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タイムスリップ・・・?

 目を覚ますとボンヤリと斜めに傾いた天井が見えた。

そのあいだに垂直に立ち上がった出窓がある。

部屋の中は真っ暗だ。 

身体を覆うシーツから左手をひっぱり出して腕時計を顔に近づけた康之は、それが意味のない行為であることに気付いて腕を下ろした。

日本を出てから現地の時間に時計を合わせていなかったからである。

やたらに大きなベッドに身体を起こして辺りを見回す。

康之はいま自分がカルチェ・ラタンのホテルにいることを思い出した。   


昨夜、シャルル・ド・ゴール空港に到着した康之は、そこで大学の同じゼミに在籍する岡本徹と合流した。 

大学に入ったばかりの頃からアルバイトで資金を貯めては、一人で海外をあちこち廻った経験を持つ徹は、康之から見れば海外旅行のベテランである。

ゼミが終わって二人で校内をぶらついている時、突然、徹が康之を誘ったのであった。

日頃から徹の海外での体験談を聞かされ、大学でもフランス語を専攻していた康之はその誘いに飛びついた。

康之にはこれまで海外に出た経験はなかった。

徹の誘いに乗った康之は時間と資金の問題から、全工程同じ行動を取るのではなく、ヨーロッパを廻って最後にフランスに入ってくるという徹とパリで合流する旅程を組んだ。 

そして昨日、二月七日がその合流の日であった。

 その頃のパリは『ソルド』と呼ばれるバーゲンセールの時期に当たっている。

例年、海外からの観光客が減るこの時期、逆に買い物目当てで近隣からやって来る客たちでホテルはいっぱいとなる。

今年も例外ではなく、徹がいつも利用しているホテルはどこも満室であった。

足を棒にしてあちこち探し廻った末に、徹はやっとの思いでひと部屋を確保することに成功した。

それがいま康之が泊まっている部屋というわけである。

その部屋は最上階にあった。


延々と続く長い階段を上った末に、ようやく康之がたどり着いたのが、この屋根裏部屋である。

 屋根裏部屋は、その昔、使用人たちの部屋として、また物置きとして使われることが多かったのだが、今ではその多くが小奇麗に改装されて、このホテルのように客室として使われていたり、狭苦しいが、その郷愁を誘う雰囲気に惹かれた学生たちがインテリアなどを工夫して、好んで住んでいたりするようだ。

