白雪姫とユカイな悪魔たち
さぁ、契約を交わそう。
この証書におまえの血で署名すれば、どんな願いだって叶えてやるよ。
代価はなにかって? そうだな。ふつうならおまえの魂、というところだが、若い女の心臓をひとつ、もらおうか。
だけど、ただの女じゃ物足りない。
肌が雪のように白く、頬は血のように赤く、髪は黒炭のように黒い。
そう、〈白雪姫〉の心臓を――。
(やばッ目が合ったッ)
霧が渦巻く深い森の中で、ただならぬ雰囲気のにらめっこが続けられていた。
一方は、あどけなさの残る少年。その手には、銀製の鳥かごをぶら下げている。鳥かごの中は空っぽで、扉の鍵もかかっていない。
対峙するのは、少年の目算では、全長二メートル五十センチ、体重三〇〇キロはあろうかという野生のヒグマである。
後ろ足に重心を乗せ、見事な立ち姿を見せるヒグマは、その円らな瞳で、食い入るように少年を見つめていた。
季節は秋。冬眠を控えたヒグマは食べ盛りだ。
(実はさっき運良く鹿を仕留めて、もうお腹いっぱい。人間の子どもは別腹だけど、きょうはちょっと無理かなぁ……なんて嬉しい展開になってくれ)
少年は神に祈った。ヒグマに祈った。存在するのかわからなかったが、ヒグマの神にも祈ってみた。すると頭の中に、ヒグマの毛皮をかぶり、大振りの斧を手にした野性味あふれる荒々しい女神像が浮かんだ。
「……そんな神さまイヤだな」
思わず突っ込みを入れた途端、ヒグマが動いた。しまった、と少年は叫ぶ。
ヒグマは巨体を揺らし、地を蹴って駆け寄ってくる。その姿は、恋人のもとに駆け寄るうら若い乙女のように軽やかだ。半開きの口からは、恥ずかしげもなく涎を飛ばしている。
(やっぱり空腹でしたかーっっ)
少年は走った。とにかく走った。
次々と現れる木々の根を避け、垂れ下がった枝をくぐる。けれど相手も追ってくる。振り返ってわざわざ確認しなくても、枝葉をなぎ倒す音でわかる。
もう無我夢中で、手と足をむちゃくちゃに動かした。視界がぐるぐると回った。
もはや自分が走っているのか転がっているのか跳んでいるのか、はたまた空を飛んでいたとしても、たぶんわからない。
けれど。
ふいに、足がもつれた。やっぱり空は飛べなかった。
少年は顔から地面に倒れこんだ。大地を埋め尽くしていた落葉が一斉に舞い上がる。
すぐ後ろには、ヒグマの息遣い。
(あぁ、これが最期の光景か)
舞い上がった木の葉が、はらはらと、天使の羽のように降り注ぐ。死に際にしては、やけにきれいな景色だった。
(死ぬ前に、せめて、『お母さん』に会いたかったなぁ)
「少年。そのまま伏せていなさい」
(……こえ?)
空耳かと思った。太陽の光すらまともに射さないこの不気味な森で、凛とした、響くような声を聞くなんて。
吸い寄せられるように顔を上げた瞬間、巨大な塊が少年の鼻先をかすめていった。
ガッッ。にぶい音。
少年の灰色の目には、ぎらりと光る一斤の斧が映った。ヒグマの後ろにそびえたつトウヒに深々と突き刺さっている。前脚を持ち上げ、イタダキマスの体勢に入っていたヒグマは、剥製のように固まり、斧が投じられた方向を見ている。心なしか、涙目になって。
「ブラウン。だれが勝手に出歩いていいと云いました?」
先ほどの凛とした声の主が、草木を踏みしめて、歩み寄ってくる。
ヒグマはぶるぶると震えだす。
腹を減らした野生のヒグマを、ここまで恐れさせる声の主とは。見たいような、見たくないような。
少年は、ゆっくりと体を起こすと、覚悟を決め、いちにのさん、で振り返った。
「あっ」
思わず、声を漏らす。
(きれいな……おんなのひとだ)
まず、眼に惹かれた。転がり落ちそうに大きな、菫青石の双眸だ。
細身の体をまとう黒服、そこから現れる白い手足。整った顔の造形をより一層引き立てる黒炭のような黒髪と血の気のない淡雪のような肌。それなのに、頬だけは薔薇色に色づいている。
神がありったけの要素を注ぎこんだような美しさに、少年は釘付けになる。つい先刻まで、ヒグマに命を狙われていたことなどすっかり忘れていた。
「城の厨房を荒らした罰として、あなたには七日間の謹慎を命じていたはずですよ。そんなあなたが、なぜここにいるのですか」
にじり寄る美女からの問いかけに、ヒグマはたまらず口を開く。
「グワグワグゥ」
言葉はわからないが、身振り手振りで、必死さだけは伝わってくる。
「そうですか、仲間に狩りに誘われて、付き合いで、ですか」
まるで酔っ払いの言い訳のようだった。
「わかりました」
美女はいったんヒグマから離れると、トウヒに突き刺さった斧の柄をぐい、と掴んだ。
「ブラウンの釈明が事実なら、彼ひとりを処罰するのは不公平ですね」
みしっとトウヒを軋ませ、片手で斧を担ぎあげると、黒い髪を揺らして後方を振り返った。そこでは、仲間のヒグマをはじめとする狐や鹿たちが集まり、息を呑んで一部始終を見守っていた。
「彼を狩りに誘った者、前に出なさい。一緒に処罰します」
斧の刃先がギラリと光る。
居並んだ動物たちは、必死すぎるほど必死に首を振り、結局、ブラウンの味方をする者は現れなかった。
「どうぞ、座ってください」
美女に促され、少年は河原の岩石に腰を下ろした。落差数百メートルはあろうかという滝壺から流れ出る水音に、あざやかな緑陰がまぶしい。
「膝の傷を見せてください」
「へ、平気です。擦りむいただけで」
「いいえ、せめてもの償いとして、手当てをさせてください」
美女は冷水に浸した織布で傷口を拭くと、肩から提げていた麻袋から小さな瓶を取り出した。茶色のどろりとした液体が入っている。
「これは、オトギリソウの根を煎じたもので、止血に用います。じっとしてください」
手馴れた様子で薬液を塗布し、やわらかな布で患部を覆う。手当てが終わると、美女は改めて少年と目を合わせた。
「わたしはリゼルといいます。先刻はブラウンが失礼しました。かわってお詫びします」
深々と頭を下げられ、少年は恐縮した。
「い、いいんです。彼らの縄張りに立ち入ったおれがいけないんだし。……リゼルさんは、平気なんですか?」
「彼らは皆、友人です。八年前からともに過ごしてきた家族のようなものです」
「じゃあ、あの、斧は」
「間伐をしていました。ほかにも、根元が腐って折れた倒木を片付けたり、冬眠に入る友人たちの巣作りを手伝ったり」
彼らへの思いやりを示すリゼル。だが少年は気付いていた。どんな言葉を口にするときも、リゼルの眼も、唇も、顔の筋肉も、まるで感情を見せず、死んだように無表情だということを。
「……あの、八年前からともに過ごしてきた、と云いましたけど、もしかして、この森に住んでいるんですか?」
「はい。わたしは、森を所有する〈ある方〉に代わって、この地を守るのが役目。ですから、ずっとこの森に住んでいます」
「ひとりで、ですか?」
「ええ。森の外には、大勢の人間が暮らす街がありますが、わたしは、その方との約束で森を離れることができないのです。それに、わたしは、人の街ではすでに亡き者として扱われていますから」
リゼルの唇が、軽く、引き結ばれる。
そのとき、足元にあった少年の鳥かごが揺れた。
『――――さみしい。』
なにも棲んでいない空っぽの鳥かごの中で、何者かが、鳴いた。
少年はすぐに鳥かごを手に取ったが、もうなにも聞こえなかった。
「なにか見えるのですか?」
鳥かごを覗きこむ少年に倣い、リゼルも屈んで中を窺う。どうやら先ほどの鳴き声は聞こえなかったようだ。
「あ、いえ。べつに。なにも」
そう告げても、リゼルはしばらく考えごとをするように鳥かごを見つめている。
「……わたし、それと同じようなものをどこかで見たような気がします。その鳥かごは、あなたのものですか?」
少年は唯一の持ち物である空っぽの鳥かごを抱きしめると、力なく、頷いた。
「はい、たぶん。でも、なにも覚えてなくて」
「なにも?」
「ええ。気がつくと森の中にいて、傍らには鳥かごがあって、とりあえず手にして歩いていたら、さっきのヒグマに遭遇したという状況で。自分の名前すらわかりません」
そう云って、笑ってみせる。
「それならば、すぐ街に帰ったほうがいいでしょう。きっとあなたを知っている人がいるはず」
立ち上がったリゼルは、指を伸ばし、森から街へ出る方法を教えてくれた。時期によって景色や変わることや、目印となる小川の流れが変わることなど、とても詳しく。まるで、リゼル自身が、何度もその道を通り、街へ帰ろうとしたかのような口ぶりで。
「簡単な道のりではありませんが、だいじょうぶ。きっと、家の灯りをつけて、あなたを待っている人がいる。それは、とても、幸せなことです」
なんの感情も乗っていなかったリゼルの眼。そこに、ほんのすこし。
ほんのすこし、さみしそうな色が。
「途中まで案内します。さぁ、行きましょう」
「ずいぶん急かすんですね」
表情とは真逆の明るい掛け声に、少年は戸惑っていた。
「日が暮れると厄介ですし、それに、もうすぐ収穫祭があるのです。冬眠前の森の友人たちと食卓を囲み、秋の実りを祝う催しなのですが、主人がお戻りになるかもしれません」
「主人って、この森を所有している〈ある方〉のことですか? マズイ人なんですか?」
「マズイ人というか……」
リゼルは口ごもり、言葉を探した。
「きっと、食べても美味しくないでしょうね。肉は硬いでしょうし、血は汚れていて」
(……どうしよう。おれの訊きかたが悪かったかな)
訂正したほうがよいかと迷っていると、リゼルが先に言葉を続けた。
「あの方は、人間ではありませんから」
瞬間。
遠くで雷鳴が響いた。森の上空には瞬く間に黒雲が広がり、荒々しく雨が落ちてくる。
「噂をすれば、主人が戻られたようです」
「ええっ」
「だってほら、声が聞こえるでしょう」
遠くから響いてくる声がある。うめくような、低い声だ。
『道の真中を。道の真中を』
はるか彼方にあった雷光が、一本道をたどるようにこちらに近付いてくる。雷の方向に目を凝らすと、森を覆う霧の中、箱馬車を率いる二頭の髑髏馬の姿が見えた。
「な、なんですか、あの馬。骨しかないじゃないですか。それに、道の真中を、って声」
「これから道の真ん中を通るので、とっとと道をあけなさいという意味です。ちなみに、きちんと事前通告をしたので、もし逃げ遅れて怪我をしても損害賠償には応じかねます、という意味も含んでいます」
ドンっと雷が光る。それを合図に、馬車は、猛スピードで走り出した。
「えーと、とにかく。逃げましょう。あんなものに突っ込まれたら、死にますよ」
慌てふためく少年をよそに、リゼルは落ち着いた様子で、麻袋の中をあさっている。
