44. 震える薔薇
素早く部屋に身を滑り込ませたとき、そこに袖の長いゆったりした玉虫色のドレスを着た後姿の女性が立っているのを見て、ルシータは一瞬固まった。
だが覚悟していたようなハラートは、静かに声をかけた。
「アリーナ」
ゆっくりと振り向いた美姫の瞳を、いろんな感情がよぎったのか、ドレスと同じ色の光がひらめく。
怒り、恨み、悲しみ、喜び――なおどうしようもない、想い。
「……おまえたちが来るのはわかっていたわ。待っていたのよ」
声の主の腹は大きく前にせりだしている。
ルシータは夢で見た少女との違和感を感じながら、何も言おうとしないハラートに代わって話し始めた。
「アリーナ王女、わたしはルシータ。光を導く使命を帯びています。わたしは光を甦らせるために来ました。ライレーン王女を目覚めさせるために――
でもそのために闇を倒すという考えが、間違っていたことに気づいたのです。
戦いが避けられるならその方がいいと」
その言葉に、意外そうな顔をしたアリーナが口を利いた。
「戦いを避ける? いまさら何を言うの……おまえたちが仕掛けた戦いじゃなくて?」
ルシータは一歩前へ進み出ると、誠意を示そうとひざまずいた。
そして、
「いいえ、王女様。この戦いは十年前に始まったのです――あなたの父上、ダーク王がブライト王を殺したときに。
わたしは光の神殿で、闇に包まれても内側から輝く光を見ました。
戦いは無意味です。
光も闇も、共にあるべきです!」
「黙りなさい! おまえたちの言うことなんか信じないわ! みんな……表面だけ」
その目はハラートを睨み、冷たく燃えている。
「……わたしはおまえを許さないから、ハラート」
「わかっている。許してもらおうとは思っていない」
そう言うと、ハラートは両腕を広げた。
「だがもし君がダーク王を説得してくれたら、わたしたちの運命は変わる」
ハラートの言葉は臣下のそれではなく、アリーナ王女と対等だった。
ルシータには何となく奇妙に映ったが、二人に違和感はないようだ。
それほど二人は近かったといえる。
「どう変わるの?! おまえが裏切り者であるということは変わらないわ!」
ハラートの全身から慈しみのオーラがあふれ、それらはすべてアリーナに向かって流れていった。
ルシータは、まるで岸辺に立ってなすすべなく二人を見守っているような錯覚に襲われつつあった。
「聞いてくれ、アリーナ。わたしの心は今まで二つに引き裂かれていたんだ。光と闇、どちらかを選ぶしかないと。
だがルシータが共存という道を示してくれた。
思い出してくれ、アルファード王の時代を。光と闇が、ひとつに統治されていたときを」
アリーナの真紅の薔薇の蕾を思わせる唇が薄く開かれ、動揺しているのが見て取れた。
ルシータは水に溺れる者を励ますように、小さく、だが強く声をかける。
「そう、共に生きるのよ、アリーナ王女」
「アリーナ、わたしにはたったひとつの希望の道だ。君にとっても……もし君が、わたしが君を愛していると同じように、わたしを愛してくれているなら」
「うぬぼれないで!」
王女の声は震えていた。
「うぬぼれないで……誰がおまえなど。わたしはダークキングダムの王女よ。この国のために、お父さまのために生きるの。
もうすぐ子供も生まれるわ。おまえなど……」
「ナビル将軍の子か?」
陰鬱にハラートが問う。
「違うわ」
アリーナは唇を噛むと、あっさりと否定した。
「ナビルには指一本触れられてはいない。――お腹の子は、サーグの子よ」