあった形跡すら見当たらなかった。

〝あ~あ・・・どうする。

誰か相談できる相手でもいれば少しは違うんだろうけど・・・。

自力でなんとかするって言っても、この時代の金も持ってない・・・えっ、てことは、俺、飯も食えないってこと。

日本から持ってきたカップ麺が三つか・・・

徹に勧められて日本で買ってきたキャンプ用のコッヘルとストーブがあるから、お湯は沸かせるけど、あれ食べちまったら終わりってこと?

うわ~、どうするよ・・・目の前真っ暗。〟 

思考は堂々巡りを続け、そして、いい考えは一切浮かんでこなかった。

〝ああ~、熱いコーヒーが飲みてえ・・・〟

康之は今朝〈アンリの店〉で飲んだコーヒーを思い出していた。

〝あっ、そうだ! 〈アンリの店〉だ。

あそこに行けば日本人に会えるかも!〟

頭が混乱していた康之は、今朝行った〈アンリの店〉でオヤジから聞いた話を今まですっかり忘れていた。

〝確か、彼の祖父さんが子供のころに日本人が働いてたって言ってたよな・・・。

祖父さんが1900年生まれで創業も同じ年だったはずだ。

今、1909年だろ、と言うことは祖父さんは9歳。おおっ、ズバリ、今だよ!〟

勢いよく立ち上がった康之は旅行道具一式を詰め込んだバッグを抱えると〈アンリの店〉を目指して大股で歩き出した。


「すみません、ちょっと伺いたいことがあるんですが。」

〈アンリの店〉は仕事帰りの客で混み合っていた。

客たちの間を縫うようして進み、カウンターに取り付いた康之が中にいる四十絡みの男に声をかける。

「すみません、この店で働いている日本人に会いたいんです。」

自分に不審な目を向けるカウンターの客たちに構わず、康之は話し続けた。

「僕と同じ日本人、この店にいますよね?」

「お客さん、ちょっと待っててくれ。見ての通り今スゲー忙しいんだ。

ほら、ちょっとそこどいて。」

康之は店の中を見回すと、言われた通りカウンターの隅に移動した。

じりじりしながら男を見つめる。

男は手際よく客の注文をこなすと、カウンターから出て店内をまわり、空いた食器を回収してカウンターへ戻ってくる。

そして、すごい勢いで洗い物を始めた。

時間的に今が一番忙しい時間帯なのだろうと康之は思った。

十歳くらいのエプロンをつけた少年がテラス席から空いた食器をカウンターに運んでくる。

お盆の上に山ほど食器を載せて、見るからに危なげだ。

少年に手を貸してお盆を受け取った康之が片目をつぶってみせると、少年はそれに応えてニコッと微笑んだ。

それを見ていたカウンターの中の男が康之に小さな声で〝メルシ〟とつぶやいた。


「さっきはすまなかったな。ついこのあいだまで働いてたやつが、国に帰るとか言って急に辞めちまったもんだから人手が足りねえんだよ。

えーと、それでなんだって?」

ぼんやりとカウンターを見つめていた康之に男がそう声をかけた。

「日本人がこの店で働いているはずなんです。僕はその人を訪ねて日本からきました。

どうしてもその人に逢いたくて・・・。」

切羽詰まったようにまくし立てる康之に驚いたのか、少年も男の陰に隠れるようにして事の成り行きを見守っている。

「ええーっ、日本人・・・この店に?」

「はい。」

「いや、俺は日本人を雇った覚えはねえな。このあいだ辞めたやつもこの国の人間だしな。」

〝雇った覚えはないって・・・えっ、この人、ここの主人か。

・・・ってことは・・・〟

「あの~、失礼ですけど、あなた・・・アンリさん?」

「ああ、そうだけど。」

〝この人がオヤジの曾祖父さんだ・・・

じゃ、あの坊主はひょっとして祖父さん?