「だいじょうぶです。コレさえあれば、いかなるものも、立ち止まる」
少年が息を詰めて見守る中、馬車が突進してきた。
絶体絶命、少年は息を呑む。その刹那、黄色い旗がさっと掲げられた。リゼルだ。
途端、目前まで迫っていた馬たちが、一斉にブレーキをかけた。
数メートル手前でぎりぎり停止する。だが、頸木でつながれた箱馬車だけが反動で吹っ飛んで行った。宙を横切り、そして、ぼっしゃん、と派手な水しぶきを立てて川に落水した。
「リゼルさん、失礼ですが、その黄色い旗は」
「これは、さる国より取り寄せた横断旗と呼ばれるものです。その国においては、これを掲げた場合は、どんな早馬でもたちどころに止まるとか」
そう云って、ランドセルを背負った子どもが描かれた横断旗をぱたぱたと振ってみせる。
(なんだろう。なんとなく、使い方が違う気がするんですけど)
「リゼールッッ」
水没した馬車の中から、ひとりの青年が顔を出し、叫んだ。
真っ黒なコートに身を包んだ二十代半ばほどの青年である。ずぶ濡れになりながら、やっとの思いで川岸へと這い上がってくる。
「あぁ、猊下。お帰りなさいませ」
いたんですか、とでも云いたげな挨拶に、青年は抗議の拳を振りあげた。
「いつものことながら、おまえの私に対する行為には、愛がない。私は寒くて死にそうだ。いますぐここに来て、暖めてくれ。ほら」
「猊下、パワハラはおやめください。犯罪ですよ。それに、鴉の濡れ羽色を形容したようなお姿、とてもよくお似合いです」
すると青年はまんざらでもなさそうに己の姿を眺めた。
「そ、そうか? おまえがそう云うのなら」
ふたりのやりとりに、少年は苦笑いする。
(主とそれに仕える身みたいだけど、そういう関係なんですね)
だからこそ、ふたりは長い時をともに過ごしてきたのだとわかる。
(いいなぁ、おれも、こんなふうに、)
「リゼル。この子どもはなんだ? 私の領地に勝手に入り込んだのか?」
はっとして顔を上げた少年を、青年の眼が射抜く。紫の、痺れるような美しい眼だった。
言葉などなくても、眼差しだけで警戒されているのがわかる。
「猊下。彼は、わたしの手伝いをさせるために連れてきた子どもです」
表情こそ変わらないものの、リゼルは慌てた様子で少年の前に進み出た。
「手伝い?」
「ええ。じきに収穫祭があるでしょう。人手が足りません。ですから、手ごろな子どもを街から攫ってきました」
(リゼルさん、かばってくれていることはわかるけど……攫ってきたって)
少年の複雑な心境とは裏腹に、青年は腕組みをしつつ、ふむ、と納得顔でうなった。
「ならば仕方ない。収穫祭が終わったら、街まで送り届けるんだぞ。お詫びの菓子折りをちゃんと用意してな」
「無論です。上等な鹿肉を持参します」
まんまと主人を丸めこんだリゼルは、振り返り、少年と目を合わせた。
ごめんなさい、と小さく口が動く。
少年は、いいえ、と精一杯の笑顔で応えた。
「それで、少年。名は?」
ふたたび水を向けられ、少年はびくりと体をこわばらせた。
名など知らない。頭のてっぺんから靴の先まで舐めるように見つめても、名前を示す刺繍も彫り物もない。
うつむき、ただ沈黙する少年をかばうように、リゼルが云った。
「名は、ルチルです。そう呼ぶことにいたしました。街へ帰すときは彼の記憶を消すことになるでしょうから、わざわざほんとうの名を呼ぶ必要はないでしょう」
ルチル。その意味は、無垢。
何色にも染まっていない、真っ白なもの。
名もない、記憶もない、金もない。あるのはこの体と、鳥かごだけ。そんな自分にぴったりだと、ルチルと名づけられた少年は唇を噛んだ。
「では、ルチル。改めてよろしく頼む。彼女の力となってやってくれ」
青年から伸ばされた手に、恐る恐る、ルチルは自分の手を重ねる。
「念のため云っておくが、こう見えても、私は人間ではない」
(それはそうでしょう。馬車ごと水没したのに、骨折どころか、擦り傷ひとつないんですから)
「私の名はジスト。『自尊心』を蒐集する悪魔だ」
(…………あくま?)
足を踏みしめるごとに、苔むした地面からは土と緑の匂いが立ちのぼる。周りにはトウヒやオーク、ブナが乱立していて、足元には、若木のほかにスズラン、アネモネなどが生い茂っている。
鬱蒼とした木々の先は何も見えないが、先をゆくリゼルの足運びに迷いはない。
――おかえりなさい。
――おかえり。わたしのジスト。
――ねぇ、また異国の旅のはなしをして。
ジストが所有する「城」へと向かう道すがら、居並ぶコウヒたちは、袖を引く貴婦人のように甘い声で、ジストに話しかけてきた。
ジストは紳士の微笑みで、「また今夜、ふたりきりになったところで」と返す。すると森の貴婦人たちは、ざわっ、と色めき立った。
「あぁ、リゼル。そんなに足を速めるものじゃない。彼女たちはただの友人だ。心配しなくとも、私にはおまえが一番で、」
「ルチル。猊下がおっしゃられることの九割は聞き流して構いません。時間の無駄です」
ルチルは髑髏馬の手綱を引きながら、はぁ、と頷いた。
「でも、いいんですか? そんな対応で。あの方は、悪魔……なんですよね。魂を奪われたり、しませんか?」
悪魔は魂を奪う。ルチルはそれを知っていた。一切の記憶を失っているはずなのに、それだけは知っていた。悪魔は人間の願いを叶える約束をして、その代価として、魂や同等のなにかを奪う。
「へいきですよ。悪魔は闇雲に魂を奪うわけではありません。そもそも、世界は、つねに美しい状態であるために、自ら浄化を行います。その過程で生み出された『穢れ』が意思を持ったものが悪魔です。そして、猊下のように強い自我を持つ悪魔は、己の存在証明として、『欲望』を集めます」
「よくぼう、ですか」
「より多くの『欲望』を蒐集した悪魔は、魔王と呼ばれ、悪魔の中でも一目置かれる存在となります。猊下もそのおひとりで、『自尊心の魔王』と称されます」
魔王。耳にする限りでは、きっと恐ろしい存在なのだろうが、当の魔王はというと、
「リゼル。これ見よがしにルチルと仲良くしなくてもよいではないか。今度は、私と」
構ってもらえず拗ねる子どものようだった。
詰め寄ってくるジストを振り返ったリゼルは、おもむろに、通りすがりの「黒い塊」を抱き上げた。
「では猊下。この子を抱っこしてくださいまし」
ジストの前に突き出された「黒い塊」。
「にゃお」
それは、尾が二つに分かれた黒猫だった。エメラルドグリーンの瞳を細め、尻尾を振る。
途端、ジストの顔が青ざめた。一瞬で後方へ飛びずさったかと思うと、肩を震わせ、両手で口を覆った。
「まずい……くしゅっ、はくしゅっ…りぜ、あれほど、くしゅっ、猫を、げほっ、私に近づけ、はっくしゅ、るなと」
「あぁ、これは、失礼いたしました。猊下が重度の猫アレルギーでしたのを、つい、うっかり、忘れておりました。姿を見るだけでも反応してしまうのでしたね」
リゼルは猫を抱いたまま、ジストに歩み寄った。
「どうか、お許しください。悪気はなかったのです。ほら、この子も、こんなに」
「わ、私に近寄るなぁああっっ」
吐きそうな顔色で、ジストは叫んだ。その全身から、青白い炎がたちのぼる。「本気」の眼だった。
ルチルのもとへ戻ってきたリゼルは、無表情で、ご覧の通りです、と締めくくった。
「猊下は、気位の高い猫の蒐集家でありながら、一方で、重度の猫アレルギーなのです。ご覧ください、この猫は尾が二つに分かれているでしょう? つまりこれは、人間からこぼれ落ちた『自尊心』が形をとったものであって、生き物の猫ではないのですが、姿を見ただけでも、あの様です」
「蒐集する『欲望』って、他に選べなかったんですか?」
「猊下にとっては、むしろ逆でしょう。アレルギー反応の要因があちこちうろついていたら、落ち着いて外出もできません。ですから一ヶ所にまとめておくほうが安心なのです。そんなことをしているうちに、魔王になったのでしょうね」
「じゃあ、これから向かう城には」
「猊下が蒐集した猫が、数百匹、暮らしています」
「……ジスト様にとっては、悪夢ですね」
「ですから猊下は、このトレキア城にはめったに戻られないんですよ」
猫アレルギーの魔王と、死んだはずの女性。
ふしぎな主従関係もあるものだ。
「でも、そうだとしたら、淋しいですね」
ルチルの言葉に、虚を突かれたようにリゼルが立ち止まる。
「さみしい?」
「ええ。だってリゼルさんは、一年のほとんどを、ひとりで過ごしているんでしょう。いくら猫が数百匹いても、人と人が交わすような会話や意思疎通はできません。だったらひとりぼっちとおんなじだ」
「……」
青い瞳が揺れる。そんなことを考えたこともなかった、という戸惑いの色が浮かぶ。
「あぁ、でも――いえ、ひとりではありませんよ。お客様が、いらっしゃいます。ここのところ、姿を見せてくださらないのですが」
ふいに顔を上げたリゼルは、はっと、息を呑んだ。抱きかかえていた猫を投げ出すように解放し、転びそうになりながら駆けていく。
「どうしたんでしょう、あんなに慌てて」
「なに、リゼルが心待ちにしている来客だ」
首を傾げるルチルにジストが並ぶ。何気なくそちらを見上げたルチルは、言葉を失った。
「……ジスト様。せっかくの端正なお顔ですのに、鼻に詰め物をされると台無しですよ」
目を真っ赤にしたジストは、詰め物をした鼻を、ぶふん、と鳴らした。
「くしゃみが止まらない私に、親切なリゼルが教えてくれたのだ」
(……リゼルさんって)
赤い煉瓦が積み上げられた一軒家の前に、背中の曲がった老女が佇んでいた。
「相変わらず、気味の悪い家だね」
ぎょろぎょろとした目で見渡す庭先には、紅い実をつけたスズラン、真っ赤に咲き誇るマンジュシャゲ、青紫のベラドンナ、白く可憐なドクゼリが栽培されている。
「どれもこれも、有毒植物ばかりじゃないか。まったく、趣味の悪い。こんな家でふつうに生活していられるなんて、信じられないよ」
「おばあさんッ」
息せききって、誰かが駆けてくる。
老女はその声の主がすぐにわかったが、気付かない振りをして、視線を背けたままにしていた。
「ようこそ。おばあさん。最近姿を見かけなかったから、心配していました。とうとうお迎えがきたのかと」
老女のすぐ傍らで立ち止まったリゼルは、待ちわびていた来客に、頬を紅潮させていた。
「失礼なことを云う小娘だね。ワタシはこれでも五十をすこし過ぎたばかり。迎えがきたって、蹴り飛ばしてやるよ」
強気の台詞を聞いて、リゼルは、笑った。
「……えぇ、ええ、そうね。良かった」
