二番。 愛されたいんです。 に
駅を降りてすぐに目に当たる、入学式の時には驚かしてくれた桜並木は桜花と入れ替わりに青々とした木の葉が成り、夏の訪れを感じさせている。葉が太陽光を遮り、すり抜けた光が木漏れ日となって地面を水上のようにユラユラ漂っていた。
その並木通りを真っ直ぐ進んで行けば、立派な門の先に石造りの講堂が見えてくる。そこが「廉桑大学」である。
並木通りをスタスタと足早に突き進む一人の少年は、先程の「彼」であった。
「三時間目からだから……何だ、まだ一時間以上もある……」
表情はすっかり元に戻っていたが、目一杯興奮した後らしく頬の赤みは消えていない。人目が気になるのか帽子を深く被っている。深緑色のショルダーバッグを揺らし、合わせて上着として着用している白い半袖パーカーの裾がヒラヒラ動く。彼はただ一点、木々の奥で微かに見える大学の講堂を見据えていた。
「うぅぅ……また暴走した…………それに『汚れたい』だとか……本格的に変態さんじゃないか……」
トイレでの妄想を思い出すと、顔から火が出るほど恥ずかしくなって来る。後悔の感情も湧き出した。
「それに……結局……車内で…………しちゃったし……」
あの後もキッチリ気を締めて電車に乗った物の、学生へ社員へ老人へと、節操なき性愛の矛先は様々な人に向けられてしまい、抑え切れずに妄想をして一人ニヤニヤしていた訳だ。
今は歩く事で気を紛らわしているが、油断するとまた妄想状態になってしまいそうだ。行き交う人の顔をついついジッと見てしまう。
「あぁぁ……絶対……顔、赤くなってる……ハズ…………」
襟元は薄く濡れている。トイレで気起きさせる為に行った洗顔も、全くと言っていいほど意味をなさなかった。今もまだ顔は紅潮している。
「……まぁ、学校に行けば……『アズマくん』もいるし……ふふふふ…………」
「アズマくん」と言う、恐らく人名と思わしき単語を言ってすぐに、彼の頬はニヘラとだらしなく緩まされた。我慢も虚しく、また最初のような表情へと逆戻りしている。
この「アズマくん」と言う人物は電車内で人物を見て妄想した人々とは違い、その場にいないのに妄想している事から、彼にとっては特別な存在なのだろうと伺える。現に早く会いたいのか、授業時間まで一時間あるのに急ぎ足は止まっていない。行き交う学生たちをすり抜け、校舎へとどんどん進んで行く。
彼の名前は「宮雲 憂次」。身長は一七〇センチ程度で、三月生まれ十八歳の男子大学一回生である。低血圧気味のぼんやりとした話し方と、端整で中性的な顔立ちが特徴的だ。
性格も体格もやや弱々しい感じがするので、男らしいと言うより女性的な感じのする青年である。
「へへへ……『アズマくん』、今日も寝癖があるのかな……なかったらクシャクシャに髪の毛掻き回して作ってあげよう…………あったら触ってあげよう……バネみたいに、お琴の弦みたいにミョンミョンするんだろうなぁ今日も……ヒヒッ!」
今度は「アズマくん」で妄想を開始する。興奮し出してきたのか、並列して息遣いも荒くなって来た。ついでに無邪気そうであるが、とても奇妙な笑い声も発している。
「首筋見たいな……『アズマくん』の首筋えっちぃもんね……クフフ……舐めたいなぁ」
そのまま宮雲は左手を晒け出している鎖骨へと持ち上げて行き、そこをなぞり始めた。ツゥっと骨をなぞれば、時にコツコツと叩いてみたり、窪みに指を突っ込ませたりしている。指先でのアクションを起こす度、快楽が表情へ出るのを抑えるかのようにしてヒクヒクと上へ口元をひきつらせた。
この妙な行動は宮雲のクセの一つで、早い話「一人の人物に対して強い性的興奮を感じた時のクセ」である。鎖骨部分をいじくる自分の指の感触に痺れているのだろう。
「はぁぁぁ……気分よくなって来ちゃったなぁ……早く会いたいなぁ」
会いたい気持ちが上乗せされ、更に足のスピードが一段階上がる。
「何してんのかな……あ、『アズマくん』一時間目はあるから授業中だね」
更にスピードが上がり、一歩一歩の踏み込みにも力が無駄に入っているようで、靴底で道路を叩く音を響かせる。