名前なんていったけな・・・あっ、そうだ!〟

「じゃ、そっちにいるのはロジェ君?」

「あんた、なんでそんなこと知ってんの?」

男が怪訝な顔で康之を見つめる。

「その日本の人から手紙をもらったんです。それに書いてありました。」

「そう言われてもな・・・ほんとにうちじゃ雇ったことないんだけどな・・・。」

「・・・そんな。」

ガックリと肩を落とす康之に男が言った。

「あんた、なんか事情がありそうだな。まあ、ちょっとそこに座んな。」

男は康之を店の隅のテーブルに座らせると、コーヒーを淹れてくると言ってカウンターへ入って行った。

〝はあ~っ、タイムスリップ決定だ・・・

しかし、おかしいな・・・日本人の使用人がいるはずなんだけど・・・〟

男が二人分のコーヒーを持ってテーブルに戻ってきた。

「あのう・・・僕、お金持ってないんです・・・。」

テーブルに置かれたコーヒーを見つめて康之が力なくつぶやく。

「えっ?・・・あっ、いいよ、金は・・・しかし、金持ってないって、いったいどうした?」

「いや、それが・・・ここへ来る旅の途中でお金とか身分証明書とか大事なもの、そっくり盗まれちまって・・・今、僕、一文無しなんです。」

「なんだって、、そりゃ災難だったな・・・こっちに着いてからやられたのか?」

テーブルに目を落としたまま、康之が黙って頷く。

そして自分を見つめる男の視線に気付いて顔を上げた。

「ええ、そうなんです。

僕、どうしてもこの国の言葉が勉強したくて・・・。

知り合いもここにいるから、こっちに来ちゃえばなんとかなると思って。

一生懸命働いてお金貯めてこの国に来たんです。

そしたら港の・・・泊まった宿で・・・。

ようやくパリにたどり着いたと思ったら、今度は頼みの綱の知り合いもいないなんて・・・

いったいどうしていいんだか・・・。」

康之は思いついた身の上ばなしを口にした。

それを聞いた男がふ~っと息を漏らす。

「なあ、ものは相談なんだが、あんた、うちの店で働いてみるか? 

何の手違いかは知らんけど、その知り合い訪ねてうちの店に来たんだろ?

考えてみりゃ、それもなんかの縁じゃねえか?

さっきも言ったように使用人に辞められちまって、今、ここ人手不足なんだよ。

あんただって一文無しだって言うんだから、泊まるところもねえんだろう。

ちょうど二階に空いてる部屋があるから、あんたさえ良ければ、住み込みの賄い付きでどうだ?

その代わり、あんまり高い給料は払えねえけどな・・・。」

「えっ、本当ですか! 本当にここで働かせもらえるんですか?」

「ああ、あんたさえ良けりゃな。 それにこっちに来てからやられたんだろう。

俺もこの国の人間として少しは責任取らねえとな。」

「ありがとうございます! 一生懸命働きます。よろしくお願いします。」

立ち上がった康之が男に深々と頭を下げる。

そして、心の中で昔話を聞かせてくれた自分の時代の〈アンリの店〉のオヤジに感謝を捧げた。


アンリの家は三人家族だった。

この店の主人であるアンリと息子のロジェ。

そしてアンリの奥さん、カロリーヌの三人である。

フランスのほぼ中央にあるオーベルニュの出身であるというアンリの話によれば、その地域は昔から貧しい田舎と言われているのだそうだ。

「そりゃそうだろう、小麦もぶどうも取れねえんだから、そう言われても仕方ねえよな。

取れるもんといったら、ソバ、クリ、クルミぐれえか。

あとは牛を飼ってチーズを作るくれえが関の山だ。

そんなとこにいても仕方がねえ、ってんでパリに出てきたわけよ。

でも、なかなか仕事が無くてな・・・

俺なんかパリ出てきたばっかりの頃は、水くみ場から水くんで、アパルトマンまで運ぶ商売してたんだ。

いや、キツかったぜ。アパルトマンの五階、六階まで重い水担いで上るのはよ。」

なかなかの苦労人である。

そして水道ができて、その仕事が無くなると、今度は炭を売ったそうだ。

「炭は地元の仲間が田舎から出てくる時に調達してくるんだ。それで炭屋を開いて、そこで炭といっしょに俺の地元でできるワインを売ったのがこの店を始めたきっかけさ。

えっ、さっきはぶどうは取れねえって言っただろうって?