涙でうるみ、宝石のように輝く青い瞳。皺ひとつない、白くなめらかな素肌。細い手足と張りのある声。そして、輝くような笑顔。
老女は唇を噛む。
若く、美しい、娘。夫は、妻である自分よりも、この娘をふかく愛した。
「さ、おばあさん。どうぞ、中へ。お疲れでしょう。なにかお出しします」
「いや。結構だよ。ワタシはただの果物売り。『用事』が済めば、すぐ帰る」
云いながら老女は、右腕に提げていた籐のかごに手を差し入れた。骨と血管が浮き出た手で、赤いリンゴを取り出す。
「ごらん。なんて美味しそうなリンゴだろう。表皮は血のように赤くつややかで、ほら果肉は、軽くナイフを入れただけで、たちまち蜜が滴り落ちる新鮮さ。さぁさぁ、おあがり」
リンゴを手にとったリゼルは、真っ赤に熟れた表皮を、上下左右から矯めつ眇めつしたあと、老女がごくりと息を呑む前で、大きな口を開けてかじりついた。
すぐさま、口許を押さえる。
(よし、食べたー)
老女は、拳に力が入った。リンゴには、有毒植物の汁が染みこませてあったのだ。
(この植物の主成分はコニイン。体を麻痺させ、窒息死させる神経毒さ。かつては死刑執行に用いられたほど毒性が強いんだ。さぁ、早く私の目の前で絶命しておくれ)
胸の高鳴りを感じながらリゼルを見つめた。その顔が青ざめ、呼吸が乱れるのを待った。
だがリゼルは、リンゴを租借しながら、何事か考えるように、眉根を寄せている。
「……これ、もしかして、」
云い終わる前に、リゼルは、もう一口、リンゴにかじりついた。そうして、リンゴを丸ごと一個食べおえてしまうと、わかった、と声を上げた。
「これ、ヘムロックね。毒人参とも呼ばれる、川岸などに自生する植物」
(正解―ッッ)
歯噛みする老女をよそに、リゼルは申し訳なさそうに瞳を曇らせる。
「ごめんなさい、おばあさん。この毒も、わたしには効かないようです。これでもう何度目になるかしら」
老女は顔を真っ赤にしながら叫んだ。
「そんなもん覚えていられるかいッ、毒物を集めるのだって、毒を精製するのだって、酸化しやすいリンゴに浸透させるのだって、ひどく大儀なんだ。あんたがサクッと食べて、パタッと倒れれば、あたしは満足なんだよ」
「おばあさん、落ち着いて。興奮すると血圧が上がります」
老女は顔をくしゃくしゃにして髪をかきむしると、「あぁ、もういい」と叫んだ。
「帰るッ」
老女は億劫そうに体を反転させると、大股で歩き出した。
「おばあさん。道中、気をつけて。これに懲りずに、また、いらしてね」
「ふん、せいぜい首を洗って待っておいで。エリィゼっ」
リゼルは、手を振り、老女の小さな背中が見えなくなるまで、にこやかな微笑みを浮かべていた。
「さて。ゆくか」
すこし離れた木陰から一部始終を眺めていたジストは、一芝居観終わった観客のように腰を上げた。ともにすべてを見ていたルチルは、歩き出したジストの背中を慌てて追う。
「ジスト様。いまのは、」
ジストは足を止めて答える。
「云っただろう。リゼルが心待ちにしている来客だ。さしずめ、毒リンゴの押し売りといったところか。ふだんは森の外れに住んでいるが、あのように度々やってきては、リゼルを毒殺しようとして失敗している。他に質問はあるか?」
「ううっ突っ込みどころが満載で、なにから訊いたらいいのかわかりません」
ルチルは頭を抱えた。
「簡単な話だ。リゼルは命を狙われている。ひときわ目を惹く美しさで、幼少期から数多の男が心を奪われたという。あの老女の夫もそのひとりだったのだろう。一方的な殺意を募らせてきたに違いない。リゼルを追って、ことしの春、森に入り込んだのだ。だがあのとおりの非力な老人、限られた殺害方法の中から、毒を用いて、リゼルを殺すことにした」
「でも、どうしてわざわざリンゴで毒殺するんでしょうね。先ほどの話を聞く限り、大変そうなのに」
「リンゴは、その見た目から、「心臓に代わるもの」という意味をもつ。簡単に云えば、持ち主がどんな死に方をしても、心臓だけは残るのだ。あの老女の目的は、リゼルの殺害と、リゼルがもつ〈白雪姫〉の心臓なのだろう」
「〈白雪姫〉、ですか?」
「肌が雪のように白く、頬は血のように赤く、髪は黒炭のように黒い。そういう特徴をもつ人間の女は〈白雪姫〉と呼ばれる変異種だ。その心臓を生のまま食べた者は、不老不死を得ると云われている。……憐れなことだ」
ふと顔を上げたジストは、生い茂った木々の合間を睨みつけた。
「どうされました?」とルチルも周りに広がる緑陰を見上げた。だが、重なり合い、もたれあうように群がる木々の、肉厚な葉むらの中には、何者も見出せない。
「いや、鳥の羽音がした。珍しいな。まだ渡りの季節には早いというのに」
「そうですか? 鳥なんて、珍しくはないと思いますけど。それより、おれにとっては、この森自体が――不思議です。この土、この風、息づく気配、うごめく音。まるで……そう、だれかの体内にいるような、居心地の悪さ。そんなものを感じます」
「この森は、私という『穢れ』を生んだ。すなわち、私の母だ。森の枝葉の末端に至るまで、そのすべてが、母の血管であり、筋肉であり、細胞だ。この森自体が母の体内であると云っても過言ではない。少年が抱く違和感はきっとそんな理由からだろう」
懐かしいものを見るような目で、ジストは微笑む。その頬に、優しい口づけを贈るように、風が通り過ぎていく。
「悪魔は森から生まれるのですか?」
「そうだな、悪魔は森や大地から生まれる。それから、長い時を生きた獣から生まれる。多くの手に触れられた物から生まれる。そして、ごく稀に、人から生まれることもある」
「人から?」
「そうだ。人が抱く醜い心の奥底から吐き出されて、産声を上げる。そして、人の赤子のように母親を求めるそうだ」
老女が消えた方向を見つめていたリゼルは、近寄ってくるルチルたちの姿を見とめると、両のこめかみに人差し指を当てた。
かちり、と音がして、リゼルの顔面からひとつの仮面が転がり落ちる。目と口の部分が刳り抜かれている木彫りの仮面だ。
仮面を外したリゼルは、先ほどの笑顔から一変して、また、なんの感情も乗っていない無表情な女性に戻っていた。
「驚いたか。あれは、東の森に棲む魔女から買い求めた仮面だ。どんな仏頂面も、嵌めるととびきりの笑顔を浮かべることができるという。その名も、『ほほえみ殺し』という」
(……そのネーミングは一体どこから)
訊くべきことは他にあるはずなのに、つい突っ込みがまさってしまう。
「ルチル。恥ずかしながら、わたしは、感情を表に出すことが苦手なのです。けれど、あの方は、大切なお客様。だから精一杯の笑顔でお迎えしてあげたいのです」
リゼルの言葉に、ルチルは口をつぐむ。
自分を毒殺しようと目論む相手が大切な客人だなんて。『ほほえみ殺し』という名称など、この際どうでもよくなるくらい、意味がわからない。
「リゼル。私は旅を終えたばかりで疲れている。すまないが、急ぎ晩餐の支度を整えてくれないか」
ジストはリゼルを気遣うように微笑みかけ、玄関扉に手をかけた。ガシャ、と重たい音を響かせて取っ手が引かれる。
(そういえば、「城」と聞いていた割には、ずいぶんと、庶民的な)
ルチルがすこし背伸びをして周りを見渡していると、開かれた扉の向こうから、ひゅう、と冷たい風が吹き出してきた。
「さぁ、ルチル。ようこそ、我が城へ」
ルチルは目を剥いた。こぢんまりとした家の外観からは想像もできないほど長い廊下が続いている。延々と蝋燭の灯りが続き、果てしない暗闇へ堕ちていくようだった。
「驚かれましたか? 蒐集家は、品数に応じて相応の空間を確保する必要がありますが、一方で悪魔は忌み嫌われる存在。あまり人目につく建造物は好ましくありません。ですから、異なる空間同士をつなげて利用することが多いのです」
リゼルが灯りをもって先に立つ。ルチルは置いていかれまいと必死に追った。
「あれ、でもたしかジスト様の蒐集品って」
猫。
そのとき、おおきな影がひるがえった。
「ぎゃああああっっ」
ジストの悲鳴が上がる。だがルチルが振り返ると、後ろにいたはずのジストは忽然と消えていた。
「どうしましょう、ジスト様が、神隠しに」
「放っておきましょう。夕食の時間には飽きて帰してくれますよ」
「あ、飽きて?」
言い知れぬ恐怖心を抱いたまま、ルチルはリゼルとともに夕食の支度をはじめた。
ピスタチオ入りの粗挽きソーセージに茹でたジャガイモを合わせた前菜、かぼちゃのスープ、豚挽き肉にニンニクや玉ねぎなどを混ぜたファルシ、燻製ソーセージのコンフィ、鶏肉の赤ワイン煮込みなどが用意された。
「すごい、美味しそうな匂いですね」
「義母から習いました。幼いころ身内を亡くしたわたしは、とある貴族の養女となったのですが、母は、隣国フランスの出身で、輿入れの際に、母国の伝統料理のレシピを携えてきたそうです。わたしはそれを絵本代わりに眺めては、母とともに作ったものです。幼いわたしが包丁をぎこちなく使う様を、シェフや義父はハラハラしながら見ていたようですが、母は決して手助けしようとはしませんでした。わたしを信じて、見守ってくれていました」
遠い昔を懐かしむように、リゼルは、かすかに唇を持ち上げた。亡き人を想うような眼差しに、ルチルは気まずさを感じる。
「ところで、ジスト様は? あれからだいぶ経ちます。せっかくの料理、冷めてしまいますね」
カトラリーを並べながら、話題を変えた。
「構いません。先にいただきましょう。どうせ、猊下は人間の料理は召し上がりません。せいぜい嗜好品としてワインや珈琲を口にするくらいです」
「え、そうなんですか?」
「悪魔にとっては、人間との「契約」がすべてですから。契約者がいる限り、糧となる『生命力』は供給されますし、契約を果たした後は、『心臓』も『魂』も自分のものです」
感情を伴わないリゼルの言葉に、ルチルは口を引き結ぶ。
「……リゼルさんは、ジスト様となにかの契約を?」
リゼルは小さく頷いた。
「呪いを、かけていただきました。いつの日か、わたしが、母の手で殺されるようにと」
ルチルの手から、フォークが滑り落ちた。
だって、先ほど、云った。
料理を教えてくれた母の優しさを。
そして、いま、はっきりと云った。
その母の手で殺される、と。
ふたりの間で、蝋燭の炎が揺らめく。リゼルの瞳には、わずかな揺らぎもない。
短い沈黙を、コンコン、と扉を叩く音がさえぎる。リゼルは燭台を手に近寄った。
「お帰りなさいませ、猊下」
扉の向こうに、ぐったりしているジストの姿があった。ルチルは驚いて駆け寄る。
「ジスト様、どうされたんですか。そんなに衣服を汚して――」
黒い影が、ルチルを覆う。