「じゃあ、今頃は作曲だね。ギター弾きながら楽譜書いてるのかなぁ……ふふふ……ボク宛ての曲だったらいいのにな…………」
スピードはまた上がる。踵を付けるのが煩わしくなったのか、爪先立ちで走り出した。
「へへ……ふふふっ……あぁ『アズマくん』……我慢出来ないよ……!」
微睡むような妄想状態はついに暴走寸前までボルテージを上げた。更にスピードを早め、全力疾走で校門に飛び込もうかと踏み込んだ……
……その時である。
「ま、ま、待って下さい!」
誰かが誰かを呼び止める声が聞こえた。自分のすぐ真後ろより聞こえた気がしたので、とりあえず足を止めてみた。ついでに妄想も止まった。
「あぁ……止まってくれたぁ……」
すると今度は安堵する声。どうやら呼び止められた誰かとは、宮雲のようである。乱れた帽子とパーカーを直しながらクルリと振り返った。
「あっ……」
振り返り、目が合うと、彼を呼び止めた人物は小さく声を漏らした。
後ろに立っていたのは、フリフリとした服が可愛らしい小さな女性であった。小顔で小柄で、小さなおさげとあどけなさが残る顔立ちから、何とも守りたくなってしまいそうな、そんな少女である。
頬も何だか仄かに赤くなっている。
「わぁ……あ、その……わわわ!」
宮雲の顔を見るなり、頬の赤らみが顔全体へ侵食したように赤面し始めた。その様子を見て宮雲は、心臓が急速伸縮したような感覚に陥る。全身の血管が破れそうなくらい、血が高速で巡っているかのように熱さを感じた。
(あああ!!しまった、妄想の後だから変な顔してたかな!?)
電車内で女子高校生とのやり取りがフラッシュバックする。その通り、彼の表情は紅潮はしていたのだがそれだけではなく、妄想直後の為に緩みきった頬と垂れた目の恍惚の表情がダイレクトに見られたのだ。
「い、あ、そのえっと……な、何でしょうか?」
動揺を悟られないようにと、何とか平静を保とうと返事は返したが、声が少し震えてしまう。
表情は焦燥を纏いキッと引き締まったが、それでも表情は変わらず。寧ろ、垂れた目が中途半端に上がったばかりに流し目となり、切なそうな表情となってしまう。
「わ、わわわわ!!??」
それが更に彼女の気持ちを揺らす。そもそも彼はダボダボの大きなサイズのTシャツを着ているせいで襟元が緩く、パーカーのチャックから覗くように胸がさらけだされている。形の良い鎖骨と華奢な体格、更には色白気味の肌が色気を放っていた。
彼女にとってみたら「誘われている」と勘違いしてしまうほどである。
「はぁぁ……」
「……ど、どうしました……かね?」
見惚れる彼女に、宮雲は恐る恐る問い掛ける。問い掛けを聞くなり彼女はハッと意識を戻し、ワタワタと「何でもないです!」と言えば表情を取り繕い、平常心を装って会話を始めた。
「きょ、今日はいい天気ですね!!」
「え?」
会話を始めたとは言え、いきなり世間話から始まったので宮雲は面食らう。一瞬だけ返答に戸惑うも、空を見上げてみれば晴れ晴れとしたスカイブルーが空を覆っている。
立体観があり、質量を感じさせる白い巨大な入道雲は、夏の訪れを示唆しているかのようだ。
「…………そうです……ねぇ。梅雨明けですからね、青空が気持ち良いですね。お昼頃には昨日より四度くらい暑くなるみたいですよ」
「あ、そ、そうなんですか?ま、参りましたね……今朝は肌寒かったのでガーディガン着てきちゃいましたよ……」
困ったようにガーディガンの生地を引っ張る彼女が無邪気で面白くて、ついついクスリと笑ってしまった。その動作自体にも思わせ振りを彼女に感じさせてしまい、ドキリと胸を躍らせるのだ。
幾分か気も落ち着いたのか、宮雲の表情は普通に会話を楽しむような、優しげな微笑みとなっていた。それでもやはり、彼女の首筋やスカートからチラリと覗く太股へと視線が動いてしまうのだが。
「その白いパーカー、お洒落で涼しげで格好いいですよね!」
「ははは!いやいやお世辞が上手いですねぇ……ボクよりもアナタのガーディガンの方がお似合いですよ?何と言いますか……愛らしさがあると言いますか、純粋な無邪気さがあると言いますか」