それは山の高いところの話。もっと下の方じゃ、昔から渋みの強い地酒が作られてたんだ。

その安~い地酒を売るのさ・・・炭屋にちょっとしたカウンターを作ってな。

そして俺は炭の配達やら注文取りやらで外を廻って、店に残ったかみさんが店に炭の注文しに来る客の相手したり、客にワインを売ったりするのさ。

客の中にはビンやらなんやら持って買いに来るやつもいれば、その場で立ち飲みしてくやつもいる。

立ち飲みしてく連中はほとんどが雇われもんで、お屋敷で働いてるやつが炭を注文しに来たついでに店で油売って一杯引っかけていくわけよ。

炭屋で酒を売るって、あれはいいアイデアだったぜ。」

 夕食の時、ワインに酔ったアンリが店を始めた頃の話をしてくれた。

昔話が好きなのは、どうもアンリ一族の血筋なのかも知れないと康之は思ったが、アンリの曾孫であるピエールから聞いた話がこの時代で康之を救ってくれたたように、アンリの話もどこでどう役に立つか分からない。康之は熱心にアンリの話に耳を傾けた。

隣ではカロリーヌが呆れた顔をしながらも、亭主の話をうれしそうに聞いている。

小太りで、人の良さそうなおばさんである。

彼女は夕食の前も康之が今夜から使うことになる部屋の掃除をしたり布団を運んだりと、あれこれ世話を焼いてくれた。

ロジェはロジェで異国からきた康之に興味津々といった様子で、チラチラと康之の様子を窺っている。

アンリの話が一段落すると、さっそくロジェが話しかけてきた。

「ねえ、お兄ちゃん、日本ってどこにあるの?」

それを聞いたアンリがすかさず口をはさむ。

「ロジェ。お前、そんなことも知らんのか?

情けねえな・・・日本てのはインドの向こう隣にある島だろうよ。」

「あなた、なに言ってのよ、あれはシチリアでしょうに。」

「あれっ、そうだっけ。じゃ、あそこだ。ホラっ、イタリア半島の先っちょ。」

カロリーヌに突っ込みを入れられたアンリがそう言って康之に目配せをした。

日本が島国であるという認識はあるらしい。

真剣な顔でロジェが康之を見上げている。

アンリの顔を潰すわけにもいかず、康之は仕方なくニッコリと笑ってロジェに頷いた。

「そう言えば、あんた、名前はなんていうんだ?  

バタバタしてて聞くの忘れてた。」

「あっ、こっちこそすみません。僕はヤスユキ・アサカワっていいます。

改めまして、よろしくお願いします。」

「ヤスユキか、じゃヤスでいいか?

・・・ヤス。ウ~ン、ちょっと呼びにくいな・・・そうだ、ヤンでどうだ?」


翌日の朝、目覚めてしばらくの間、康之はボンヤリと天井を見つめていた。

自分の身に起こったことが夢であって欲しかった。

しかし康之が目覚めたのは、まちがいなく〈アンリの店〉の二階の部屋だった。

〝・・・こういうの不幸中の幸いっていうんだろうな。みんないい人たちで良かった。

初対面の俺みたいな外国人を住み込みで雇ってくれるんだもんな。

寝るところと食べるものの心配をしなくていいだけ俺は幸せもんだ。

最初はホント、どうしようかと思ったもんな。

それにしてもピエールが言ってた日本人ってどうしちゃったんだろう。

・・・あれっ、ちょっと待てよ。その日本人って、ひょっとして俺のこと?

うわあ、しまった!