「……ふぇ」
恐る恐る見上げた先には。
『ニャオーン』
猫が一匹。
「うわぁあああっっ」
誰だって叫ぶだろう。このでかさ。
「紹介します。こちらはレディ。猊下の使い魔です」
巨大な黒猫は、数メートルはあろうかという尻尾をひらりひらりと優雅に振った。目の高さはルチルと同じで、昼間遭遇したヒグマが子どもに見えるくらいの巨体だ。
「力のある悪魔は、自分の分身として、使い魔を有します。その大きさや数は、悪魔自身の力をはかるものでもあります。レディは、猊下が不在の間、わたしと共に森の番をしてくれています」
『とは云っても、大してやることがないのよねー。この森は森自体が強い力をもっているし、リゼルも腕っ節が強くて森の動物たちを見事に統制しているから、あたしは時々紛れ込む人間を追い出すくらい』
少女のように甲高い声で、レディが答える。
「へぇ、言葉も話すんですね。賢いなぁ」
ルチルが感心していると、リゼルとレディは揃って目を丸くした。
「あれ? おかしなことを云いました?」
「ええ。だって、レディの声は」
「はっくしゅんッッ」
ソファーに寝かされていたジストが、豪快なくしゃみと共に身震いした。
『あたしがいると、猫アレルギーが反応しちゃうみたい。夜の見回りに行ってくるわ』
レディはしなやかな動きで向きを変える。パンッとなにかが弾けるような音がしたかと思うと、レディの体は消え、かわりに無数の猫が現れた。一匹一匹はふつうサイズの猫で、尻尾を振り、ぞろぞろと部屋を出て行く。
唖然とするルチルに、リゼルが補足する。
「蒐集した猫は、レディの一部になります。集約、というのでしょうか。そのほうが食事の回数や数の確認に便利なので。夜の見回りのように頭数が必要なときは、元に戻ります」
「なんだか、おれ、このあと世界中のどこに行ったとしても、きょうほど摩訶不思議な体験することはない気がします」
食事を終えたルチルは、城の東側にある寝室に案内された。狭くて申し訳ない、と云われたが、掃除は行き届き、寝台にはやわらかなシーツが敷かれていた。
「では、お休みなさい。収穫祭が終われば、あなたを街に帰すことができますが、それまでは、辛抱してください」
街。その言葉を聞いた途端、気持ちが暗くなった。
街にリゼルはいない。
「――リゼルさん。きょうは、ありがとうございました」
「なんです、突然」
「あなたはおれをヒグマから助けてくれた。ジスト様からかばってくださった。そして、美味しい料理と、あたたかな寝床を用意してくれた。感謝しています。ほんとうに」
ずっと、ここにいたい。そう云ったら、リゼルはどんな顔をするだろう。
「おやすみなさい」
「ええ。ゆっくりお休みください」
扉を閉め、リゼルの足音が遠ざかるのを待って、寝台に寝転がる。やわらかな肌触り。あたたかな太陽の匂い。
ルチルは空っぽの鳥かごを傍らの台に置き、その中を覗き込んだ。
そこになにかが棲んでいたのか、あるいは、なにかを捕まえに来たのか。やはりなにも覚えていない。
ただ、何故だろう。
遠くを見るリゼルの目。あれは、鳥かごに囚われている鳥に似ている。
リゼルが部屋に戻ると、ジストがひとり、ソファーでくつろいでいた。リゼルはワインの瓶を片手に近付いていく。
「もう一杯、いかがですか。猊下」
「いただくよ。さすがはリゼルだ。私がゲヴュルツトラミネールの白ワインが好きだとちゃんと覚えておいてくれる」
「こんな刺激の強いワインを好むのは猊下くらいです」
リゼルは斜向かいのソファーに腰を沈めると、ゆっくりと頭を下げた。
「猊下。本日は、数々の無礼、申し訳ありませんでした。お詫びいたします」
ジストは肩をすくめて笑った。
「私は気にしていない。だからおまえが気に病むこともない」
「……はい」
「あの子どもの表情があんまりくるくると変わるものだから、おまえは私を貶めることで、彼の反応を見ていたんだろう。どんなふうに笑うのか、困るのか、悩むのか……。嬉しかったんだろう、人と言葉を交わすのが」
ジストに促され、リゼルは心の内をこぼす。
「そうですね。わたしはもう、感情のあらわしかたを忘れてしまいました。いまや、仮面がないと笑うことすらできない。ルチルの反応は、とても新鮮で、眩しくて、羨ましかった。ですから猊下には、あの子を街から連れてきたと、嘘を。ほんとうは、記憶がないのだと云っていました。自分の名も知らないと」
「ふむ。帰る場所がないのなら、私はこのまま少年を留めても構わないが」
「……あの子がそう望むのなら」
自分の考えについては断固とした意思を持つくせに、他人のことになると途端に臆病になる。そんなリゼルを、ジストは愛しく思う。
「ルチルは、不思議な子どもです。こんな奇妙な状況に遭遇したら、ふつうなら逃げ出すはずなのに、離れようとしない。それに、レディの言葉が聞こえたようです。わたしには聞こえないのに」
「それだけじゃない。森は部外者を嫌う。わたしの庇護下にあるおまえと、おまえが望んで受け入れたあの老女を除く他の人間は、まず入ることができない。もしなんらかの偶然が重なったとしても、レディが追い払う。だがレディは侵入に気付かなかった」
「どういうことなのでしょうか」
「さて」
ジストは答えをはぐらかしたが、考えられる理由はどちらかだった。
・森自身が、望んでルチルを受け入れた。
・森の拒絶を上回るだけの力がルチルにあった。
前者ならば良い。母である森が決めたことなら、従うまで。
だがもしも、後者ならば。
「厄介だな。本人はまだ自覚がないようだし」
ジストはソファーに体を沈めながら呟いた。
「いま、なにか、おっしゃいました?」
「いや。あの子どもと仲良くな。エリィゼ」
するりと肩に伸ばされた手を、リゼルはぱしん、と払いのけた。
「あなたと契約したのはリゼルです」
「あぁ、そうだ。だが真の名ではない」
「わたしをエリィゼと呼んでいいのは、ただひとり。母だけです」
母。
その強い言葉に、ジストは苦笑した。
「もう遅い。おやすみ、リゼル」
髪に優しい口づけを落とす。頷いたリゼルはゆっくりと立ち上がり、扉に手をかけた。
「猊下。前回お会いしたとき、わたしはお訊ねしましたね。約束の日を。猊下は答えてくださらなかった。いままた同じ質問をしてもよろしいでしょうか?」
「云ってごらん」
リゼルは自らの主に向き直って、静かな声で訊ねた。
「わたしは、いつ、死ねるのでしょうか」
ルチルは、夢を見ていた。
明るく眩しい太陽の下、まだ名前のなかったルチルは、青々と広がる草原の上に、ひとりぼっちで立っていた。
――おなか、すいたな。
ルチルは足元に視線を送った。草に紛れ、人や獣の骨が無数に転がっている。
――こんなにたくさんタベタのに、ちっともおなかいっぱいにならない。どうしてだろう。カラダのオクの、オクの、そのまたオクが、ずっと、ミたされない。イタイよ。
ルチルは鉤爪の先に鳥かごを引っ掛けると、翼を動かし、地を蹴った。体は風に乗って宙をすべり、途中横切った湖には、自分のおおきな影が映った。
しばらくゆくと、目の前に、広大な森が見えた。
ルチルは思った。あそこに行こう、と。
――きっと、『おかあさん』がいる。そんな気がする。
隙間なく広がる森の木々は、わずかな光の侵入すら許そうとしない。こんなにおおきな自分が、果たして、入れるだろうか。
一抹の不安を振り払うように、ルチルは翼を動かした。
――お母さんに会いたい。会って、教えてもらうんだ。この痛いのはナニって。どうしてこんなに淋しいの、って。
風を切り、一気に下降する。侵入者に気付いた森は、全身を震わせ、強く拒んだ。
――森さん、邪魔をしないで。邪魔すると、食べてしまうよ。
だって、ぼくは。
「うわっっ」
跳ね起きたルチルは、そのまま寝台の下へと転がり落ちた。床で肩を打ち、痛みとともに目を開ける。
わずかに差し込む朝日。質素だが、隅々まで手の行き届いた部屋。ほっと安堵した。
「……あぁ、ああ、そうか、夢だよね」
変な夢だった。おおきな翼をもつ自分は、母を求めて、広大な森への侵入を試みる。
奇妙な夢だった。だけど、夢だ。
ルチルは寝台に這い上がると、ごろりと寝転がった。心地良いあたたかさの中、再び目蓋が重くなってくる。
「あぁ、でも――お腹はすいたな」
腹を撫でる。すると、どこからともなく、いい匂いが漂ってきた。
もしかして、とルチルは寝台を飛び降りて、厨房へと向かった。
「おはようございます。朝食の用意、できていますよ」
朝日に包まれた食卓には、手作りの料理が湯気を立てて並んでいた。
本日のメニューは。
手のひらサイズのブレーチェン(黒パン)。カブやセロリなどを煮込んだ野菜スープ、ジャーマンポテト。エンダイブに生ハムや卵を添えたサラダ、ザワークラウト。という具合である。
「どうぞ、冷めないうちに。わたしは後で頂きますので、気になさらないでください」
リゼルはルチルを椅子へと促すと、自分は向かい側に腰をおろし、紅茶で満たしたカップを口に運んだ。
「あ、でも、ジスト様の姿がありませんが」
「猊下がお目覚めになるのは、いつも正午です。悪魔は夜行性だと言い張って、朝食の席においでになったことなんてありません」
表情は相変わらず淡々としているものの、拗ねたような口調からは、この件について何度かの話し合いがおこなわれたのだとわかる。
人間の食事はとらない。朝の挨拶もできない。城にも寄り付かない。リゼルはいつも、ひとりなのだ。
「街へ出掛けようとは、思わないのですか。食材の調達ぐらいだったら、構わないのでは」
リゼルは手を止める。
「いいえ。思いません。わたしはこの森を出てはいけないのです。必要なものは、人の姿になったレディがすべて用意してくれます」
「ほんのわずかな時間だけ、ジスト様に頼むことはできないんですか?」
「わたしは死んだ人間です。墓地もありますし、遺骨も入っています」
納得いかないルチルだったが、話はこれでおしまい、とばかりにリゼルは席を立った。
奥から戻ってきたリゼルは、食後の紅茶とともに、小ぶりの篭を差し出した。
「食後に、お使いをお願いできませんか」
細かい刺繍が施された織布が掛けられているが、ほのかに甘い匂いが漂ってくる。
「いいですけど――どちらへ」
リゼルは白い指先をすっと朝日の方角に向けた。
「城を出て、まっすぐ西へ向かってください。182本のトウヒを通り過ぎると、一本だけ銀杏の木がありますので、そこを左に回り込んで、さらに、5352歩進んでください」
「……すいません。メモします」
半分冗談だと聞き流していたルチルは、リゼルが本気だと悟り、慌てて筆を手にとった。