しかし徹が押さえた部屋は違っていた。

そこは小奇麗とかオシャレなどという言葉とはおよそ縁のない古びた部屋であった。

部屋の中にはバスもトイレもなく、入口のドアの横に置かれたテーブルの上にはホーローの洗面器とピッチャーが置かれている。

ピッチャーには水が入っていた。

〝えっ、これで顔洗えって・・・

しかし、すげえ部屋だな・・・これ、ほんとにホテルなの?〟

改めて部屋の中を見回すと、窓際の傾斜した天井の下に置いてある大きなベッドが、ほぼ室内を占領している。

壁際には古びた衣装タンスと小さな木製の机と椅子が打ち捨てられたように置いてあった。

 ベッドから足を床に下ろした康之は、部屋の暗がりの中、昨夜この部屋に到着した時のことを思い出していた。

頭の芯がジンジンと痺れている。

〝これって岡本が言ってた時差ボケなのかな・・・〟

ちょっと頭を振ってみると、痺れは一層ひどくなった。

時差ボケ用の薬など、ハナから持ってはいない。

窓でも開けようと、傾いた天井のあいだある窓に近づき、二重に下げられたカーテンを開く。

そこには観音開きのガラス窓があり、その外側には、やはり観音開きで細かくスリットが入った日除け扉があった。

〝これじゃ光は入ってこないよ。〟

康之はガラス窓を開け、その外側の日除け扉を大きく左右に開いた。

〝うわっ寒っ・・・〟

開け放たれた窓からは、まだ薄暗いパリの街並みが二月の曇り空の下に広がっているのが見える。

真下には古い建物のに挟まれ、人通りのない石畳の路地があった。

そのうら寂しさがこの街を象徴しているかのような気がして康之は首をすくめた。

〝しかしなあ・・・いくら寒いって言っても腹も減ったし、ちょっと外へ出てみるか。

岡本が迎えに来るって言ってたの、確か十時だったよな・・・〟

身震いしながらガラス窓を閉めて集中暖房のバルブを全開にする。

〝まあ、寒いわ暗いわ・・・カフェってもうやってるのかな?〟

しかし外に出てみなければ正確な時間も分からない。

この部屋には時計というものがなかった。

開け放した窓から外の空気を思いっきり吸い込んだせいか、頭の痺れは治まってきたようだ。

 手早く顔を洗って着替えをした康之はボディバッグの中を確認した。

パスポートを開くと写真の右側に英字で氏名が印字され、その横に浅川康之と自筆の署名が印刷されている。2011年12月から十年間有効の旅券である。

康之にとってはこれが初めてのパスポートであった。

 康之は秋田県大館の出身である。

実家は地元名産、曲げわっぱの製造と販売を行う工房で、父親は三代続いた職人であった。

次男である康之は特に家業の継承を期待されるわけでもなく、また本人にもその気がなかったため、地元の高校を卒業すると大学進学を目指した。

しかし、第一志望は受けるだけ無駄。

第二志望もあっさりと落とされ、結果、当初の第三志望であった現在の大学にもぐり込んだのである。

しかも、入ったところが文学部のフランス文学科。

康之は全く潰しの効かない学問を専攻することになった。

今回はそんな中での渡仏である。

康之はナマのフランス語に初めて触れる今回の旅で、自分がこの二年間で培った会話能力がどの程度のものなのかを試し、またできるならば、パリ大学の図書館にでももぐり込んでみたいと密かに考えていたのである。

 

身支度を整えた康之はカフェを探して朝食を摂ろうと、昨日の晩に上った長い階段を下りて行った。

ホテルのフロントは、この階段の下にある裏口のようなドアを出て、建物を半周した表通りの〝正しい玄関〟を入ったところにある。

フロントに顔を出すと、昨夜チェックインした時と同じ中年の男が眠そうな顔をして出てきた。 

外出する旨を伝えキーを預ける。

そして近所にカフェはないかと尋ねる康之に、彼は面倒臭そうに「カフェなんてどこにでもあるさ。まあ、一番近いのは〈アンリの店〉だな。」と言って場所を教えてくれた。

フロントの壁に掛けられた時計を見ると七時を少し回ったところだった。


坂道を下りきった正面に一軒のカフェが見えた。

ガラス張りのテラス席、またその外側にも舗道に張り出したテラス席がある。

さすがに冬のこの時期、外側のテラス席に人影はなかった。

店の中に入って行くと、カウンターでカフェのオヤジと思しき髭面の中年男が常連客たちと世間話をしている。

カウンターの中ではオヤジと同年輩のギャルソンが忙しそうに客たちの注文に応えて立ち働いていた。

康之はカウンターで順番待ちをしている客の後ろに並んだ。

結構繁盛している店のようで、客たちはそれぞれ思い思いにコーヒーを飲んだり、ゆで卵をかじったりしながら世間話に余念がない。

順番がきて康之はコーヒーとサンドイッチを注文した。

前の客のコーヒーをカウンターに置いたギャルソンが何か話しかけてきたのだが、聞き取れなかった康之が首を傾げると、ギャルソンはふっと横を向いて忙しそうに作業を再開した。

〝あらっ・・・注文、通じなかった?〟

話しかけようとして、ギャルソンの動きを目で追うのだが忙しそうに動き回っているので取り付く島もない。

あきらめた康之は店の中に目を向けた。

アンティーク調のテーブルが並んだ店内は落ち着いた雰囲気で満たされている。

そして壁には年代物のモノクロの写真が掛けてあった。

どの写真も何人かの男たちが実直そうな表情で映っている肖像写真である。

そのモノクロの写真を眺めている康之の目の前に、突然コーヒーとサンドイッチの皿が置かれた。

〝なんだ、通じてたの・・・?〟

康之がホッとしてギャルソンに目を向けると彼はただ黙々と次の客に対応していた。

〝フランス語もまともにしゃべれないでここへきたのかって呆れられたのかも・・・

まあいいや、初日初日。〟

気を取り直した康之はコーヒーとサンドイッチを空いている席に運んで腹ごしらえを始めた。

 食事を終えてコーヒーをすすっていると後ろからポンポンと肩を叩いてくる者がいる。

振り向くとカフェのオヤジが満面に笑みを浮かべて立っていた。

「ボンジュール。

あら・・・あんた、ひょっとして日本人かい?」

「そう、日本からきた学生。昨日着いたばかり・・・」

「そうか、日本人か・・・。あんた、よかったらレ・アールで働いてみないか?」

〝はあ・・・ここのカフェってバイトの斡旋してんの? 