その日本人がどうなったのかピエールに聞いときゃ良かった。

・・・まあ、仕方ないか。あの時はこんなことになるなんて思いもしなかったんだから。

それより頑張って働いて恩返ししないとな。

それにタイムスリップしてこっちに来たってことは、なにかの拍子にまたもとの時代に戻れる可能性だって無いとは言えないわけだろ。

こんなことになった原因を探って、俺は絶対に帰るぞ。〟

康之は自分を奮い立たせるかのようにベッドから勢いよく起き上がった。

康之がアンリの店を手伝うようになって既に一週間が過ぎた。

もともとの陽気な性格と持ち前の人懐っこさで、康之は既にお客たちにも受け入れられるようになっていた。

客の中には康之の姿が見えないと〝ヤンは休みかい?〟などとアンリに声をかける者もいるほどだ。

一人っ子のロジェは康之が店で働くようになって、うれしくて仕方がないようだった。 

ロジェは学校から帰るとすぐに、康之と同じエプロンを腰に巻いて喜々として店を手伝うようになっていた。

二人は飲み物をテーブルまで運んだり、空いた食器を回収したりと店の中を一緒になって動き廻った。

アンリとカロリーヌもそんな二人の姿を見て、康之を使用人というより、まるで家族の一員のように扱うようになっていた。


「そうだ。なあヤン。ここいらじゃ見かけないような、ちょっと変わった料理作れねえか・・・お前のお国のさ。

な~に、カフェで出すもんだから、そんなに本格的なもんじゃなくていいからさ。」

康之が店になじみ始めたある日、新し物好きのアンリが思い付いたように突然、康之にそう声をかけた。

その時、康之の頭をよぎったのは米の料理だった。

康之はその頃、無性におにぎりが食べたかったのだ。

「アンリ、米って手に入るかな?」

「コメ? う~ん、南の方で作ってるって話を聞いたことがあるから、手に入らないことはないと思うけど・・・」

康之はそう言うアンリに早速米を手に入れてくれるように頼んだ。

〝まあ、日本の米みたいに普通に炊いてうまいかどうかは分かんないけど、おにぎりがだめなら煮込んで甘いお菓子にするって手もあるしな・・・。〟

届いた米を康之が台所で炊いていると、それを見ていたアンリが首を捻ってつぶやいた。

「ふ~ん、炊くのか・・・茹でて食べるもんだとばっかり思ってた。」

それを聞いた康之の頭にあるアイディアが浮かんだ。

〝なに、茹でる・・・なるほど。パスタみたいな感じなのかなあ?

パスタって言えば・・・あ~懐かしいなあ・・・カレー味のカップ麺。

んっ、それなら、お粥でどう! スープっぽくしたら結構ウケるかも・・・。

もちろんカレー味!

オニオン・グラタン・スープみたいにチーズのっけてオーブンで焼く! 