「もう一度云いますね。城を出たら、まず、西です」
と、朝日の方角を再び指し示す。一拍おいて、ルチルはハッと肩を震わせた。
「ちょっと待ってくださいッ。たしか、西って、太陽が沈む方角ですよね」
「あぁ…そうですね。じゃあ東です」
ものすごく不安になったルチルは、手書きのメモを見直した。この中にも、重大な欠陥があるのではないかと思ったのだ。
「あの、トウヒが一本でも足りなかったり、歩幅があなたとおれとでは違ったりしたら」
「そのときはそのときです」
見放された。
ルチルは必死にメモを復唱しながら、肝心なことを思い出した。
「ちなみに、えーと、182本のトウヒと5352歩の先には、どなたがいるんですか?」
リゼルは再び紅茶を口に運ぶ。なにか、大事なことを告げる準備のようだった。
「182本のトウヒと5352歩の先には、煉瓦造りの家があります。そこには、ある女性が、ひとりで暮らしています」
相変わらず無表情なのに。なんて優しい顔をするのだろう、とルチルは思った。
「180、181、182…すごいな。ほんとうに182本ぴったりだ」
指折りトウヒを数えていたルチルは、驚きとともに、目印の銀杏の木にたどり着いた。
そもそも、迷うはずもない道だった。城から東の方向に向かって、人為的に道が踏み固められていたのだ。ルチルはトウヒを数えつつも、その道を辿ってきただけだ。
倒木や、張り出した根もない。走り出したくなるほど綺麗に整理された道は、一体だれが作ったのだろう。
――それはリゼルよ。
銀杏が枝を震わせて教えてくれた。
――あの子ったら、三日と空けずやってきて、この道の除草や手入れをしているわ。朝から晩まで、飽きもせず。
「それは、なんのために?」
――時々ここを通る人間の女が、転んだり、ケガをしたりしないように。
『ある女性が、ひとりで、暮らしています』
その言葉が、よみがえる。優しい顔とは裏腹に、淋しそうな声だった。
ルチルは篭の柄を握りなおした。道中、ちらっと覗いた篭の中身は、結び目の形をしているプレッツェルという焼き菓子だった。失礼してひとつだけ齧ってみると、塩味がしっかりと効いて歯ごたえがあった。
ルチルは銀杏の木を左に回りこんで、一歩、二歩と口に出しながら歩いた。
薄暗い森の中を、リゼルが整えた道が一筋の光のように伸びていく。
ふいに、茂みをかき分けて茶色い塊が姿を見せた。ルチルは、あっと声を上げる。
「ヒグマのブラウン」
向こうも声に気付き、ルチルを見据えた。昨日はリゼルのお陰で難を逃れたが、今回もうまくいくとは限らない。相手は野生のヒグマなのだ。命を狙うものと、狙われるもの。その関係は、変わらない。
ブラウンは、周りを警戒するように、ゆっくりと近付いてきた。ルチルは動けない。
ある程度、距離を縮めたところで、ブラウンは鼻をひくつかせた。プレッツェルの匂いに気付いたのだ。催促するように、すぐ近くまで体を寄せてくる。
ルチルは必死でかばった。
「だ、だめだよ。これは、リゼルさんが心をこめて作ったお菓子なんだ」
その瞬間。ブラウンが、ギェッと声をあげた。くるりと反転するなり、リゼルが造った道を大急ぎで逃げていく。
「なんだよ、名前出したくらいで」
ブラウンはなぜあんなに怯えたのだろう。なにを感じ取ったのだろう。もしかして、リゼルの名ではなく、別のなにかに――。
急に怖くなって、背後を振り返った。
どこまでも深い森の中に、いつの間にか、濃い霧が広がっていた。
そして。どんっと雷が落ちたかと思うと、叩きつけるような雨粒が落ちてきた。
「まずいっ」
ルチルは篭を胸に抱くと、リゼルの道を走った。
ようやく雨が小降りになるころ、すっかり濡れたルチルは、一軒の家にたどり着いた。
割れた煉瓦や皹の入った煉瓦が、あちこちに見受けられる。ここが、例の家だ。
「ごめんください」
扉を叩いてみる。すこし待ったが、返答はない。
「だれもいないんですか」
取っ手を軽くひねれば、扉は開く。中の様子を窺おうと、首を突っ込んだ。
「うわっ」
鏡だ。室内の壁という壁に、頭からつま先まで映しとることができる姿見がある。
ひび割れた鏡、斜めになった鏡、歪曲した鏡とが重なって、ルチルの姿は何十にも何百にも重なって見えた。
映るのは、自分の姿だけ。
他には、誰も、いない。
(――……いや、いる)
中に足を踏み入れたルチルは、視線を感じて、部屋の奥に目を向けた。ひときわ大きな鏡がある。
薔薇をあしらった見事な縁取りと、曇りひとつない、鏡面。
その向こうに、なにか、いる。
「誰だ」
鏡に映る自分が、鋭い眼差しを見せる。
ルチルは机の上に篭を置くと、鏡に手を伸ばした。磨きあげられた鏡には、皮膚の凹凸や皺のひとつまで映りこむ。
なんだか、おかしな気分になった。
いま、目の前で鏡を覗き込んでいる自分がほんものではないような、そんな心細さに襲われる。今朝見た夢のせいだ。おおきな翼をもった自分と、いまの自分は、まるで違う。
どっちが、本物? どちらかが、偽物?
ルチルの不安をすくい取るように、歌声が聞こえてきた。
『ほんものではないかもしれない、自分。
にせものかもしれない、自分』
「だれだ」
振り返る。その先の鏡に、自分が映る。
からかうように、歌が続く。
『みあげてごらん。あんたはホンモノ?』
見上げた先の斜めの鏡に、自分が映る。
『どうした、ひっくり返してごらん。あんたはニセモノ?』
手近な鏡をひっくり返す。また自分が映る。両面鏡だ。
歌は続く。笑い声が重なる。
『どうだい。なにが見える?
どんな顔のオマエがいる?
どんな姿のオマエがいる?
そこにオマエは存在する?』
ルチルはやっと気がついた。扉がない。出口がない。鏡の空間に捕まった。
『おや、残念。もう手遅れ』
背後から、鏡が迫ってくる。
鏡の奥には、巨大な口が開かれていた。
『ハイ、イタダキマス』
「やれやれ、ずいぶん突然の雨だね」
畑でとれた野菜を手に、ずぶ濡れの老女が煉瓦の家に戻ってくる。
扉に手をかけた。そこへ。
ガシャーンッッッ。室内から、けたたましい音が響いた。
慌てて中に入ろうと取っ手をひねったが、ちっとも回らない。
反対側の窓に走り、中を覗き込んだ老女は、息を呑んだ。
窓硝子の向こう、すぐ目の前を、砕けた鏡の破片がきらきらと舞っている。その鏡に反射して、無数の黒い羽が映っていた。
割れた鏡と黒い羽。その中心には、見知らぬ少年がいた。
「あんた、誰だい、人の家で何をしているッ」
老女は窓硝子を叩いたが、びくともしない。
声に気付いて、少年が振り返る。老女は思わず野菜を取り落とした。
少年の瞳は、血のように朱く輝いている。
(なんだい、あれは。早く、早く追い出さないと)
老女は再び入り口に回り、ノブをひねった。すると、今度はいとも簡単に扉が開いた。あまりに呆気なくて、老女はつんのめるようにして中に入った。
すると。
一転して、室内は何事もなかったように静まり返っていた。
すす汚れた壁。わずかに火が燃える暖炉。食べかけのパン。流し台に入れたままの食器。出掛けたときと変わらない光景だ。
ただ、違うこともある。鏡がひとつ割れていること、そして、青ざめた少年が立ち尽くしていること。
「まずい、割れちゃった」
先ほどの少年だ。けれど雰囲気がまるで違う。瞳の色は、ぼやけた灰色で、目が醒めるような朱ではない。
「あんた、誰だい」
声をかけると、少年はびくっと肩を揺らして振り返った。
「あ、えと、おれルチルと云います。すいません、うっかり鏡を割っちゃって、わざとじゃなくて……って、あれ、あなたは」
がっかりするくらい惚けた顔をしている。
なにかの見間違いか。老女は嘆息しつつ、抱えていた野菜を机の上に広げた。
「なんの用だい? ただの迷子ってわけじゃないだろう。この森は森自体が意思を持つ。ワタシだって、鏡の悪魔の力がなければ入れなかっただろう」
「鏡の悪魔、ですか?」
「あんたの右手に喰らいついた奴だよ」
云われたルチルの手には、くっきりと噛み痕がついていた。
「奴の棲家である鏡にちょっかい出したのがいけないんだよ。手首ごと持っていかれなかっただけ、マシだと思いな」
老女は暖炉に薪を放り投げる。消えかけた火が勢いを取り戻し、室内を照らし出した。
「おばあさんは、どうして、この森に?」
「殺さなくちゃいけない人間がいる」
迷いのない言葉に、ルチルは唾を呑む。
「それは、昨日、毒リンゴを渡した女性ですか?」
暖炉を眺めていた老女は、ぴた、と動きを止めた。目蓋を覆う皺の合間から、美しい碧の瞳を覗かせる。
「あんた、エリィゼの知り合いかい?」
「……昨日、獣に襲われたところを、助けていただいて。ただ、その女性は、リゼルと名乗りましたけれど」
「ふん。強情な娘だ」
そこで会話は途切れる。
老女に訊きたいことはたくさんあった。けれど、黙り込んだ彼女の丸まった背中が、それを躊躇わせる。
「あの、これ」
ルチルが差し出した篭を、老女は睨みつける。危険なものを扱うように織布の端をつまんで持ち上げ、中身を確認した。
「プレッツェルだね」
「リゼルさんから、あなたへ」
素直に篭を受け取った老女だったが、ルチルの目の前で、火が赤々と燃える暖炉にそのまま放り込んだ。リゼルが心をこめて作ったプレッツェルは、燃え上がる炎に包まれ、あっという間に形を失う。
「…どうして」
「用事が済んだなら、さっさと消えてくれ。これは、親子であるワタシとあの小娘の問題で、坊やが関わる話じゃない」
結局ルチルは、大事なことをなにひとつ訊けないまま、外へ放り出された。
体に当たる雨はやんでいたが、霧に包まれた森の中は鬱蒼として暗い。
ルチルは重い足取りで歩き出したが、力が入らなかった。たまらず、ぬかるんだ地面に弱々しく座り込む。
「……親子? じゃあ、リゼルさんが云っていた、母親って」
うずくまり、膝を抱えるルチル。彼を取り囲む木々に、数十羽の鳥が留まっていた。
そこへ、一羽、また一羽と、どこからともなく飛来してくる。ここに集まることを約束されたかのように、枝という枝、木という木に、瞬く間に鳥の影が増えていく。
だが、ルチルはそれに気付かなかった。
「やっと行ったね」
カーテンの端からルチルの様子を窺っていた老女は、その姿が森の梢に消えたところで、ようやくため息をついた。
雨で冷えた体を暖めようと、ぱちりぱちり、とはぜる暖炉の前に椅子を運び、よいしょ、と重い体を乗せる。椅子が軋むのと同時に、ぱしっとなにかが砕ける音がした。
見れば、床に落ちたプレッツェルが、椅子の傍で割れている。