レ・アールって・・・ああ、中央市場だ。〟

康之が怪訝な表情を浮かべるのもかまわず、オヤジはさらに話しを続ける。

「いやな、実は知り合いがレ・アールにいるんだが、日本語の話せる働き手を探してるんだ。よかったら、あんた、どうだい?」

〝出稼ぎの労働者かなんかと勘違いしてんのかな?

だいたい俺、就労ビザなんて持ってないし・・・〟

一瞬おもしろそうだなと思った康之ではあったが、パリでの滞在がそんなに長くないことを伝え、その申し出を丁重に断った。

「そうか、分かった。まあ、気が変わったら、いつでも言ってくれ。」

オヤジはそう言って康之の肩を叩くと常連客と世間話を再開した。


ホテルの部屋に戻りベッドに身を投げ出した途端、ポケットの中でスマホが震えた。

見ると徹からの着信である。

康之は徹の勧めでスマホを海外でも使えるよう契約を結んでいたのであった。

「浅川か。俺だ、岡本。良く眠れたか?

いや実はお前が泊まってるホテルなんだけど、さすがにあそこじゃあんまりだと思ってさ。もう少しましなホテル探して、俺も一緒にそっちに移ろうかと思ってるんだ。

それで今朝から方々連絡しまくってるんだけど、やっぱ時期が悪いのかな、心当たりはどこもいっぱいでな。それで、これからちょっと足で探そうかと思ってさ。

サンジェルマン・デ・プレとか、今、お前がいるカルチェ・ラタンの辺りは結構数があるから、お前のとこに行く前に何件か当たってみようと思ってるんだ。

それでいいのがあれば即決して、すぐに移っちまおうぜ。

そんな訳でそっちに着くの、昼くらいになっちまうかも・・・。」

「ああ、分かった。手間かけてすまんな。

昼前には部屋にいるようにするよ。なんかあったら、また連絡くれ。」

〝よし、時間が空いたんならホテルの周りでも歩き廻ってみるか。〟

パリ滞在中の細かな予定を徹と相談した上で決めることになっている康之にとって今はそれぐらいしかやることがなかった。

勢いよくベッドから身を起こして立ち上がった途端、不意に目眩を感じて机に両手をつく。

〝やっぱ、これ時差ボケだな・・・〟

康之は痺れる頭を抱えて再びベッドに倒れ込んだ。

ドアをノックする音に気付いて顔をあげた康之が腕時計をのぞき込む。

徹が来たにしてはまだ時間が早かった。

康之はベッドから降りると、ふらつく足でドアに向った。

「どなた?」

ドアの外へ声をかけても返事がない。

康之は仕方なく少しだけドアを開いた。

廊下に顔を突き出すと、康之の顔のすぐ下で、赤いリボンをきちんと首に巻いた少年が康之を見上げていた。

「なんか用?」

康之の問いかけに無言のまま首を横に振った少年が踵を返して廊下を駆け出す。

階段まで行って立ち止まり、部屋の扉から顔を突き出している康之に一瞬視線を向けたかと思うと、少年は一気に階段を駆け下りて行った。

「・・・なんなんだ、あいつ?」

首を捻った途端、目眩に襲われ、康之はフラフラとベッドへ向かった。


「おい浅川、物騒だから鍵ぐらいかけとけ。

・・・んっ、どうした、具合でも悪いのか?」

薄く目を開けると、ベッドの横に立った徹が心配そうに康之を見下ろしていた。

「いや、ちょっと頭が痛かったもんだから・・・。すまん、もう昼か?」

「まだちょっと間がある。遅くなってすまなかった。

・・・でも、お前ほんとに大丈夫か?」

「ああ、大したことはないと思う。たぶん時差ボケだろう。」

それを聞いて表情を緩めた徹は椅子をベッドに寄せて馬乗りになった。

「まあ、初めての海外だからな、無理もないか。」

ベッドから身を起こして顔をしかめる康之に、徹が申し訳なさそうな顔を向けた。

「それでな、今朝電話で話したホテルのことなんだけどさ、いろいろ当たってみたんだけど、結局空きがないんだよ。

ただ、ひと部屋だけ明日の晩からなら空いてるところがあって、一応押さえるだけは押さえてきたんだ。この近所のわりと小奇麗なツインルーム。もちろんバス、トイレ付き。」

「ああ、いいんじゃないか。」

「よし、じゃ決まりだな・・・お前、もうひと晩、ここでもいいか? 