あっ、うまそう。うん、いいんじゃないの。〟

試行錯誤を繰り返して康之が作ったのは、どうしても外したくなかったおにぎりとカレー味のスープ粥だった。

おにぎりの具は、これも康之がこだわったツナマヨネーズである。

特にマヨネーズはマヨラーである康之が凝りに凝って苦労の末に作り上げた自家製だ。

早速アンリたち家族による試食会が行われた。

まずおにぎり。

粘り気が少ない米のため、どうしてもまとまりがつかずボソボソした感じになっしまう。

康之としては今ひとつだろうと思っていた一品である。

しかし、アンリたちはおにぎりを頬張った途端に目を輝かせた。

「お兄ちゃん、これおいしい!」

ロジェが目をまん丸にして康之を見上げる。

アンリに至ってはおにぎりを噛みしめながら至福の表情を浮かべていた。

〝なるほど、米がどうこうっていうより、ツナマヨが良かったのかも・・・〟

そしてカレー味のスープ粥。

こちらもカレーとチーズのマッチングが好評のようだ。

「んっ、これはウマイ。いま時分の季節だったら、寒い朝なんかに良く出そうだ。

うん、これ絶対ワインに合いそう。

ヤン、これヌイユでもいけるんじゃないか?」

〝ヌイユ・・・? ああ、 ヌードルか!〟

それを聞いて康之は膝を叩いた。

アンリが苦心して米を手に入れてくれた手前、康之はそれを使ってスープ粥にしたのだが、本音を言うとカレー味の麺を作りたかったのだ。

「それ決定っ! ヌイユでいきましょう、ヌイユで。」

康之は即座にそう答えるとアンリに大きく頷いた。

康之が作った料理はアンリたちに絶賛されて、早速店のメニューに載ることになった。

そして、いざ店で出してみると客たちにも大好評で迎えられ、噂を聞きつけて遠方からわざわざ店を訪ねてくる客もいるほどだった。

それに気を良くしたアンリは調子に乗って新聞広告まで出す始末だ。

【疲れたあなたに 美味礼賛!  ヤンのカレー・ヌイユ】

広告に踊るそのフレーズを見て一番驚いたのは、当の康之本人だった。

それ以来、アンリ家の朝食も、それまでのカフェ・オ・レとパンに加えてカレースープ粥が登場するようになった。

「朝食にこれを出すようになってから、朝、ロジェを起こすのホントに楽。

あの子、よっぽどこれ好きみたい。」

カロリーヌは笑顔を浮かべながら、毎朝康之の前にオーブンで焼いたカレースープ粥を置いてくれた。


「なあ、ヤン。お前、ここで働くようになってから、まだ一日も休み取ってないだろ。」

店でアンリに声をかけられて、康之はキョトンとした顔をアンリに向けた。

「休みだよ、お休み。お前がここで働き始めたのって確か十月の半ばくらいだったよな。

ほら、この店はなんかなきゃ休みにしないもんで、俺もついうっかりしてたんだ。

今朝、うちのやつに言われてさ。ヤンの休みはどうなってるんだって・・・

あの子、うちに来てから一日も休みなしで働いてるって。

若いのにかわいそいうだから、ちっとは考えてやれってね。」

「いや~、住み込みで食事まで付けてもらってるんですから、そんな、休みなんて・・・」

休みをもらったところで何もやることがないし、時間を持て余してしまう。

それだったら店に出て、馴染み客の相手をしている方がましなくらいだ。実際、康之はそう考えていた。

「なに言ってんだ。人間には安息日ってのが必要なんだよ。

これから週に一回は休み取ってくれ。」

「でもアンリだって休んでないじゃないですか。」

「ああ、いい機会だから、これから俺も、ちっとは休みを取ろうかと思ってさ。

俺が休み取ってるのにヤンが休みなしじゃ具合が悪いだろう。

それに、もう十二月だ。

クリスマスの時期は毎年すっげー忙しいんだよ。

だからそれに備えて今のうちにちょっと身体休めておいた方がいいぞ。」

そう言うアンリに康之は渋々と頷いた。

この話しを聞きつけて喜んだのはロジェだった。

ロジェはその頃になると、夜、康之の部屋にやってきて、二人で話をするのを楽しみにしていた。

康之もそんなロジェを相手に聞かれるままに日本のことや、またその頃出回り始めた写真などの話を夜遅くまでするようになっていた。

そしてある晩、ロジェは康之の部屋にやって来ると康之に今年の夏にルイ・ブレリオがドーバー海峡横断に成功した飛行機の話を始めた。

どうやらロジェは自分の国のブレリオがイギリスの新聞社が懸賞金をかけたこの競争に一番乗りしたのがものすごくうれしいようだった。

 「このあいだね、お父さんに聞いたんだ、どうして飛行機は飛ぶのって。

そしたら、お父さん、なんて言ったと思う?

〝あれは気合で飛んでるんだ。〟・・・だって。

真面目な顔して言うんだよ。僕、がっかりしちゃった。」

それを聞いて康之は吹き出しそうになるのを堪えてロジェに言った。

「案外そうなのかもよ。で、ロジェはどうして飛べるか知ってるのかい?」

「知らないから聞いたんじゃないか。

・・・でも、まさか気合で飛んでるわけじゃないんでしょ?」

メモとボールペンをバッグから引っ張り出した康之はロジェを相手に簡単な絵を書きながら説明を始めた。

「いいかロジェ。飛行機の翼は横から見ると、こういう形になってるんだ。

そこにこういうふうに風があたるだろ、そうするとな・・・」

ロジェが自分の説明に聞き入っているものとばかり考えていた康之がふとロジェに目をやるとロジェの視線は康之が描いた絵ではなく、康之が手にしたボールペンに釘付けになっていた。

〝んっ、なに・・・えっ、ボールペン・・・あっ、しまった! 

この時代、まだ無かったの・・・?〟

いまさら隠すわけにもいかず、康之が固唾を飲んでロジェを見つめていると、ロジェはボールペンから康之の顔に視線を移し、口をパクパクさせながらようやく声を出した。

「お兄ちゃん、そ、それ、なに? なんでインクもつけてないのに絵が描けるの?」

しかも康之が手にしていたボールペンは赤、青、黒の三色ボールペンであった。

ロジェが分かりやすいようにと康之は翼を黒、風を青、そして揚力を赤で色分けして描いていたのだった。

「こ、これ? ・・・これは日本で買った新製品。ボールペンっていうんだ・・・」

「すごいね、それ・・・僕、初めて見た。色まで変わっちゃうんだ・・・」

当時はまだ色鉛筆さえ充分に普及していない時代である。

ロジェが目を瞠るのも無理はない。

ロジェは康之のボールペンをまじまじと眺めては、しきりに感心していた。

〝うわ~やべっ・・・ロジェが納得してくれたから良かったものの、これからはホント、気を付けなきゃな。〟

康之は素直に日本で買ったという自分の話を信じてくれたロジェの顔を見つめながら胸をなで下ろした。

それ以来ロジェは、以前にも増して康之に付きまとうようになった。

日本から持ってきたカップ麺を食べようとした康之が、夜こっそりと部屋でキャンプ用のストーブでお湯を沸かしている現場をロジェに押さえられたのもこの頃だ。

ロジェはボールペンの時と同じように、興味津々といった顔でストーブから吹き出すガスの青い炎を見つめていた。

自分が興味を持ったどんな事にもポンポンと答え、見たこともないような物を持っている康之をロジェは、日本という魔法の国からやってきた魔法使いのように考えていた。


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