老女は短い手を伸ばしたが、お腹の肉が邪魔で届かない。仕方なく、のっそりと椅子から下りて、プレッツェルの欠片を拾いあげた。
「そういえば。あの子が初めて作ったお菓子も、プレッツェルだったね」
幼かったエリィゼは、プレッツェル独特の結び目を作るのにずいぶん苦労していた。
そして、焼きあがった中でいちばん形の良いものを選び、宝物をもつような優しい手つきで運んできた。とびきりの笑顔を浮かべて。
『これ、おかあさまの分。おかあさまに、いちばんに食べて欲しいの』
耳の奥に、エリィゼの明るい声がよみがえってくる。
「懐かしいねぇ。あのときのプレッツェルはホントに不味かった。死ぬかと思ったわ」
老女は笑みをこらえることができなかった。
『感傷に浸ってんじゃねーよ』
砕け散った鏡の欠片に、突然、巨大な目玉が浮かび上がった。さすがに老女もびくっとして、一瞬体を強ばらせる。
「あぁ、なんだ。あんたか。惨めな姿だねぇ」
目玉が浮かぶ破片を拾い上げ、机の上に置く。目についた大きな破片も一通り拾い集め、ジグソーパズルの要領で、つなぎあわせた。
『おいバアサン、脚の位置が逆だ。あ、おいそれは角だ、尻尾じゃねぇ。ああ、目玉そこじゃないから、お団子頭みたいになってるから、おかしいからっ』
「うるさいね。鏡を割られて、奥に引っ込んでいたんじゃなかったのかい」
『ほんのちょこーっと油断しただけだぃ。心配しなくても、おまえの願いはちゃんと叶えてやるよ。だから早く、あの女を殺せ』
容赦ない言葉に、老女はわずかにためらいをみせる。
「……前にも訊いたけど、あんた力で、殺すことはできないのか?」
『いくら悪魔のオレ様でもそれは無理だ。あの娘は森の悪魔と契約を交わしている。契約中の人間を別の悪魔が殺すことはできない。おまえの手でヤルしかない』
老女は、力なく頷く。そして、念を押すように訊ねた。
「あの子の心臓を手に入れたら、ほんとうに、叶えてくれるんだろうね?」
悪魔は笑った。
『あぁ、約束する。すべてが元通りになるさ。公爵夫人というアンタの地位も、若さも、美しさも。あの娘さえいなくなれば』
エリィゼが森に消えたあの日から、すべてが狂った。
夫は、エリィゼの面影を求めて、若い女のもとへと走った。
一方の自分は、いわれなき罪を着せられ、離縁され、粗末な生活を余儀なくされた。挙句、重い病にかかり、醜い姿に成り果てた。
すべての元凶は、エリィゼだ。
老女は、握りしめていたプレッツェルの欠片を、暖炉へと投げ入れた。
『森の悪魔が戻ってきちまったからなぁ、もう時間がない。オレ様が、鏡を通じて、とっておきの毒を用意してやるよ。今度こそ、〈白雪姫〉を殺すために』
鏡の中で、声高々に、悪魔が笑う。
「お帰りなさい。突然の雨、災難でしたね。すぐに着替えてください」
雨で濡れて帰ったルチルを、リゼルが出迎えた。ルチルを暖炉の間へと導くと、やわらかな布と着替えを準備してくれた。口数少ないルチルをいたわるように、声をかける。
「ちゃんと、届けてくださったんですね。ありがとうございます」
優しい声に、胸がきりりと痛む。
「どうして、リゼルさんは、あの人に命を狙われるんですか?……親子なのに、どうして」
リゼルはゆっくりと首を振る。
「仕方がありません。わたしは、わたしと関わった多くの人を不幸にする」
「不幸…」
「わたしの実の母は、毒の知識に長けた娼婦でした。生体実験の一環だったのでしょう。生後間もないころから、母乳や粉ミルクに混ぜて、わたしに微量の毒を服毒させました。わたしが笑えないのは、トリカブトによる顔面麻痺の影響なのです」
リゼルは、鏡でも見るように、ルチルの瞳を覗きこむ。
「六歳のとき母が亡くなり、わたしは公爵家に引き取られました。ですが、半年を過ぎたころから、体調を崩して病床に臥せる者が多発したのです。理由はわかりませんが、きっとわたしのせいです」
「でも、単なる偶然では」
「そうかもしれません。でも、症状が出たのは、同じ屋敷内にいても、わたしに関わった人だけだったのです。わたしは、わたし自身が怖くなった。長年にわたって体内に蓄積した毒が関係あるのではないのかと。ここにいてはいけない、そう思いました。ですから、八歳のあの日、わたしは自ら望んで首切りの木こりとともに森へ入りました。その木こりは、猊下が気まぐれに人に化けていた姿でした。幼かったわたしは、獣の餌にするにはまだ小さすぎたので、そのまま生かされ、街へは、猊下の手によって、獣の骨が遺骨として持ち帰られました」
リゼルは胸に手を当て、ふかく息を吐いた。
「わたしは安心しました。これでもう誰も傷つけずに済む、と。ですが残された母は、きっと辛い思いをしたのでしょう。だからこそ、わたしの命を狙い、この森へ」
「そんなの、おかしいですよ」
ゆっくり息を吸いながら、ルチルは呟く。
「おれには母の記憶はありません。けれど、その存在を思うだけで、不安も恐怖も薄れていく気がする。とても温かいものです。親子は、憎しみや殺意をやりとりする関係じゃない。リゼルさんはそれでいいんですか?」
「母は、云いませんでしたか? わたしを殺す、と。母の願いはわたしの願いです」
老女のもとに自分が差し向けられた理由。今更ながら、ルチルはそれに思い至った。
「八年前、猊下に森の番人を命じられたとき、わたしは条件を出しました。この森の中に、いかなる危険があろうとも、わたしを殺すことができるのは、母だけになるように、と。わたしを含む、他の何者も、わたしの命を奪うことができない。そのように呪ってください、運命を変えてください、そうお願いしました。猊下は了承し、わたしたちは契約を交わした」
「でも、あの人が殺し来るかどうかなんて、八年前にはわからなかったはずでしょう」
リゼルは窓ごしに外を見つめた。老女が住む家の方角だ。
「笑ってください。一度は死を覚悟したのに、急に欲が出たのです。どうせなら、死ぬ前に母の顔が見たい。いっそのこと、母の手で殺されたい。そう願ったのです。母が来るかどうかは、正直、わかりませんでした。来て欲しい、と、来て欲しくない、相反する想いに、ずいぶん心を揺らしました。そして、母は来た。わたしを殺すために。だから、わたしは」
「だから、嬉しかったんですね」
ルチルの言葉に、リゼルは、目を丸くした。ルチルは身を乗り出し、青い瞳を覗きこむ。
「あなたがほんとうに願ったことは、母親に殺されることじゃない。そうでしょう?」
ほんとうは、心のどこかで期待していたはずだ。
『お待たせ、エリィゼ。迎えに来たよ。さぁ一緒に帰ろう』と手を差し伸べられるのを。そしてその手をとって、森の外へ出る瞬間を、何度も何度も、夢見たはずだ。
「わかりません」
リゼルは首を振った。
「今年の春、八年ぶりに母の姿を見た、あのときの気持ちを、なんと云ったらいいのか、わかりません。ただただ、泣きたくなりました。母の胸に飛び込んで、大声で、泣き叫びたかった」
リゼルの頬から、一筋の涙がこぼれるのを、ルチルは見た。
「わたしが願ったとおり、母は来た。それなのに、わたしはまだ死ねない。母の手作りの毒をいくら摂取しても、わたしの息は止まらない。早く死んで、母を安心させてあげたいのに、猊下との契約が仇になって、わたしは自分を殺めることすらできない」
泣き崩れるリゼル。ルチルは、願った。
どうか、彼女が心から幸せになれますように。そう願わずにはいられなかった。
翌日は、朝から雨だった。
ルチルは暖炉に薪をくべ、室内を暖めていた。リゼルは厨房に立ち、朝食の仕度をしている。
『ルチル、考え事ぉ?』
甲高い声。レディだ。長い尻尾を視界に入れつつ、ルチルは、ぱちりぱちり、とはぜる薪を眺めていた。
『当ててあげる。リゼルのことでしょう?』
「えっなんでわかって」
『顔に書いてあるわ。りぜるさんのこときになりますーってね』
レディはひとしきり笑ったあと、顔を赤くしてうつむいているルチルを見遣った。
『あの子のことが好きなんでしょう』
「そんな感情は知りません。…ただ、一緒にいると、落ち着きます。だけど、不安にもなります。嬉しくもなるし、怖くもなります」
するとレディはひときわ高い声で笑った。
『なにそれ、おかしいわ。まるで人間みたい』
「……なにがおかしいんです?」
『あれ、まだ気付いてないの。自分のこと』
レディの言葉に、ルチルは身を乗り出す。
だが。
「おかあさま」
リゼルが厨房から飛び出してきた。窓辺に駆け寄り、手のひらをこすりつける。
雨が多いこの季節。霧が立ち込め、どこまでも白く覆われる森の中を、人影が向かってくる。片手には、老人のもののような杖。もう片手には、籐の篭。白い吐息は、霧の中に混ざりこんでいく。
ルチルは気付いた。昨日会った老女は、杖なんて使っていなかった。何かと引き換えに、悪魔に生命力を奪われたのだ。
「きょうは、雨なのに。……あんなに濡れて」
リゼルはありったけの布を抱えて廊下に飛び出したが、思い出したように戻ってきて、机の上に置いてあった『ほほえみ殺し』の仮面を掴んで再び駆け出した。偽りの、けれど精一杯の〈笑顔〉で、母を出迎えるために。
ほどなくして、リゼルの明るい声が響き渡った。
おばあさん。おばあさん。おばあさん。
リゼルが心をこめて口にする呼び名は、仮面と同じで、どこか上辺だけのもの。
ほんとうは呼びたい名があるはずだ。
『おかあさん。おかあさん。おかあさん』
傍らにあった鳥かごの中から、声がした。
ルチルはちらりと視線を向けてみたが、やはり鳥かごの中には何も存在しない。
ただ、声を。リゼルの心の声を拾いあげる。
そう、この鳥かごは、リゼルの心そのものなのだ。
『おかあさん。わたし、死にたいの。どうやったら、死ねるのかしら』
「少年。早いな」
飄々とした声は、すぐとなりから聞こえた。
驚いて体を反転させると、いつからいたのか、ジストが珈琲を愉しんでいるところだった。優雅な姿に反して、後頭部の毛は見事に反りかえっている。
「おはようございます。……寝癖、すごいですよ」
「おお、いかん。リゼルに笑われてしまう」
これがふつうの会話なら、聞き流すところだが、ルチルは突っかかった。
「彼女が笑えないことを、あなたはご存知でしょう?」
ジストは紫電の瞳を細め、口角をあげた。
「どうした。やけに血気盛んだな」
「――いま、あの女性が来ています」
「偏頭痛が起きそうなこの低気圧の中、元気なことだな」
こちらの言葉を、意図を、するりとかわされる。単に惚けているだけとは思えない。
「ジスト様。単刀直入にお伺いします。八年前、どうしてあなたはリゼルさんの命を助け、森に留めたのですか?」