なんだったら俺がこっちに移って、おまえ、俺の部屋に泊まる?」

「いや、それも面倒だ。そこまでしなくてもいいよ。

まあ、この部屋にしたって住めば都さ。

それに屋根裏部屋って俺、生まれて初めてでさ。なんか風情があっていいぜ。」

「そうか。ごめんな、お前だけこんな部屋で。」

「いや、そもそもこっちの事情も調べないで、この時期に旅程を組んだ俺の方が悪いんだ。ホテル押さえる苦労かけて、こっちこそ申し訳ない。」

「そんなの気にすんな。いや、実は俺も前にきた時、この部屋に泊まったことがあるんだ。

確かに風情だけはあるんだよ。まあ、パリの屋根裏部屋だもんな。

でもさ、一階から七階まで延々と階段を上らされるのはキツイだろ?」

「まあ、それはあるな。」

「出かけようと思って下まで降りて、そこで忘れ物とかに気がついてみ。

正直、嫌になるぞ。」

「そうだろうな。しかし、まあ、階段上り下りするのも、あと何回もないだろ。」

二人は明日の晩から宿泊するホテルに確定の連絡を入れ、その後、昼食を取りながらパリでの行動スケジュールを相談しようと部屋を出た。


 長い階段を上って部屋へ入ると、康之はベッドに座ってため息をついた。

徹は昼食の後、初めてパリを訪れた康之を案内して市内の主だった名所を一巡りしたのだった。そして、その後二人で夕食を摂って、今しがた別れたばかりだ。

明日は別行動を取って、夕方に明日から泊まるホテルで合流することになっている。

ワインの酔いもあって、康之は早めにベッドにもぐり込んだ。


カーテンの隙間から淡い光が差し込んでいる。

康之はベッドに落ちる光で目を覚ますと大きな伸びをした。

腕時計をのぞくと、時計の針は八時半を少し回ったところだ。

〝ああ、さすがによく寝たな。移動の疲れが出たのかな・・・

航空運賃ケチってアエロフロートでモスクワ経由だもんな。〟

起き上がって頭を振ってみると、昨日さんざん悩まされた頭痛は消えているようだった。

しかしその代わりに身体の奥に疼くような不快感がある。

これも時差ボケのせいだろうと考えた康之は強引にベッドを出て構わず窓辺に歩み寄った。

窓を全開にした康之の目に晴れ渡った青空の下、昨夜とはまた違った表情をしたパリの街並みが飛び込んできた。

〝よしっ、じゃ行ってみようかパリ大学!

その前に腹ごしらえだな。〟

康之はピッチャーの水をホーローの洗面器に流し込んだ。


 部屋を出た康之は〈アンリの店〉へ向かった。

昨日の朝、店に行った時に感じた自由で気ままな雰囲気が気に入っていたのだ。

 康之が中に入っていくとカウンターの向こうで、昨日と同じギャルソンが食器を洗っていた。

今日は順番待ちの列はない。

「ボンジュール」と声をかけながら康之が近付いていくと、作業の手を止めたギャルソンが挨拶を返してきた。

コーヒーとサンドイッチを注文した康之は昨日のことを思い出して、カウンター越しに彼に声をかけた。

「あの・・・昨日の朝もきたんですよ。それで今日と同じものを注文したんですけど、その時あなたが僕に言ったこと・・・実はあれ、よく聞き取れなかったんです。

あの時なんて言ったんです?」

「ああ、初めていらっしゃったお客さんだったんで、サンドイッチって言われた時、普段我々がカス・クルット、って呼んでるバゲッドを使ったサンドイッチでいいのか、それとも英国スタイルのサンドイッチなのか、どっちだろう思いましてね。