宮雲に服を誉められ、「そんな事ないです!」と赤い顔で謙虚に否定する。しかしその赤い顔からして、満更でもなさそうに見える辺りは嬉しかったのだろう。
「あぁ……そういえばアナタ、ボクを呼び止めたじゃないですか……何か御用でも?」
閑話休題と言うように話は最初へ戻る。その質問をされた彼女は焦っているように「あー……」と唸っている。
宮雲はその真意に気付いてはいないのだが、彼女は宮雲と話がしたいが為に衝動的な行動として呼び止めたのである。よって、「何故呼び止めたか?」についての言い訳は考えていなかった。
(話がしたかっただけ……じゃ、理由にならないかなぁ……)
ワタワタと周囲を見渡し、理由を探そうとする。そして見付けたのが、並木通り脇にあるバーガーショップの「アメイジングバーグ」である。
「そ、そろそろ十二時ですよね!!お暇ですか!?」
意を決しての大勝負であった。必死さのあまり目がカッと見開かれ、興奮気味に呼吸も荒くなっていた。その勢いの凄さに宮雲は少し身動ぎする。
「あ、え、そ、そのぅ…………」
脳裏に「アズマくん」が浮かんだ。すぐにでも会いたい気分である。なので、やんわりとお断りしようかとも少し考えたのだが如何せん、御人好しな性格が為にその考えは、考えてはいても言い出せかった。
そしてその考えは、再び現れた「新たな妄想」で蜃気楼のように消えてしまった。
(強引……無理矢理……捕らえて、離さない感じがする……あぁ、愛されているようだ…………!)
腹の底に、ゾワゾワした感触が溢れ出した。その感触に快感を感じてしまい、どんどんニヤけて行く。釣り上がった口元を見られないように、手で隠しつつ、帽子を少し下げた。今にでも悦びで悶えてしまいそうでもあるのだが、彼女に返答は返す。
「だ、大丈夫……です。時間は……いっぱい……ありますし……お暇ですよ……?」
「ほ、本当ですか!?じゃあ、昼食がまだでしたらアメイジングバーグで食事なんてどうですか!?」
呼び止めた理由と言うより、普通に昼食の御誘いになってしまっている。言い終えてから彼女は脳内で慟哭した。
(うわあああ!!!!理由になってないじゃぁん!!普通に昼食の御誘いじゃぁん!!ま、待って、今から起死回生の理由を思い付くから!!)
どうしよう、どうしようと赤面したまま目を潤ませて首をフルフル振る彼女に向かって、妄想状態の宮雲は殆ど夢見心地に近い気分で続けた。
「いいですねぇ……朝御飯が少なかったんで……ね……お腹空いているんですよね……ボクで宜しければ…………ふふっ、御一緒致しますよ」
宮雲自身も理由になっているだとか、なっていないとかは関係なくなっていた。ただこの少女と一緒にいたいと言う欲望の囁きにより、彼女の誘いに乗ったのだ。
承諾を聞いた彼女は、「理由になっていないのに、どうして疑問にしていないの」と考えるよりも先に喜びが全てを支配し、そんな問いがどうでも良くなってしまった。それに、宮雲の喋り方がどことなく妖艶さを出していた事もあり、夢中になっていた。
「有り難う御座います!!そ、それじゃあ、行きましょうか!!」
「えぇ……あと、あのお店のミートソースバーガーは……ボクのオススメですよ……」
宮雲は、少女の手に引かれるようにして、アメイジングバーグへと歩き出した。その二人の様子と言えば、初々しいカップルその物でもあった。
アメイジングバーグを出て、宮雲と入れ違いになった少女がいた。宮雲らは会話に夢中でその少女に気付かず、少女の方もただのカップルだと思い気にも留めなかった。
腰まで長い黒髪をなびかせ露出させた肩を振るわせながら宮雲と入れ違えた後、十秒後に振り返った。最初は気にも留めなかったのだが、宮雲の身形に何か妙に感じた点でもあったのだろうか。ジッと、アメイジングバーグの入り口を見ていた。
もうあの二人の姿は見えなかったのだが、その少女は宮雲の姿を思い返しながらポツリ、呟いた。
「……綺麗な鎖骨……してたわね……」
それだけ言うと名残惜しそうに流し目でアメイジングバーグを視界の端に留めつつ、やがて店が完全に見えなくなったのを機に首を正面へ向き直らせた。
その彼女の進行方向は、廉桑大学だ。