ルチルのまっすぐな瞳。ジストはそれを面白そうに眺めている。
「云っただろう、私は悪魔だ。悪魔が人間に関わる機会は、ごく限られている。人に呼び出されて契約を結ぶとき、契約が果たされたとき、そして、欲望を蒐集するときだ」
ルチルは、はっとした。
「――まさか、自尊心、の」
「八年前、人に化けて街へ出ていた私は、縁あって、リゼルに会った。初めて目にした彼女は、顔は整っているが、痩せ細った貧弱な娘だった。なんの興味もなかった」
斬首を頼まれ、森に入ると、リゼルは闇雲に歩き始めた。怖気づいて逃げるのかと思いきや、紅葉の美しい湖のほとりで足を止め、髪を梳かし、紅葉で髪や衣服を飾り、唇に紅を引いた。そして満足したように、「さぁ、どうぞ」と自ら首を差し出してきた。
「その高潔な姿を目にして、初めて「美しい」と思った。深い後悔の念、死に対するまっすぐな眼差し、そして死の直前に輝きを増した自尊心。ぞっとした。この私が、畏敬の念すら抱いたんだ、わずか八歳の子どもに。そして、見てみたいと思ったんだ。もう数年、年を重ねた彼女の自尊心が、どんなふうに輝くのかを」
「勝手すぎる」
たまらずルチルは叫んだ。ジストは知っているのだ。リゼルの想いも、あの老女が母だということも。ぜんぶ知っていて――。
「悪魔とは、そういうものだ。狡猾で、醜悪で、残酷で、欲深い」
「なら、森を出ることすら許されないのは、何故ですか?」
「森が一番安全な場所だからだ。〈白雪姫〉でもある彼女の魂は至純。心臓は極上の味がする。それが悪魔にとってどれほどの魅力をもつか、おまえは知らないだろう」
ジストにとっての安全。それはすなわち、自分の欲を満たすため、他の悪魔にリゼルが狙われないよう守ることだ。
「おれは知りたくもありません」
ルチルは、机を叩いて立ち上がった。憤りをあらわに、足音を立てて部屋を出て行く。
残されたジストは、ずずー、と珈琲を飲み干す。
『相変わらず嘘がお上手ですね』
後ろから伸びてきた長い尻尾が、ジストの首に絡みつく。
「レディ」
ジストは鼻をむずむずさせる。レディは主人のアレルギーが反応しないよう、前には回らず、尻尾だけを揺らした。
『リゼルと長い時間をともに過ごしたことで、手を出せなくなった、と素直に口にするのが恥ずかしいのでしょう。猊下』
「知ったふうな口をきく」
『バレバレです。厄介なものですね。人に関わる、ということは。この八年で、リゼルはますます美しくなった。あと十年、二十年、もっと美しくなるでしょう。そうして、やがて年老いて――逝ってしまう。ですから猊下は、あまり城に近寄らないのでしょう、つらくなるから』
「……おまえは笑うだろうが、私はリゼルがいなくなる日のことを考えるだけで、おかしくなりそうなんだ。悪魔で、魔王の、この私が。あんな小娘の存在ひとつで、こうも胸を衝かれる。この感情は一体なんなのだろう。なんと呼ばれるのだろう。リゼルは知っているのだろうか」
ジストの悲痛な問いかけに、レディはただ首を振った。
『残念ながら、一介の使い魔でしかない我々は、答えをもっていません。そしておそらく、リゼルは、自分の中の感情に気付いていないのではないですか? だからこそ、アレを生んだのでしょう。人に似た、人の心がわかる、しかし人ではないあの悪魔を』
「エリィゼ。きょうこそはあんたも終わりだよ。とびっきりの毒を染みこませたからね」
勇む老女を、リゼルは包み込むような笑顔で見つめている。
「それは楽しみです」
老女は毒リンゴを取り出した。紫色に変色したそれは、とてもではないが口をつけたくなる代物ではない。
鏡の悪魔は云った。エリィゼは毒に対する耐性をもっているだけでなく、この森に守られている。だから、この森に生きる動植物でいくら毒を精製しても無駄。殺害するなら、外部の毒でなければならない、と。
リンゴには、バトラコトキシンという毒が注入してあった。はるか遠い南米に生息するヤドクガエルを生きたまま串刺しにし、火にあぶって苦しませることで、皮膚から分泌されるものだ。動物毒の中では最強と云われており、わずか0.002mg接種しただけで、人を死に至らしめる。
「いただきます」
差し出されたリンゴを、リゼルは宝物のように受け取り、一口、かじりついた。
老女は、唾を呑む。
ごくん、と音を立ててリンゴの欠片がリゼルの体内に落ちていく。
沈黙がおりた。長く、短い、時間だった。
「――おかあさま。ありがとう。それから、ごめんなさい」
リゼルの細い体が、糸の切れた人形のように傾いだ。橙色の落葉に染まった地面に受け止められる。はずみで仮面が外れた。長い髪が広がり、白い肌はより白くなり、指先からはリンゴが転がり落ちる。
「リゼルさんッ」
駆け寄ろうとしたルチルは、レディの巨体に止められた。レディは長い尻尾を揺らし、見ていなさい、と制す。
『やったな、バアサン。さ、ナイフを出せ。〈白雪姫〉の心臓を奪うんだ』
どこかで鏡の悪魔の叫び声がする。だが老女の耳には届いていなかった。
「……え、りぃ、ぜ」
娘の名前を、弱々しく呟いて、ぴくりとも動かないリゼルに近づく。
「エリィゼ。ほんとうに、死んでしまったのかい? 嘘だろう? 死んだ振りだろう。そうやって母さんを困らせる気だろう。ねぇエリィゼ、聞こえているんだろう」
ぽつりぽつりと、涙が落ちる。
「夫は他の若い女に手を出して、アタシは捨てられたんだ。ひとりになったんだ。エリィゼ、あんたが死んでしまったら、ワタシは、ほんとうにひとりぼっちになってしまう」
「…では、なぜ命を狙ったんです?」
進み出たジストが、静かに問いかける。
「エリィゼが去ったあと、わたしは大病を患った。苦しくて辛い闘病生活を送る中で、どうしようもなく、エリィゼを憎んだ。そんなとき、鏡に、奴が現れた。ワタシが美しかったころの姿を映し出し、森の奥深くで生きているエリィゼの心臓と引き換えに、若さを戻してやる、と。だけど、この森で再会し、あの子の笑顔を見るたびに、心が揺れた。でももう、後戻りできなかったんだ」
それは懺悔のようだった。だがジストの言葉は容赦ない。
「お言葉ですが、悪魔は与えることなどできない。奪うだけだ。鏡の悪魔によって、生命力を奪われていることに、あなたは気付きませんでしたか? リゼルは知っていた。だからこそ彼女は、死にたがっていた。自分が死ねば、あなたは悪魔から解放され、街で平穏に暮らせると信じていたのです」
老女の瞳から、次々と涙がこぼれ落ちる。その涙を、他でもない、リゼルの手が拭った。
「泣かないでください。お母様」
わずかに唇をあげ、微笑むリゼル。老女は驚きで言葉も出ないようだったが、涙だけがポロポロと溢れた。
リゼルはゆっくりと体を起こし、寄り添うようにして老女を抱きしめた。
「ジスト様、どういうことですか?」
ルチルの問いかけに、ジストは腕を組む。
「今回はかなりの猛毒だったのだろう。一度は心臓が止まった……が、死にきれなかったようだ。私と契約しているリゼルは、私の母である森の子どもでもある。森は、自らの体内で、自分の子どもを見殺しにはしない」
「じゃあ、これまで毒が効かなかったのも」
「だから云っただろう。森が一番安全な場所だ、と。森にいる限り、彼女は守られる。リゼルは母に殺される契約を私と結んだが、すでに有名無実化している。さすがの私も、リゼルを生かそうとする母の意向には逆らえないのだ」
肩身狭そうに、ジストは肩をすくめた。
『くそっ仕方ねぇ。心臓は諦めてやるが、魂だけはオレ様のものだ』
老女の懐から、するりと手鏡が転がり落ちた。鏡を突き破って、黒い影が飛び出してくる。一瞬で、リゼルの胸を貫いた。
目を剥くリゼル。
現れた黒い影は、三つ目の梟だった。嘴にキラキラと輝く石を咥え、西の空へと飛び去っていく。
「追いますッ」
反射的にルチルが走り出した。
その瞬間、森がうごめいた。数千羽という鳥の群れが一斉に羽ばたいたのだ。ルチルを追っていく。それを見ていたレディは開いた口がふさがらなかった。
『あら、なんて数なの。あれ全部、あの子?』
梟を懸命に追ったルチルだったが、木々に隠されて姿を見失ってしまった。
(匂いはする。けど、姿が見えない。それに)
辺りには、夜闇のような深さが広がっている。風はぴたりとやみ、生き物の気配がまるでしない。
(まずいな。鏡に、取り囲まれている。あの悪魔の領域だ。…でも、そうだとしたら、近くにいる証拠だ)
ルチルは覚悟を決め、そのまま真っ直ぐ走った。すこしして、体を跳ね返す感覚に当たった。鏡の領域の突き当たりだ。ここを抜ければ。
ルチルは体当たりして、鏡を突き破り、領域の外に転がり出た。
けれど。
不自然に、体が宙を舞った。
はっと目を開けると、切り立った崖が見えた。罠だと自覚するも既に遅く、ルチルの体はまっすぐ谷底へと堕ちていく。
目をつぶった。風がごうごうとうなる。
そして――――衝撃。
谷底に叩きつけられた体が、骨が、音を立てて壊れ、ルチルは自分が死んだのを知った。
ルチルは、夢を見ていた。
ぼくの、おかあさんは、どこだろう。
あたたかな光があふれる街の中で、ルチルは生まれた。
近くにいた人間たちは、化け物でも見るような目で、ルチルを遠巻きに見ていた。
ここには、ぼくの居場所はない。
おかあさんを、探さないと。
だって、ほら、また、泣いている。
ぼくの空っぽの胸がキシキシと痛むのは、きっと、おかあさんが泣いているからだろう。
おかあさんを、探しに行こう。
ひとりぼっちで泣いているおかあさんを。
「目が覚めたか。少年」
目蓋を押し上げると、自分を覗き込むジストの姿があった。その手には、ルチルの鳥かごを携えている。
「自分の〈本体〉を置いていくなどと、ずいぶん無謀だな」
「……ほんたい?」
「この鳥かごは、元々リゼルのもの――正しくは、リゼルが心の中に持っていた〈淋しさ〉の象徴だ。おまえはそこから生まれた」
ジストの言葉の意図を探りながら、ルチルは自分の体の状態を確認した。
あれほどの高さから落ちたにもかかわらず、痛みもなければ、出血もない。骨は不自然なところで曲がっていたが、すぐに元に戻った。これではまるで、馬車ごと落水しても無傷だったジストのようだ。
「少年。そろそろ『正解』を教えてやろうか?」
勝ち誇ったような顔。すべてを知っているような顔。
「いえ、結構です」と云いながら、ルチルは瞬きした。その瞳は、あざやかな朱色に変わっている。
「あなたに恩を売るのは、なんだか対等ではない気がする。いまは、こうして動けて、リゼルさんの魂を奪った悪魔を追える。それだけわかればいい」