それで英国スタイルですか、って伺ったんです。

お答えが無かったんで、勝手に判断して英国スタイルのほうをお出しました。

申し訳ありませんでした。かなり混み合っていましたので・・・。」

「なんだ、そうだったんですか。いや実を言うとお腹すいてたんで、どっちでも良かったんです。おいしかったですよ、昨日のサンドイッチ。」

「それじゃ、今日も英国スタイルでよろしいですか?」

「いや、今日はカス・クルットを使った方でお願いします。」

「分かりました。こちらへはご旅行で?」

「そうなんです。日本から。」

「それなら、この店自慢のサンドイッチをお出ししましょうか? 私が言うのもなんですが、ウマイですよ。」

「おおっ、じゃ、それ、お願いします!」

ギャルソンが作業にかかると康之はカウンターに片肘をついて、改めて店内を見回した。

昨日に比べればはるかに客の数が少ない。

〝サルン〟と呼ばれる店内のスペースとテラス席合わせて五、六人の客が新聞を広げたりコーヒーを飲んだりしてる。

今日は天気が良いのでテラス席が人気のようだ。

康之が店内を眺めていると「お待たせしました。」と言うギャルソンの声と共にカウンターに皿を置く小気味の良い音が聞こえた。

ふり返って見るとバゲットサンドの載った皿とコーヒーが並んでいる。

バゲッドサンドを一目見て、康之は息を飲んだ。

バゲッドの半分程を縦に割ってその中にハムやゆで卵、トマトなどの具がこぼれ落ちんばかりに詰め込んである。

「うわ、でかっ・・・」

口を半開きにしたまま顔を上げると、ギャルソンは涼しい顔でグラスを拭いている。

彼は康之の視線を横目で捉えてニヤっと笑った。


「よう、いらっしゃい。」

突然肩を叩かれた康之が顔を上げると、カフェのオヤジがコーヒーを片手に立っていた。オヤジはコーヒーを一口すすり込んで親しげな顔を康之向けた。

「あんた日本からきた学生だって言ってたよな。

レ・アールで働く気になったのかい?」

〝違う違う〟と康之が首を横にふると、オヤジは特に残念そうな素振りも見せずにあっさりと頷いた。

「そうかい。まっ、そんなことはどっちでもいいんだけどな。

おっ、カス・クルットか。それな、うちじゃ一番人気なんだぜ。

どうだ、うまいだろ? ところであんた、パリは初めてかい?」というオヤジに、口いっぱいに頬張ったサンドイッチをようやく飲み込んだ康之が答える。

「そう、パリは初めて。って言うか、そもそも海外に出たのはこれが初めて。」

それを聞いたオヤジはうれしそうな顔で「おお、そうか。初めての海外旅行でパリか。

正しい選択だ。いや、よくきた。」と言って何度も頷いた。

そして急にハッとしたような表情を浮かべて康之に目を向ける。

「そうだ。昨日あんたが日本からきたって聞いて、後になって、俺、フッと思い出したことがあってな・・・いや、子供の頃に祖父さんから聞いた話なんだけどさ・・・

なんでも俺の祖父さんが子供の頃、ここで日本人が働いていたんだと。」

「えーっ、お祖父さんの時代に日本人がこの店にいた?」

「ああっ、確にそう言ってた。」

「じゃ、この店もかなり古いんだ・・・」

「そう。ここは俺の曾祖父さんが始めた店なんだ。

だから俺、四代目。

うちみたいに同じ場所で四代続いてるってのは、パリでもそうそうないんじゃないかな。」

「すごいですね・・・四代目!」

「だろ、なんでも曾祖父さんが三十の時に祖父さんが生まれて、その年、1900年に始めたそうだ。」

「えーっ! 百年以上前からあるんだ・・・。

百年前っていったら日本じゃ明治時代だ。すげえな、明治時代創業のカフェ!

しかし、その時代に日本人がねえ・・・」

康之がそう言ってオヤジに目を向けると、オヤジは鼻の下にたくわえた髭をなでながら自慢げな顔で頷いた。

 それから康之は暇だったらしいオヤジにつかまって店の話を聞かされた。

古い写真を引っ張り出してきたオヤジの話は延々と続いた。

中でも、彼の一番の自慢はこの店が創業以来、移転をせずにずっとこの場所で営業していることのようだ。

当時、普及し始めた写真が珍しかったのだろう。オヤジの曾祖父さんが撮ったらしい開業当初の店の写真が何枚もあった。

話している本人も懐かしかったのか、オヤジの話は尽きることがなかった。

そして、オヤジの名前だと思っていたアンリというのは、実は創業者である彼の曾祖父の名前であり、オヤジ本人はピエールという名前であること、さらに話が祖父さんや父親のことに及ぶに至って、康之は話に夢中になっているオヤジから逃げ出した。