跳ね起きたルチルは、鳥かごを受け取ると、ジストが乗ってきた髑髏馬にまたがった。
「すこしの間、借ります」
馬を乗りこなし、地を駆けていく。残されたジストは、ぴくぴくと片目を引きつらせた。
「あのガキ、云ってくれるな。高位の悪魔であり魔王でもある私と対等だと?」
森の果ての巣にたどり着いた鏡の悪魔は、リゼルの魂を満足げに見下ろした。青く美しい〈白雪姫〉の魂。それは至純。
『大物悪魔がいるところで、この収穫は大したものだ。オレ様、かっこいー』
さて、一口。
かじりつこうと歯を剥いた瞬間、横から魂を奪われた。犯人は、黒い翼をもつ鷹だ。
鷹は、スイッとすべるように宙を舞い、外にいたルチルの肩に舞い降りた。
「良かった。無事だった」
リゼルの魂を手にしたルチルは安堵の息をもらす。
『返せッオレ様のモノだッ』
いままさに、というところで獲物を奪われた梟は、怒り狂って飛び出してきた。
鏡の領域を築き、再びルチルを翻弄しようとする。
しかし、ルチルは哀れみの表情を浮かべていた。
「莫迦だね。取り囲まれているのは、おまえのほうなのに」
森が、ざわめく。
周囲に集まっていた何千という鳥の群れが、弾丸のような速さで領域に突撃し、鏡の領域を粉々に打ち砕いた。
鳥の大群は、ギィギィと口々に鳴きながら、目を赤く光らせて、次の狙いを鏡の悪魔に定めた。ルチルは、静かな声で告げた。
「みんなお腹を空かしているんだろう、食べていいよ。だけど、心臓だけは残しておいて」
鳥の羽音と、肉を貪る音が、空に響く。
先ほどの鷹が、真っ赤な心臓を咥えて、ルチルのもとに戻ってきた。
まだ、あたたかい。
ぼんやりとそれを見つめていたルチルは、ようやく自分が何者かを思い出した。
いまここにいる自分、そして夢で見た翼をもつ自分。どちらも自分だったのだ。
ルチルは、手を掲げると、口を開いて、悪魔の心臓を飲み込んだ。ごくり、と喉が震え、唾液とともに体の奥底へ落ちていく。
「…っはぁ。マズイ」
ルチルは、苦い薬を飲み込んだ子どものように顔をしかめた。手の甲で唇を拭いながら、苦しげに唾を呑む。
「リゼルさんの手料理のほうが、何千倍も美味しい」
遅れてやってきたレディは、すべてを見ていたかのように、ため息をついた。
『坊や、見かけによらず残酷なのね』
「……だっておれ、〈悪魔〉だから」
そう云って笑った顔は、いつものルチル。
ルチルが鳥かごの扉を開けると、周りにいた鳥たちがゆっくりと集まってきた。鳥の姿形を失い、風になって、吸い込まれていく。
あとには、静けさだけが残った。
『それにしても、悪魔を食べる悪魔なんて、聞いたことがないわ。ずいぶん厄介なものを生んだね、リゼルは』
ルチルはややムッとして云い返した。
「おれのお母さんの悪口を云うな」
「こンの不届き者がっ」
リゼルの魂を手にルチルが戻ったとき、ジストの頬には、ビンタの痕がくっきりと浮かんでいた。
「この若造、エリィゼが眠っているのをいいことに、キスしようとしたんだよ」
握り拳を震わせ、息荒く叫ぶ老女。
ルチルとレディは、居心地悪そうに座っているジストを白目で見遣った。
「……ジスト様、見損ないました」
さすがに自尊心が傷ついたらしく、ジストが抗議の顔で立ち上がった。
「眠っている美女の目覚めには聖なる口づけが必要だと、書物に記してあったのだ」
「それを口実にするあたり、悪魔の風上にも置けない変態です」
ルチルはぴしゃりと言い捨て、二の句を継げないジストを横目に、老女に歩み寄った。
「リゼルさんの魂です」
優しい声で促し、老女の握り拳を開かせる。皺だらけの手の中に、そっとそれを下ろした。リゼルの眼と同じ青い石だった。
「あなたの手で、返してあげてください。たぶんそれが、リゼルさんの望みです」
ためらう老女の背中を、ルチルが押す。
老女は、緊張した面持ちで、寝台に横たわるリゼルのもとに歩み寄った。
胸の上で指を組み、息をしていないリゼル。その真上に、老女は腕を差し出す。震えていた。いままさに、その手を傾け、魂を返そうというとき、
「待て」
ジストが声をかけた。ルチルは思わず非難の声を上げようとしたが、いつにないジストの真剣な眼差しに、言葉を飲み込んだ。
「彼女に魂を戻す前に、あなたの覚悟をお聞きしたい」
「覚悟、だって」
「魂を返すということは、いま再びリゼルが目覚め、生き続けるということだ。彼女にとって、生きることは、愛する母に命を狙われ、孤独な日々を送ることだ。だから彼女は死を望んだ」
「ワタシに、どうしろっていうんだ」
乾いた声で、老女が返す。
「それを聞いているのだ。生き返ったリゼルが心待ちにしたくなるような未来。それを約束する覚悟と決意があるのか、ないのか。魂を返すあなたには、母として、答える義務がある」
老女は、肩を震わせた。生唾を飲み込んだ。
「それが出来ないのであれば、彼女の魂は私が引き取り、蒐集品に加えるまで」
「――舐めてもらっちゃ困るよ」
老女が、低い声で、せせら笑った。
「母親がどれほど強いのか、あんたは知らないだろう? こっちだって眠いのに本を読んでくれとせがまれたり、包丁で指をことんと落とすんじゃないかとハラハラしたり、急にいなくなったり、泣いたり笑ったり、好き嫌いがあったり。毎日が戦争なんだよ。生半可な覚悟じゃ足りないんだよ」
曲がった背中をスッと伸ばし、老女――リゼルの母は、手を広げた。
菫青石の魂が、淡く光りながら、ゆっくりと下りていく。リゼルの体に吸い込まれると、呼応するように、胸が上下した。
「さて。エリィゼが目覚めたら、本当に美味しいプレッツェルを作ってあげようかね」
優しい声で、母親は笑った。
――そして、収穫祭の朝。
「ルチル。ルチル、早く起きてください」
乱暴に蒲団を剥がされたルチルは、寝台から転がり落ちた。床に頭を打ちつけ、うめきながら顔を上げる。
「リゼルさん、動いて大丈夫なんですか?」
昨夜遅く目を覚ましたリゼルだが、魂が一度離れるということは、体には相当な負担があるはずだ。だがリゼルは、無表情のまま、平気です、と頷いた。
「きょうは収穫祭ですよ。たくさんの料理を用意しなくては。森の獣たち、城で蒐集している猫たち、そして、ルチルが連れてきた鳥たち。考えただけで目が回りそうです」
慌しく出て行くリゼルを、ルチルは黙って見送る。
(……結局、なにも、変わらないのかな)
この一件で、なにかが変わるのかと思っていた。けれど、リゼルは変わっていない。
(あぁ、お腹、すいたな)
ルチルは腹を撫でた。いつになったら、充たされるのだろう。
着替えを済ませて裏庭へ出ると、薔薇の木を植えた広大な庭園に、数十人用の長机が並べられ、新鮮な果実が取り分けられていた。
「あれ、ジスト様。お早いですね」
庭の一角でくつろいでいたのは、夜行性だというジストだ。
「リゼルに叩き起こされたのだ。寝台をひっくり返された」
「はは、さすがリゼルさん」
初めて会ったとき、斧を手にしていた女神のようなリゼルを思い出した。
あのときは思いもしなかった。まさか目の前の女性が、自分の母親だなんて。
「ジスト様。おれは、最初、街で生まれたんです。リゼルさんが望んでいた森の外で。だけどおれは、胸が痛くて、ただ、淋しかった。だから、母親を求め、森に強引に入ろうとしました。でも、森のほうが強くて、おれはおれ自身を細かく分けて、鳥や人の姿で、すこしずつ入り込むしかなかったんですよね。その影響で記憶も飛んじゃったみたいで」
「うむ、異国の地にいた私も、母の身に迫る巨大な悪魔の存在を感じた。だからこそ急ぎ戻ってきたのだ」
いまならわかる。出会ったときの、ジストのあの鋭い眼差しの意味が。
森に危害を加えるのではないかと、ジストもまた、母の身を案じていたのだ。
「どうしてジスト様は、おれを殺さなかったんですか? 他の悪魔の侵入を許すなんて」
ジストは即答しなかった。言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開く。
「リゼルに近い存在だとわかったからだ。それに、おまえは悪魔の一部でしかなかったから、いざとなればいくらでも手の打ちようはあると思った。――そして、期待もあった。リゼルが、変わるかもしれないと。それは私の願いでもあった」
「願いは、叶いました?」
「もうすぐ、わかる」
立ち上がったジストは、庭先に姿を見せたある女性を迎えに行った。
あざやかな赤い長衣をまとった女性だ。
「ようこそ、フラウ。いえ、貴女はフランスの出身でしたね、マダム・カトリーヌ」
もしかして、とルチルは目を瞬かせる。
唇に朱を差し、化粧を施したその女性は、どことなくリゼルに似ている。
「お母様」
厨房にいたリゼルが、レディに呼ばれて駆け出してくる。
「手伝いに来たよ。女ひとりじゃ、いろいろと大変だろう」
母親がいれば百人力。戸惑いつつ、リゼルは唇をきゅっと引き結んだ。そして。
(……あ。笑った)
リゼルが笑う。
花がほころぶような、心からの笑顔で。
ルチルは自分の腹を撫でた。しきりに空腹を訴えていたが、いまは、いっぱい。
欲しかったものは。
お母さんの、この笑顔。
暗い森の奥のそのまた奥。
賑やかな笑い声が、きょうもまた、聞こえてくる。
――ところで。リゼルとルチルが知らないところで、こんな会話が交わされていた。
「ねぇ変態悪魔。ひとつ確認だけど」
「いたた、耳を引っ張らないでください、マダム。なんですか、その不愉快な呼び名は。崇高なる私の名は、」
「ルチルだっけ? あの子ども、どうしてエリィゼの料理を食べて平気なんだい?」
「……恥ずかしながら、悪魔のこの私も、彼女の料理だけはどうしても食べられません。野生のヒグマも悲鳴を上げて逃げ出すような代物です」
「あの子は器用で、きれいな料理を作るけど、とんでもない味覚オンチなんだよ。本人に自覚はないけれども。街にいたころ、屋敷の人間はことごとくエリィゼの魔の料理の犠牲になったんだ。ワタシのレシピを使っていたから、毒の貴婦人と呼ばれてワタシが罪に問われたんだよ。とんだとばっちりさ」
「お気の毒に。まぁ、だからこそ、ルチルが生まれたのではないでしょうか? 自分の手料理を美味しいと食べてくれる存在が欲しかったのでしょう」
「ジストだっけ。あんた、もしエリィゼを嫁にするつもりなら、まずあの料理を克服するんだね。とりあえず、さっきあの子が作ったサントノレ、食べてみな」
「…………私はいま、とんでもなく生命の危機を感じています」
ご覧頂き、ありがとうございました。
結果は選外でしたが、個人的にはとても楽しく創れました。
またこれからも頑張ります。