「明日も待ってるぞ~。」というオヤジの声に送られて康之は店を出た。

〝やれやれ、やっと解放されたか。さて、それじゃ・・・〟

康之は当初の予定通り、パリ大学図書館への潜入を試みようと街を歩き出した。

近道をしようとして路地に入ると、そこには時間を経た古い外壁の建物が並んでいる。

その建物に挟まれた細い路地を歩くうち、康之は十九世紀にでも迷い込んだかのような不思議な感覚にとらわれ、時間を忘れて彷徨い歩いた。

そして何気なく時計をのぞき込むと、時計の針は午後四時を指していた。

〝うわ~やべっ、もうこんな時間だ。

康之は夕方の五時に徹と今晩から宿泊することになるホテルで合流することになっていた。

ホテルのチェックアウトもすっかり忘れて街を歩き廻っていた康之は、慌てて大通りを目指して走り出した。


荷物を手にして廊下に出ると、開けた扉からもう一度、部屋を見渡す。 

〝忘れ物はないな。よし、これなら間に合いそうだ。〟

康之は部屋の扉を閉めて急いで階段へ向かった。

荷物を抱えて階段の上まできた時、赤いリボンを首に巻いた少年が目の隅をかすめ、顔が反射的に少年のいる方向に向く。

〝あっ、昨日の坊主〟と思ったその時、つま先を手摺の足元に引っかけて体勢を崩した康之は荷物を抱えたまま、階段に倒れ込んでいった。

永遠とも一瞬とも思えるような時間が過ぎた。

階段の踊り場まで一気に転げ落ち、壁に身体をぶつけてようやく動きが止まる。

ホッとしたその瞬間、頭に強烈な衝撃を受けて、康之は一瞬意識を失いそうになった。

頭を振って床から顔を上げると、目の前には粉々に割れた真っ赤なコスモスの鉢植えが転がっていた。

〝うううっ・・・。〟

転がり落ちた痛みと鉢植えに頭を直撃された衝撃で詰まっていた息が少し楽になると、康之は額に手を当てて階段の上を見上げた。

そして恐る恐る身体を動かしてみる。

あちこちぶつけた痛みはあるが、重大な怪我はないようだ。

なんとか立ち上がって、階段を這うようにして上る。

少年の姿はどこにも見当たらなかった。

〝・・・あいつ、神出鬼没〟

頭を振りながら痛む足を引きずり、康之はやっとの思いで一階のドアまでたどり着いた。

〝やれやれ、思ったより時間かかっちまった・・・あれっ?〟

ドアノブにかけた手を止めて、康之はマジマジと手元を見つめた。

〝なんだこれ・・・いつ替えたんだ?〟

今朝までそこにあったドアノブは取り払われ、代わりにレバーを押し下げて開閉する旧式なタイプのものが付けられている。

〝なんだってこんな古いのに替えたんだろう?〟

不可解な出来事に首を捻りながらもホテルの外に出た康之は、目の前の路地を見て微かな違和感を覚えた。

なにかが違っている。

はっきりとは分からなかったが、なにかが違っているのだ。

もともと人通りの少ない路地には通行人の姿もなかった。

ポカンと口を開けて周囲を見回した康之はあることに気が付いて目を瞠った。

〝あれっ、石畳だ。さっきまでアスファルトだったよな・・・。〟

不安に駆られて、路地から表通りに出た康之が建物を見上げると、そこには、ついさっきまであったはずのホテルの看板の代わりに本屋の看板が掲げられていた。

恐る恐る看板から路上に視線を戻した康之の目に飛び込んできたのは、通りを行き交う馬車と時代がかった服装の通行人たちの姿だった。

立ち尽くす康之の前をシルクハットを頭にのせた男たちや、丈の長いドレスにバカでかい帽子を被った女たちが康之に不思議そうな目を向けながら通り過ぎて行く。

〝えっ! どういうこと・・・?〟

呆然とその光景を見つめていた康之はある事に思い至って息を飲んだ。

〝うそだろっ、ちょっと待ってくれよ・・・〟

ふと見ると、本屋の看板の下の舗道に新聞を売るスタンドが出ている。

ふらふらとそこに近づき、並べてある新聞をのぞき込んだ康之は天を仰いだ。

新聞の日付は1909年10月16日になっていた。

見事に口を開けたまま、呼吸すら忘れて康之はじっとその日付を見つめた。



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